ワニを心から悼む。
「100日後に死ぬワニ」の話題です。
毎日の4コマを読みながらワニくんやその仲間たち、作者のきくちさんに対する愛着がじわじわと増えてゆくのを感じたひと、少なくないと思います。コミック発売もうれしいニュースでしたよね。
ところが100日目、最終回直後に、公式垢スタート(どん!)、いきものがかりコラボ(どん!)、映画化(どん!)、商品化(どん!)、明日から専門ショップオープン(どーん!)、という展開が発表され、「ええええ!」と、良い意味じゃない雄叫びをあげてしまったという人も少なくないのではないでしょうか。
自分も過去キャラクタービジネスを仕事にしていた元つくり手側の人なので、グッズの展開を見れば連載開始後の準備で間に合うようなスケールや投資規模じゃないのはわかります。また、元つくり手側だからこそ、SNSを使って人気キャラクターを作り上げてビジネス化することに異論はありませんし、可能性を感じます。
しかし「死」というテーマと「受け手の共感や愛着」がセットになった作品の世界観が一部のファンの感情をかき回し、困惑させているように感じました。まるで自分の感情や感傷を誰かにハックされてしまったかのような気持ち。
これ、あくまで「一部のファンの困惑」で、全員が感じているわけではないと思います。作者のきくちさんもお友達を亡くされている経験をお持ちとのこと。共感する体験を持っているファンの方はより困惑の度合いが高いかもしれません。
この記事は、同じく困惑してしまった自分が、いまなお困惑しているファンのみなさんといっしょに気持ちを整理できたらいいな、と書き始めています。
TweetにはこんなふうにRTも頂きました。ぼくはアニメ「イデオン」や「ミンキーモモ」に感動した世代ですが、いずれも主人公キャラの死が感動のポイントで、そういう意味では狙って仕掛けた死を否定するわけではありません。
ただ「チームでつくったものだから」「個人作家がつくったものだから」という差に困惑したのかというと、そうではないと感じます。
ワニくんをまるで実在している人(ぼくの場合は亡くなった友達)のように感じたからこそ、その後の展開に困惑したというのが、一番感覚に近いと感じました。
Twitterで毎日連載される形式のマンガはほかにもありますが、次のような理由でよりその「親近性」が高まっていたのかな、と思います。
● タイトルでワニくんが死ぬことがわかる = 同じ境遇の友人と重ねてしまう
● 99日間毎日ワニくんの日常と接触した = 仲のよい友達のように感じられる
● 物語にメリハリがない(いい意味で) = リアルな日常ブログのよう
もし書籍やアニメがスタートだったらこんな親近感は得られなかったと思います。
動物キャラクターだからこそ、リアルな誰かに重ねやすい。まんがのようでリアルな絵日記のようにも見えてしまう。そう言う意味でTwitter連載の「100日後に死ぬワニ」はノンフィクションギリギリまで攻めこんで来るフィクションでした。
作者のきくちさんはインタビューで「死を意識した生き方のキッカケになれば」と答えていますが、そのメッセージはしっかり伝わったと思います。
きくち:読んでくれた人が、自分が死ぬことを考えて発言とか行動をしてほしいんです。例えば、悪いことしながら死んじゃったとしたら、周りの人が悲しむじゃないですか? 死ぬときに後悔してほしくないし、自分が死ぬときに後悔をしたくない。死を意識してくれれば、世の中がいい方向にいくんじゃないかなって。それを考えるきっかけが作れるんじゃないかと思うんです。
ただ、一部のファンは「死を意識する」を超えて、ワニくんに亡くなってしまった近しい人に対する愛着と追悼の気持ちを重ねてしまった。だから、まるでワニくんの死をビジネスチャンスのように感じさせてしまう企画展開のスピードや内容に困惑を覚えたのではないかと思います。
だってですよ、仮に親友がSNSで顔を知られた有名人だったとして、亡くなったその日の夜に追悼記念グッズ、明日発売です! なんて聞いたら「ふざけんな!」ってなりますよね?
それくらい、ワニくんは、ファンの心の中に人格を形成した。ぼくのなかではフィクションとノンフィクションの区別がつかないくらいになりました。ついつい亡くなった友人たちのことを考えてしまいました。きくちさんの100日の連載の偉業にエールと感謝を送りたいと思います。
しかし物語が成功したからこそ、最終回の世界観の余韻を味わうまもなくどんどんどんと立ち上がった展開に違和感が生まれ、反応が出るのは仕方ないと思います。
たとえば、まんが「あしたのジョー」のライバル力石徹が死んだ際に寺山修司が弔辞を読んだ葬儀の話は有名ですが、仲間とのお花見に待ち合わせたワニくんが亡くなってしまったという世界観の延長のような追悼イベントが、作品のファンであるYoutuberさんやアーティストさんたちの手弁当企画で開催されるという話なら、反応はまたずいぶん違ったものになっていたんじゃないでしょうか。
もっともコロナウイルス禍で開催できなかったですかね。
今回のこの件を通じて、たとえ「フィクションの死」であっても、そこに思いを込めるられるものが存在し得ることを自分の身を持って認識しました。
SNSに投稿される日常風景連載エッセイは、たとえマンガであれ「ここから先はフィクションだよ」という線引きを曖昧にします(コミックエッセイに見える)。様々なビジネスにも利用可能な集客のためのハック(便利技法)です。
さらに「死」のテーマが入ると、集客効果は高まり、人によっては体験や交友関係と重ねて没入します。他の人から見れば明らかにフィクションの死であっても、フィクションと割り切れなくなります。
物語を紡ぐ人たち、物語をつかってビジネスをする人たちにはケアしてほしいと思います。フィクションとノンフィクションの境界があいまいにされて心の奥の感傷がハックされていた、と後から気付かされるのは、とってもしんどいのです。
また、物語の受け手のぼくたちも、感情のハックが可能な環境の中に生きてることを意識したほうがいいのかもしれません。
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