JOG(302) 間宮林蔵の樺太探検
ロシア艦来襲時の敗走者との汚名をそそぐべく、林蔵は命をかけた樺太探検に乗り出した。
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■1.樺太へ■
間宮林蔵が見送りに来た警備役の津軽藩兵指揮格・山崎半蔵にこう言うと、山崎は言葉もなくうなづいた。その眼には、再び生きては帰れぬかもしれない者を見送る悲痛な光がうかんでいた。
文化5(1808)年4月13日、蝦夷地(北海道)最北端の宗谷の地。海はおだやかで空は晴れていた。林蔵はここから18里(71キロ)の海を渡って、樺太に出発する所であった。前年、蝦夷地の各地を荒らし回ったロシア艦が再びやってくると予告していた時期で、もし発見されれば捕らえられる恐れがあった。また樺太には最南端の白主にこそ会所が設けられ、警備の一隊が駐在していたが、それより北は地理も分からず、粗暴な山丹人が大陸側から交易のために往来しているようだった。
この北辺の地理と住民の状況を明らかにしてロシアの南進に備えようというのが、間宮林蔵の樺太探検の目的だった。
■2.蝦夷で生きるには■
林蔵は、安永9(1780)年、常陸国(茨城県)筑波郡の農家に生まれた。子供の頃から土木工事が好きで、堰とめ工事の現場に出入りしているうちに、利発さを買われて幕府の普請役雇・村上島之允(しまのじょう)の使い走りとして働くことになった。村上が各地を測量して地図を作製するのに従って、林蔵は測量技術と健脚を身につけた。
村上が蝦夷地での仕事を命ぜられると、林蔵も一緒について行った。しかし冬の厳しい寒気と野菜不足で足がむくみ、体調を崩した。土地の人から、蝦夷人(アイヌ)は魚と昆布を食べるので、病むこともなく冬を越す、と教えられ、それに従った所、むくみもとれて体調が回復した。
これを機に林蔵は、アイヌと同じ生活をしなければならぬ、と知り、アイヌ語を習い、しばしばアイヌの家を訪れて衣服・家屋・狩猟・漁獲・旅行などについて詳しく調べた。
■3.ロシア来襲■
林蔵は村上の助手として測地に従事していたが、文化2(1805)年、25歳のおりに現在の北方領土である国後島から択捉島で海岸線の地図を作り、道路を開くようにとの幕命を受けた。
文化4年4月、林蔵が択捉島に移って仕事をしている最中に2隻のロシア軍艦がシャナ湾の会所を襲った。文化元年9月にロシア皇帝の命を受けて長崎港に入港した侍従レザノフは日本との交易を求めて6ヶ月も待たされたが、すげなく断られたため、怒って武力で威嚇しようと択捉島を襲ったのだった。
会所には230名もの兵がいたが、役人たちは上陸したわずか十数名のロシア水兵に恐れをなして、ろくに戦いもせずに、退却してしまった。林蔵は抗戦を主張したが、上役に退却を命ぜられ、不本意ながら従った。
ロシア艦が去った後、林蔵も会所の役人たちとともに、江戸に送られ、厳しい取り調べを受けた。江戸市中では彼らに対する憤りと蔑みが強かった。幸いにも林蔵は抗戦を強く主張し、また退却後も密かに現地に戻って、ロシア艦の動きを探ろうとした働きを認められ、唯一人「お咎めなし」との申し渡しを受けた。他の役人たちには「不届きの至り」として、免職、家屋敷没収などの処罰が行われた。
■4.樺太は半島か?■
江戸に送られる前に林蔵は函館の奉行所に、ロシアへの潜入調査という大胆な上申書を提出していた。敗走者という汚名をそそぐためにも、北辺の防備強化という国益のためにも、という切羽詰まった気持ちから書き上げたものだった。「お咎めなし」と決定した後、この上申書が取り上げられ、林蔵は樺太北部の探検を命ぜられた。
当時、完成しつつあった世界地図で樺太は唯一空白部分として残っており、アジア大陸の東韃靼地方につながる半島だろうと推定されていた。イギリス、フランス、ロシアの艦隊がそれぞれ樺太の西岸を北上して確認しようとしたが、水深が数メートルと浅くなり、やはり半島だろうとして、途中で引き返していた。
林蔵は、宗谷に勤務していた調役下役・松田伝次郎とともに、樺太に渡った。冒頭の「成功せぬうちは、帰ってくることはいたしませぬ」と悲壮な言葉を残したのは、この時のことである。
4月17日に数人のアイヌ人を案内役として、小舟で北上を開始。途中、弓矢や槍をもった住民に危うく殺されかけたりしながら、6月21日には対岸にアムール河(黒竜江)河口が望める地点に到達した。そこから先は樺太と大陸との間は広がっているようで、どうやら樺太は島のように思われた。海面は海草に覆われ、小舟ではそれ以上進めなくなった。舟をこぐアイヌたちは「恐ろしい。帰りましょう」と震える声で言った。
