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風呂場

定期的に情報の荒波に飲み込まれそうになる。
日々やるべきこと、生活の為に明日をどう過ごすか。
今後の将来をどう生きてゆくか。
友人、家族、彼、彼女らは今どうしているのか…
空気が濁りすぎて前が見えなくなる。

だがふと思う。これはこれでアリなんじゃないかと。
このまま、何処からともなく押し寄せる
「社会にとってのすべきこと」
という荒波の中で、踊り狂って死んでいくのも
それはそれで幸せなんじゃないかと思う時がある。

実際こうして様々な情報に時間を埋め尽くされる日々は、案外充実している何物でもない自分を、流れ来る使命のようなものを抱き、規定してくれている気がする。

やはり波は怖いのだ。
常に変化をしてしまうより、コンクリートの様に波ひとつなく画一的なものを望んでしまいがちである。
俗に言う「安定」は、生命としての欲求なのかもしれない。

生まれたての頃は、そんなことはなかったはずなのに。

しかし、例えば自然を見ているとき。風呂に入っているとき。
ふと、他の誰でもない「私」が降りてくる。
何からも、誰からも規定されていない、
本来の、ありのままの、純粋な「私」。

自ら、激しく荒波立つ時もある。
でも、そんな私のことを、確実に好きな自分がいる。
これも本能的な欲求なのか。
私には分からない。


自分自身で道を切り拓いているように見えて、
その向かう先は、既に誰かが規定した枠組みであることもある。

しかし人は他者の目があって初めて自分という存在が認められる
己は己を見つめる事はできない。
しかし己は確実に存在する。
己は誰かに規定された存在なのか。

生命は遺伝子の箱というが、
この己という精神自体も、遺伝子によって規定されたものなのか。

だからこそ他者からの規定を望んでしまうのかもしれない
いや、仮に遺伝子に規定されているというのなら、その規定されたものが一体何であるのか。

それを知りたい。
そしてそれと共に歩みたい。

とすれば、「安定」というものは、本当は私たち一人一人の心の中に、既に宿っているのかもしれない。
それが人間の生きる強さであり、素晴らしさなのだろう。



少なくとも今だけは、この波に従ってみようと思う。
別に己を規定したいわけじゃない。
でもこの先に、本当の平穏が待っている気がするのだ。


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