神話からの解放
欅坂46「僕たちの嘘と真実」を見てきました。
この映画の感想を書くにあたって、先に私のスタンスをざっくり提示しておくと、
・平手友梨奈が好きで、欅坂46の曲も好きだが、メンバー一人一人を覚えているほど詳しくはない
・熱狂の一員になることに抵抗があり、ライブというものには行ったことがない
といった感じで、平手は好きだが、グループそのものに対しては熱心なファンとは言えない、といった感じです。
「真実」は不在のまま
本作はデビューから2020年に幕引きの宣言が出されるまでの欅坂を追ったドキュメンタリーだが、タイトルに含まれる「嘘と真実」という言葉には少し違和感を感じた。
アイドルという文化に関して私は詳しいわけではないが、概念としての定義で言うならば、アイドルという存在はライブなりテレビなりといった機会でもって己の技能や魅力を発揮し、「成長過程」をファンと共有するものだ。
先に述べたように私はライブに参戦するようなタイプのファンではないが、そういった人々にとっては欅坂46も、もれなく定義としてのアイドル、の枠に当てはまる。
けれども、この映画はどうだろう。開演前の円陣や幕間に息を切らす彼女らの姿やグループの成長の様子は映されるが、グループにとって圧倒的カリスマであった平手の離脱や脱退、改名決定といったターニングポイントは我々も知るところで、映画の中にもその発表がなされるシーンが存在する。
しかし、彼女に何があったのか?という部分に関して語られることがないのは、平手自身の言葉で言及されている通り、そのことに関しての語り手が、作中には存在しないからだ。
不在の語り手の中にしか真相が存在しないのだから、私たち観客に淡々と提示されるのは結果と、既に人々の耳目に晒された部分だけ。
アイドルの営みの一環である共犯関係に、観客はなれない。
ただ、個別に録音されたトラックとアンビエンスの強調された音源で、彼女らの悲痛を想像するのみだ。
名前という呪い
作中後半でメンバーが言及しているように、欅坂46は平手ひとりのものではないし、
平手がしばらく離れると宣言した中盤から、彼女の姿や表現意外の表情が映ることはほとんどなくなり、彼女の「不在」との戦いが主となっていく。
しかし、平手の求心力と、欅坂の表現における彼女の役割はあまりに大きくなりすぎた。
改名の決定がどの段階で下されたのかはわからないが、グループの持つイメージそのものが、強く平手と結びつきすぎてしまっていた。
観客もメンバーもプロデューサーも、欅坂の平手・平手の欅坂、そして彼女が不在の欅坂、というところから脱却することはほぼ不可能なところまで進んできてしまったのだろう。
欅坂の名前と楽曲を背負い続ける限り、それらは呪いとなってグループとそのあり方を縛ることになる。
今まで存在しなかった概念に名前がつくことでそれが共通の認識となるのと同じように、名前はそのものの性質やあり方を決定づけるほどに重要な要素だ。
これからの彼女らにとって、思い入れのある名前からの解放は必要なプロセスになってしまったのだろう。
偶像という言葉
私はサイレントマジョリティーのMVを見て平手友梨奈の目にドギャンとやられたクチですが、不協和音、アンビバレントのMVやテレビでのパフォーマンスを見て、これは体を庇っていない、絶対に怪我をすると怖くなることが度々あった。
平手は新しいMVが作られるたびに髪を切り表情が変わり、と次々と姿を変えていったが、その姿勢はアイドルが衣装を着替えて新曲披露をするものではなく、作品の中の役に変貌するというもので、明らかに異質なものだ。
少なくとも私は、彼女の身を切り髪を切り心を削る彼女のあり方に惚れ込んでいた。これは私が演劇を生業としていたからとか、そういうことに依るものではないことは世の反応が証明している。彼女のそれは明らかにカリスマと呼ばれる類のものだ。少なくとも、そういうことになっている。
熱烈なファンが「信者」と自称したり、そう揶揄されることがあるけれども、平手のカリスマ性とそれを押し出したグループの方針、そして彼女自身の選んだ「距離を置く」という選択は、欅坂(の平手)にある種の宗教性を帯びさせてしまったように思う。
ファンが理想として期待する平手の姿があるのは自然のことだが、本来対等であるはずのメンバーまでもがそのように考え、当人に「欅坂をやっていて楽しいですか」と遠回しに指摘される状態は、はっきり言って異常だ。
キリスト教もイスラム教もそうだが、長く続いている宗教というものは教祖や神の存在があるからあるのではなく、それを信ずる者たちによる教典の編纂や伝承によって成り立っているところが大きい。
それと同様に、この映画において平手をはじめとした「いま、ここにいない人たち」が語る口を持たないことは、彼女らが最も激しく燃焼した5年間をそのようなものにしていたことの証左のように思えた。
自然光で撮影されたインタビュー映像の数々だけでなく、平手脱退後の「誰がその鐘を鳴らすのか?」、かつてアーティスト写真を撮影したパルコが解体された渋谷の街を見下ろすドローンの映像、そしてその中に映る山手教会の建物。
それらはLED照明やレーザーなどを多用したライブやMVの映像や、最後の水辺を歩く平手の映像との対比として、それらをある種の神話(だった)とするための証言として機能していた。
大人はわかってくれないし、わかってやれない
TAKAHIRO氏の「大人の役目は見守ることだと思う」というコメントを反芻していた。
平手友梨奈の才能を拾い上げ世に出してくれたことには心から感謝していると言わざるを得ないけれど、
近年の傾向として、やっぱり大人は才能ある子供に背負わせすぎなのではないかと思う。
ぼくのりりっくぼうよみもそうやって持ち上げられ、(おそらく)重圧と悪意に耐えかねて去っていったし、春名風花も悪意の矛先を幾度も向けられ傷つけられた。
かつてピンクレディーがあまりに過酷なスケジュールをこなしていた頃、テレビ司会者が「あなたたちは私たちを幸福にする使命を持った天使だ」というような旨の労いのコメントをした映像を見たことがあり、コンプライアンス的にどうとかよりも、それが賛辞として述べられていることに恐怖を覚えた。
(少なくとも私にとって)欅坂のあり方は平手という圧倒的な才能を限界まで研ぎ澄ませてその鋭さ美しさを見せるというものだったけれども、人の命が激しく燃やされるさまを見て楽しむ私たちの姿勢は、今も変わらないままだ。
でも、平手友梨奈が芸能活動を継続するということは、彼女を守り命を過度に削らないようにしてくれる人たちがいてくれるということなのかもしれない。それは彼女の才能に惚れ込んでいる私たちにとって希望だ。
(あとこれは余談で)アクタージュの夜凪景は平手友梨奈をモデルにしているのではないかと個人的に思っているのだけど、かの作品が消滅してしまったのが本当に本当に惜しいな。
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