松田もこれでほぼ役目を終えたとして、帰投を決断した。林蔵は不満だったが、年齢も役職も上の松田に従うしかなかった。宗谷に戻った林蔵は報告書を作成すると、ただちに再調査の許可を求めた。自分一人なら危険を冒しても、さらに奥地に行けたはずだ、という思いが強かった。
■5.アムール河を望む■
7月13日、宗谷を再出発し、単身で樺太に渡った。前回の危険な探検の有様が伝わっており、案内人に応じてくれるアイヌを探すのに苦労した。なんとか6人のアイヌを雇い入れて、前回よりもやや大きい舟で8月25日に北上を始めた。
9月3日、400キロほども北のトッショカウという土地についたが、途中で山丹人に食料を奪われ、また寒気が厳しくなって、海が凍結すれば魚もとれなくなる。アイヌたちも「南に帰りたい」と言い出した。やむなく林蔵は引き返すことを決断した。途中まで舟で南下したが、海が荒れていたので、1ヶ月以上かけて氷雪に覆われた陸路を200キロも南下し、樺太南部のトンナイに戻った。途中、吹雪になると雪洞(ほら)を作り、天候の回復を何日も待った。
トンナイで年を越して1月29日、林蔵は再び、渋るアイヌたちを説得して、北に向かった。今度は凍結した海の上を歩いていく。4月9日、ノテトという地に着いた。最南端の白主からは500キロ以上も北である。ここには60人ほどのギリヤーク人と二人のアイヌ人男女が住む集落があった。アイヌ人が通訳をしてくれて、酋長のコーニが大陸にある清国領の役所からカーシンタ(郷長)という役人の資格を与えられている事を知った。
コーニは山丹人の作った舟を貸してくれた。そこから先は波も荒く潮の流れも急なので、山丹舟でなければ進めないという。
5月8日、ようやく流氷が去って、ノテトを出発。海は次第に狭くなり、対岸の雪に覆われた大陸の丘の連なりが間近に白く輝いている。さらに進むと、海が少しづつ広がり、大陸側に大きな河口が見えた。アムール河である。
■6.この地の北は荒海しかない■
2日後、ノテトから110キロ北のナニオーという地に着いた。ギリヤーク人が数家族住んでいる。コーニがつけてくれた通訳を介して聞いてみると、この地の北は荒海しかない、という。確かにアムール河の河口を過ぎると、潮流は二分し、北にも流れていた。これは北側が半島で遮られているのではなく、広い海が開けていることを示している。
歓びが胸にあふれた。林蔵は世界で初めて、樺太が島であることを確認したのだった。さらに一歩進めて、舟で樺太の北端を回り、東海岸を南下して出発地に戻りたかった。しかし、ギリヤーク人はこう言った。
海は絶えず怒り、波がさかまいている。舟など出せば、たちどころにくつがえり、砕け散ってしまう。
丘に登って北方を見渡すと、広い海には一面に白波が湧いて、怒濤が荒れ狂っている。たとえ山丹舟でもひとたまりもないだろう。林蔵はあきらめてノテトに戻った。酋長のコーニは、「よくそんな所まで行ったな」と驚きの声をあげた。
■7.「大陸に連れて行ってくれ」■
樺太が島であることは確認できたが、林蔵はさらにこの地がどのように清国に支配されているのかを知りたいと思った。北辺の防備を固めるには、この情報がぜひとも必要だ。そこでコーニ酋長にしばらく村に滞在させてくれと頼んだ。
林蔵は釣りや薪作りを手伝って、コーニから食料を分けて貰った。同時にギリヤーク語を学んで、コーニからこの地の状況をいろいろ聞き出した。海を隔てた東韃靼(だったん)のデレンという地に清国の出張役所があり、コーニも村の代表者として定期的に貢ぎ物を持って行っているという。その地には山丹人、ギリヤーク人、オロッコ人など多くの種族が混住しており、すべて清国の支配下にある由。
林蔵は、清国とロシアの国境がどうなっているのか調べたいと思い、コーニに一緒に大陸に連れて行ってくれ、と頼んだ。コーニは、林蔵の顔からすぐに異国人と判り、粗暴な山丹人に必ず殺されてしまうだろう、と断った。しかし林蔵は言った。
コーニは無言で林蔵を見つめ、長い沈黙が続いた。それから息をつくように言った。
■8.突如出現した大集落■
6月26日、10メートルほどの山丹舟にコーニと林蔵を含めて8人が乗り込み、貢ぎ物や交易品を積んで、東韃靼に向かった。6月なのに風が驚くほど冷たく、濃霧が立ちこめて、衣服が濡れた。林蔵は持参した羅針で西を示した。14キロほど進むと、ようやく霧の中に陸影が現れた。コーニが「東韃靼のモトマル岬だ」と言った。
