Vtuber底辺論~個人底辺Vtuberの私が個人底辺Vtuberリスナーの私に捧げる弔辞~
はじめに
けど、いつか終わりはくる。
嫌でも考えてしまう、「私たち」は早すぎるから。
「私たち」が自転車で必死に追いかけても、
「私たち」は電車に乗って離れていくんだ。
…だから「私」はここで、残りの時間、
「私たち」の配信の走馬燈を思い返し続けることにする。
「私たち」の終わりを、しることのないまま。
1、Vtuberは「死ぬ」
Vtuberはニコ生やアニメやアイドル文化の影響を決定的に受けて、恐らくは初音ミクさんに直接の起源を持つ文化だと私は考えている。
ただ、これらのコンテンツと決定的に異なる点がある。それは、Vtuberは「死ぬ」ということだ。
そう、「死ぬ」。
漫画なんかはコンテンツとして「死なない」。例えば、私はNARUTOが好きなんだけど、NARUTOは第72巻を以て完結した。だけどそれは「死」だろうか?違う。物語の外部にいる私たちにとって、NARUTOを読むということは「NARUTOの世界を少しだけのぞき見させてもらっている」だけ。描かれていなくても、ナルトは任務と任務の合間にラーメン喰ってるだろうし、作中の描写ではあんなにカッコつけてたサスケだって、飯食ってクソして寝るし、私の敬愛する大蛇丸様だって多分好物の卵料理を召し上がってご満悦な瞬間があるんだよ。優勝していくわよ。ただ、私たちはそのタイミングで見ていないだけ。
だから、作品としてのNARUTOは終わっても、「うずまきナルト」がNARUTOの世界では生き続けている(まぁ続編のBORUTOで死ぬかもしれないけど)。だから一度生まれた世界は「死なない」。
3次元の芸能人だったら?引退したとしても「あの人は今!?」的な番組に出てたりするだろう?
じゃあ、Vtuberは?動画を上げなくなったら、配信を止めてしまったら。その人がネット上にあらわれなくなったら?それは作品の完結とも、芸能人の引退とも違う、存在そのものが消えてしまうこと。痕跡は残る。でもそれはローマ帝国の遺跡を見るのと同じだ。そこにローマ人はいない。
だから、Vtuberである「私」にとっても、リスナーである「私」にとっても、Vtuberの「死」は、いつかやって来る、未来だ
「引退」?未来に希望が持てる
「卒業」?新たな旅立ちを思わせる
でも、違う。そんなことじゃないことは、「私たち」だって「私たち」だってわかってるだろ?
これは大手個人関係なく、皆に等しくやってくる未来だ。我々の技術をもってしても、未だ完全な不老不死が完成していないように。子供が大人になり、そして老いていくように。
「私たち」はいつか呟くんだ。「私たち」はいつか目にするんだ
今まで応援してくれた皆さまへ 大切なお知らせ
っていう配信タイトルを。
いや、そういうのがあるだけまだましなのかもしれない。
個人勢界隈では概ね1週間に1回ぐらいRTされてくる。メモ帳で4枚のスクショ。「突然ですが、様々な事情により〇月末で引退することになりました。皆さんと居れて楽しい時間でした。ラストまであとわずかですが、精一杯頑張りたいと思います」みたいなやつ。
もっとキツいのはいつの間にかいなくなっていること。
どんなに綺麗ごとで隠したって、そこにあるのは「死」だ
「私たち」はいつも死の淵で踊る
だから、私は「推しは推せるときに推せ」という言葉が嫌いだ。「推せるとき」は今しかない。新幹線のようなスピードで生き急ぐ、未だ発展途上のVtuber界隈では、「推せるとき」なんて悠長な事いってられないんだ。推しは「今」推せ。毎秒推せ。
2、リスナーは無力だ
じゃあ、リスナーに出来ることはあるのか?それはミクロに言えばあるかもしれない。例えば、スパチャ。生活に困らなければ、生活苦から別な仕事を加えて、それに忙殺されて引退することはないだろう。例えば、コメントすること。特に個人勢は1つのコメントで1回分の命を繋いでもらっているといっていい。リアクションがないなか配信するのは、動画投稿するのは、本当につらいからだ。
だけども、それだけではどうにもならない理由はいっぱいある。一番バカな例だと、PCぶっ壊してデータ飛んじゃったとか。そういうのでもVtuberを続けていけなくなってしまう。そうじゃなくても、方向性の違いとか、グループの仲たがいとか、理由なんてどこにでも転がっている。
だから、リスナーである「私たち」にとって、推しが引退する、「死ぬ」ことに対して出来ることは、大局的には、無い。
だからこそ辛い。何もできずにVtuberが「死んでしまう」ことへの無力感。
だからこそ「私たち」は、推しが「死んだ」ときに、自分たちをせめてはいけない。「もっと推していれば、FA描いていれば、切り抜きを作っていれば」なんて考えても仕方ないわけだ。
推しは死に、私たちはそれに対してなにもできない。「死」を迎えるVtuberなんて、最初から出会わなければよかった?
