『溶けない』
プツン。
嫌な音に顔を歪ませ足元に目を向けると、靴紐が切れていた。
ああ、これから大事な商談なのに。
こういうときに限って、嫌なことが起こるのはいつものことだ。
日が落ちようとしている空が僕をあざ笑っているかのように見える。
”向いてないのかな、きっと向いてないんだろな”
社会人も3年目に差し掛かり、もうたいていのことは身につけた。
ビジネスマナーや、曖昧な条件のときにうまく交わす言葉たち。
キラキラした社会人を夢見ていた頃とは違って、ずる賢さや上司への太鼓の持ち方も覚えた。
これが”大人なんだよね これで合ってるんだよね”
大学時代から付き合っていた彼女とはつい先日別れた。理由は価値観の違い。
価値観なんて、付き合って3ヶ月もすればわかるだろうに、今更になってその言葉を使うなんてずるい。
けれどきっと忙しない日々の中で、忘れていた彼女の優しさを僕が感じれなくなっただけのこと。悪いのはぼくのほうだ。
”ほら、何度分かりあえても何度すれ違っても
ただ愛すべき時間に溶ける
ほどける結び目を何度も僕ら愛せたじゃんか”
彼女は全くずるくない。結んでいた靴紐が切れただけなんだ。
不満なら僕にもあった。
男ばかりの飲み会に行ってほしくない。そう思ったけど、女々しい男だと思われそうで言わなかった。
ただ不安だったんだ。そばにいてほしいだけだった。
”言えなかったこと 敢えて言わなかったこと”
どうしようもない感情を口にも出せず、不機嫌な態度を取る僕。
それでもやさしくしてくれた君。
”急ぎ、過ぎた日々の中で気づけた優しさ
忘れないからね、ちゃんと忘れないからね”
きっとこんなこともいつか忘れる。
どんなに愛し合った彼女との日々も、1年も経てば思い出すこともなくなる。
それでもたまに思い出す時があるだろう。
忘れて、思い出して、忘れて、また思い出す。
”急ぎすぎた日々の中に置いてきた全て
思い出すときがきっと大人なんだろうな”
腕時計は止まることなくカチカチと秒針を進ませていく。
まだ間に合う。
最寄りの駅の靴屋で紐を買って結び直そう。
”ほどける結び目を何度も結び直すぜ
何度だって溶けない日々の中へ
何度も戻りに変えるよ”
このまま社会に溶けていくにはまだ早い。
僕が過ごしてきた時間は残る。ここで終わりなわけじゃない。さあ行こう。
※マカロニえんぴつの『溶けない』を聞きながら書いたフィクションです。