近くの湾に舟を着け、そこから舟をかついで2キロほどの山を越えると、アムール河に出る。そこから数十キロも河を遡って、ようやくデレンに着いた。そこには無数の小屋に囲まれて、巨大な柵の中に奇異な建物が建っていた。「清国の出張役所だ」とコーニが教えてくれた。荒涼とした大陸に突如出現した大集落に林蔵は夢を見ているようだった。
コーニとともに建物の中に入ると、絵で見た清国人と同じ服装をした役人たちがいた。林蔵が日本から来たと言い、漢字を書いて見せると役人たちは驚いた。清国以外の野蛮人が文字の読み書きができるとは信じられないふうだった。「日本はどの地で清国に貢ぎ物をしているのか」と聞かれて、「貢ぎ物はしていない。長崎の地で貿易をしているだけだ」と答えると、さらに疑わしそうに首をかしげた。林蔵が「ロシアとの国境はどこか」と尋ねると、「国境などあるはずがない。ロシアは清国の属国だ」と答えた。
しばらくデレンの地に留まっている間に林蔵は周囲から情報を聞き出した。清国はこの地に大軍を出して各種族を降伏させ、支配していたが、ロシアが進出して攻防を繰り返した。結局ロシアは敗退し、1689年に結ばれた条約でこの地方から完全に手を引いたという。120年前の事であった。林蔵はデレンで二度ほど山丹人に取り囲まれて暴行されかかったが、危うい所をコーニたちに救われた。
貢ぎ物と交易が終わると、林蔵の提案でアムール河を舟で下って河口まで帰ることとした。数日かけて河を下り、河口に到着すると樺太の北端が見え、その先には果てしない海が広がっていた。林蔵は樺太が島であることを自分の目で確認したのだった。8月8日にノテトに帰り着いた。3日後に遊猟で南下するギリヤーク人の舟に載せてもらい、9月15日、樺太最南端の白主の会所に帰着。再出発してから1年2ヶ月が経っていた。
■9.輝かしい栄光■
林蔵は松前に戻ってから、旅行中の日記、野帳をもとに紀行文「東韃地方紀行」、および樺太の地誌「北夷分界余話」をまとめ、さらに樺太と東韃靼の地図「北蝦夷島図」を作成した。地図は詳細をきわめ、つなぎ合わせると縦6尺(1.8メートル)、横2.7尺(0.8メートル)に及んだ。翌文化7(1810)年11月、幕府への報告のため、林蔵は江戸にのぼった。
単身で樺太北部から東韃靼まで探検をしたという話は、日本国内で大きな話題になっており、江戸までの各地で藩士や商人たちにもてなしを受け、宿を提供されることも多かった。林蔵が提出した地図と紀行文は、幕府の老中たちの間でも大評判であった。厳しい旅で健康を害していたため、林蔵がお役御免を願い出ると、加増の上、生涯、特定の仕事をしなくとも良いとの沙汰があった。3年前に江戸にのぼった際には、林蔵はロシア艦来襲時の敗走者という汚名を着せられていた。今回はその時とはうって変わって、輝かしい栄光に包まれているのを感じた。
林蔵の樺太探検は、1832年にシーボルトが出版した「ニッポン」の第一巻で欧米社会に紹介された。シーボルトは林蔵が樺太が島であることを発見した世界最初の人物であると記し、その証拠に日本滞在中に入手した林蔵の地図を挿入した。さらに東韃靼と樺太の間の海峡を、間宮海峡と名付けた。これによって林蔵の発見が世界地図の上に永久に残ることになった。
林蔵の探検はわが国の国益にも寄与をなした。40余年後の嘉永6(1853)年に始まったロシア使節プチャーチンと勘定奉行・川路聖謨(としあきら)による日露国境策定交渉において、ロシア側は樺太がロシア領だと主張した。川路が、林蔵が樺太ではただの一人もロシア人を見かけなかったという事実をもって反論すると、プチャーチンはおおいに狼狽した。結局、国境交渉は、樺太の国境はこれまで通り定めないが、嘉永5(1852)年までに日本人と蝦夷アイヌ人が居住した土地は日本領とする、という実質的には日本側の主張で決着したのである。[2,p231][a]
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
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■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 吉村昭、「間宮林蔵」★★★、講談社文庫、S62
2. 吉村昭、「落日の宴 勘定奉行川路聖謨」★★★、講談社文庫、H11
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