推しの引退の前に見るのをやめて、昔の思い出を永遠に、そのVtuberの走馬燈だけを、みていたくなる
3、Vtuberが生きた証を魂に刻め
じゃあどうやって推しが生きていたことを覚えておけるだろうか。
一番わかりやすいのは、グッズを買うこと。モノが手元にあればすぐに忘れることはないだろう。
あるいは、スパチャをすること。「あの頃は若くて、ついつい無茶なお金の使い方しちゃったよな~」って感じの記憶とともに、スパチャを投げた瞬間の記憶を持つことはできるんじゃないだろうか。目玉の飛び出るようなクレカの使用履歴を見たら、それはそれで記憶に刻まれるだろう。これを読んでいる人の中にもいるんじゃないの?私もちょっとそう。
じゃあ、グッズもなくて、赤どころかスパチャも開放されていない個人底辺Vtuberは、どうなんだろう。
「お前のスパチャで世界を救え」というフリーゲームがある。私もプレイした。あれはVtuber、しかも個人勢(とはいえあのゲームに出てくる春樹花にあちゃんは収益化ライン到達している強者であるが)が突然失踪して引退するところからゲームが始まる。その時に「ネットで大きな話題になることもなく」消えてしまった、と描写されるのだ。
大局的に見れば、個人底辺Vtuberは活動開始しようが引退しようが、ネットで話題になることもなく、いたことすらもいなくなったことすらも知られないまま、ただただ消えていく。何の痕跡も残さずに、「生きていた」ことすら知られないまま「死んで」ゆく。
「私たち」は最初から「死んでいる」?あるいは、生きていたとしても「死」とともに忘れられる存在なのか?例えば私がいつの日かいなくなって1年後、私の事なんてすっかり忘れてる?
これは私が嫌いな小説なんだけど、大崎善生という人が書いた『パイロットフィッシュ』と『アジアンダムブルー』っている小説がある。そこには「人はみな、一度出会った人とは、永遠に別れられない」という言葉がある。一度出会った人からは、どんなに小さなことでも影響を受けたり、記憶に残ったりする。その影響や記憶がある限り、その人はそこにいて、つまり別れられないってこと。
Vtuberとリスナーは、出会ってしまったらもう二度と別れられない。
きっと「私たち」は電車に乗って進んでしまう。行き急いでしまう。そうしてその先に見える「死」に向かって全速力で走っていく「私たち」を、それでも忘れないでほしい。魂に刻み付けて欲しい。
そして願わくば、あなたの見る最期の走馬燈に、私の姿が映っていてほしい。
反対に、個人底辺Vtuberを見ているリスナーは、そのVtuberのことを走馬燈に見るぐらい「推す」んだ。電車に乗って遠くに去ってしまうVtuberを見て必死に追いかけていかなきゃなんだ。
走れ
自転車に乗れ
錆びついた車輪は悲鳴を上げても
それを蹴り飛ばしてバイクに乗って追いつけ
それは、単に時間を使ってアーカイブを1000週するってはなしじゃあない。そのVtuberの魂に共感するんだ。朝起きて、夜寝るまでに思い返すんだ。メシを喰うときに「あのVならこんなとき何を食べたいっていうかな」って考えるんだ。人生の節目に思い返せ!
そうやって、私たちが「死ぬ」ところを見届けてほしいんだ。見届けたいんだ。「私たち」の終りを知ることのないまま、楽しかった走馬燈だけを見るんじゃなくて。私たちの「死」を見届けた上で、それでも一緒に生きていきたいんだ。一緒に生きてほしいんだ。
そうすれば、もしかしたら、死後に「私」を知った人も、あるいは追悼のような意味で、一緒に生きていけるかもしれない。
私の尊敬する、Vtuber界の委員長、月ノ美兎さんのファンメイド楽曲、そしておそらくは彼女の代表作の1つ「Moon!」には
「一緒に精一杯 この世を生きましょう」
とある。
「私たち」は「私たち」と一緒に生きていってほしいんだ。
おわりに
別に私はまだ「死ぬ」つもりはない。こんなところで「死んだ」ら、生命を操る我々の面汚しよ
それに、私の痕跡は多分ちょっと先まで残る。まだ未公開扱いだけど、私が受けたインタビューを利用した作品が、ある大学に収蔵されることになったからだ。もしかしたら100年後の映像の世紀で私と会えるかもね
それでもこれは、いつか「死ぬ」私にとっての遺書であり
いつか推しの「死」を迎える、あるいは迎えてきた「私」にとっての弔辞
ちょっとクサい文面になっちゃったけど、これもまた本音。たまにはいつもみたいな煽り文じゃなくても、いいでしょ?
Vtuberのリスナーは全員、走馬燈で推しを見るんだよ。
いつになっても。いつまでも