JOG(619) 武家の娘(下)~ アメリカに生きる
武家の娘は、西洋も東洋も人情に変わりはないことを知った。
■1.アメリカの「お母上」■
松雄と鉞子(えつこ)はウィルソン夫妻の邸宅で20日ほど過ごした後、6月の美しい日に結婚式をあげた。花の香の充ち満ちた部屋に象牙細工をほどこしたテーブルが置かれ、その前には日米両国旗が交叉して掲げられていた。二人はそこに並んで立ち、聖書の朗読が行われた。参列者はみな、美しい結婚式だと賛美した。
やがて、二人はウィルソン夫人の親戚の未亡人の家に住むことになった。近くの丘の上に立つ、大樹に囲まれた古風な家である。未亡人は「厳しいニューイングランドの血統と、やさしいバージニア貴族の血統」をひく婦人だった。
初めは、この婦人が日本が好きだと言って、二人を家に招いたのだが、お互いに気が合ったので、そのままこの家に留まることにしたのである。鉞子はこの婦人をアメリカの「お母上」と呼んで、敬愛した。
ニューイングランドの厳格な気風やバージニア貴族の家風を身につけた婦人にとって、武家の娘として厳しく育てられた鉞子は、国こそ違え、どこか響き合うものが感じられたのだろう。
■2.お祖父さまの軍服■
ある日、「母上」が屋根裏のお納戸部屋でトランクの中の衣類を整理しているのを、鉞子は傍らで手伝っていた。「母上」は1812年の英米戦争の時に祖父が着たという軍服を見せた。
鉞子はふと、故郷の家での虫干しの日を思い出した。召使いたちが衣類をかけた綱の間を忙しそうにたち働いている間をぬけて、父について入って行った祖母の部屋の様が眼前にはっきりと浮かび上がった。
「エツ、何を考えているの、5千里の離れたところを見るような眼付きをしているではありませんか」と、「母上」は微笑を浮かべて言った。「もっと遠いところを見ておりましたわ、私が生まれる前のことを見ていたのでございます」
鉞子はうつむいて、「母上」の膝の上の古い軍服の大きな衿(えり)をなでてみた。すると、アメリカ中で、自分の胸に一番ぴったりするもののような感じを受けた。
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お母さま、家のお納戸にも、戦いの思い出を語る尊い記念の品々がございます。
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鉞子は、子供の頃に聞いた父親の武人ぶりをアメリカの「母上」に語った。
■3.武士の誇り■
戊辰戦争において、長岡藩は幕府側に立ち、官軍と戦った。戦いに敗れた後、長岡藩城代家老であった鉞子の父親は、人質として、敵陣に囚われの身となった。
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人質と申しましても、こちらで考えられるようなものとは違い、周囲は戦場の巷でございましても、その陣屋はある静かな森の中のお寺で、そこは陣屋でもあり、また身分ある敗軍の武士の仮の牢獄でもありました。父はとらわれの身ではありましても、客分として扱われておりました。・・・父の周りには囚われの身を思わせるような何物もないようでしたし、あそらく何もなかったことでありましょう。父が武士の誇りという強い鎖でつながれているということを監視の者も心得ていたのでございましょう。
こんな物憂い日々、父の何よりの楽しみは書と、敵方の隊長と碁を囲むことでありました。教養の高いこの人は、時折り父のところに話しに来られましたが、二人は趣味もあい、共に節義を重んじ、たとえ目指す道は異なりましょうとも、暫くの間に結ばれた友情は、生涯変わることもございませんでした。[1,p202]
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ある日、いつものように若侍が夕食の膳を運んできたが、ご飯の椀が右に、お汁椀が左に置かれ、箸は仏前に供えるように飯椀につきさされ、焼き魚の頭はふっつりと落とされていた。いよいよ最期の時が来たことを知らせていた。
父は常のように食事をした。沐浴して、武士の最後を語る水色の裃(かみしも)をつけ、静かに丑三つ時(うしみつどき、午前1~3時)を待った。
そこに入ってきた隊長は、深い思いは隠して色に出さず、「隊長として参ったのではありません。御身の友として、御郷里への御伝言を承りとう存じます」と言った。
