男になるをしてからの夜をただ書き出します。
仕事のない晩はとても静か。
だから三味線を買った。
プロジェクターを買った。
動物は飼えないからルンバを飼おうかと思っていたが、光と音が出るなら天井の電気も兼ねたプロジェクターの方が便利だと閃いた。家を映画館にする。一人で映画館。ひとりごとは増える。
たまにラジオのアプリで知らない人の配信を聴く。男性だとイケボ配信とやらが妙に腹立たしいので、消去法で女性の配信を聴く方が多い。自分の声はまだ未発達だと自覚している。声だけじゃない。
暇つぶしにダンベルを上げるけれど、体も発育途中だとよくわかっている。プールでおばさま方に「あら、かわいい」「中学生?」「もう帰っちゃうの?また来る?」と立て続けに言われて、十個下のジャニーズJr.もこんなだろうかと勝手に想像した。身体を舐め回されるような感覚がある。もはや男性間の素っ気なさがありがたい。
もう寒い。去年の冬は会えるのかまったくわからない相手と結婚することだけを念頭に置いて耐えてきたけれど、あとこれが20年も続いたら自分の精神は保たないどうしよう。
極寒の冬になる前に、今通っているところの他にあと2軒は行きつけのバーが欲しい。ラジオ配信とは違って、バーに通う男性の声は落ち着いていてなんだか好き。自分の父親と祖父の中間世代の男性と会えるチャンス。
鏡を見ると、自分の女性化と幼児化が進んでいる気がする。つまり女子になっている。気がする。こんな外見でバーに行くのは支障が出るのでは。なりたい方向(『ブラッド・ダイヤモンド』主演時のレオナルド・ディカプリオ)とは真逆なので嬉しくはないけれども、あと20年後にそうなっていることが目標なのでそれまでの寄り道ならまあ許容範囲とする、ただし男湯に入るのに不都合なほどの外見ではないことを前提に。あとこれまでの人生の何倍もの間、股間を死守して銭湯に行くのかと思うと面倒くさい。
最初は性欲も困難だった。自分の体の扱い方がわからなかった。自律できないことほど辛いことはない。ようやくホルモン周期と性欲の波が掴めるようになってきて、時間が活用できるようになった、と思う。特定の相手だけを望んで大人しくしている時期と、そうではない自暴自棄な時期はそれも相変わらず激しい。
埋没環境に身を置いて一年が経った。「男であること」と「自分であること」はイコールなのか、ニアリーイコールならどこまでが許せるだろうか。
その仮定は今後もきちんと自分を幸せにするだろうか、周りを傷つけずにあれるだろうか。戻れない決断は正しかったことにしなければという使命感。そして、義務感のような、負うものの重さ。
ところで、夜勤へ行く際に夜道への警戒感が減ったのは「男である」のだなぁと実感する。