父は「只今の御志のみならず、かねての御交誼、誠に有難う存じます。二度と帰らぬ覚悟で家を出ました故に、はや申すべきことは、言い残してまいりました。今更何の申し伝えるべきこともございません」と答えた。
■4.「世界中、どこの国もみなよく似ておりますこと」■
丑三つ時となると、父は数百年続いた武家の誇りをその態度に見せて、静かに寺の庭に下り、用意された囲いの中に入った。父とともに最期の時を迎える人々が囲いの中に並んでいた。その中にまだ幼い鉞子の兄が、介添えの者とともにいた。
父を見て、兄はかすかに体を動かしたが、介添えがその両袖を抑えた。父は静かに歩を進め、眼は真っ正面を向いて、最期の座についた。兄は身じろぎもせず、真っ直ぐに座り、眼は真っ正面を見つめていた。幼くとも兄もまた武士だった。
ここまで語ると、鉞子は目の前の軍服の大きな衿をしっかりと握りしめ、涙の顔を伏せてしまった。「母上」の手が肩におかれたのに気がついたが、涙に濡れた面をあげては、武士の娘として、その父を辱めることになると思った。
切腹の寸前に、新政府からの伝令使を乗せた早馬が到着した。戦争が終わり、新政府は抵抗したすべての人々を赦したのだった。すんでの所で、父と兄の命は救われたのである。「母上」は悲しそうにいった。
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そうなのです。早馬や飛脚便で伝令をしていた頃には、よくそんなことがあったのを知っています。誰が悪いのでもありません。
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「母上」は頬を染め、眼は涙にうるみながら、しっかりと軍服を握り、真正面を見つめて言葉を続けた。
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世界中、どこの国もみなよく似ておりますこと。
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二人は微笑み交わした。アメリカの軍人の孫娘である「母上」と、日本の武士の娘の鉞子の心が通い合った。それ以来、鉞子は心の底から「母上」を愛するようになった。
■5.主婦としての誇り■
もっとも日常生活においては、日米の風習の違いに戸惑うこともたびたびあった。
ある時、教会の婦人会で臨時の支出のために、5ドルを募ることとなった。最近、相当な金額をそれぞれの夫から集めたばかりなので、今回は、夫に頼らずに工面しようということになった。その集まりでは、各人がどう5ドルを集めたかが、話題となった。
たいていの婦人は、少しづつ貯金をしたのだが、なかには「残されたたった一つの方法」として、夫が寝ている間にポケットからくすねてきた、という婦人もいた。
一同は賑やかにそんなことを語り合っていたが、鉞子は悲しくなってきた。婦人が自由で優勢なこのアメリカで、威厳も教養もあり、一家の主婦であり、母である婦人が、夫に金銭をねだったり、盗みなどという恥ずかしい行為までする、ということが鉞子には信じられなかった。
日本では、妻は主婦として一家の支出を司るのがしきたりだった。夫の収入を預かり、その中から、食物、子供の衣服、慈善事業のための支出をまかない、夫には地位相応の小遣いを渡し、自分の衣服は夫の地位に合わせる。そうしたことがきちんとできることが、妻の務めであり、誇りだった。
■6.共同体の光景■
しかし、日月が過ぎるにつれ、もの珍しさよりも、アメリカが日本に良く似ている点に気がつくようになった。
朝の8時頃、学校道具を持った子ども達が街一杯に笑い合い、呼びあって行く姿を見ると、日本の朝の7時半頃、男の子は制服、女の子は袴をつけて、お道具は風呂敷包みにして、下駄の音も高らかに、行きかう様を思い出した。
2月14日のヴァレンタイン節に、赤いハート型の紙に思いを書いて、薔薇のつるに結びつける様は、七夕に笹を立て、色とりどりの短冊をつるす日本の風習にそっくりだった。
5月30日の戦死者記念日には、独立戦争と南北戦争の戦死者を思い起こして、小さな星条旗やお花で勇士達の墓地を飾るのを見ると、日本の招魂社(現在の靖国神社)の祭礼に、1日中、ひきもきらずに社前に額づく幾千の人の群れが続く様が思い起こされた。
7月4日、独立記念日を国旗をひるがえし、爆竹をならして祝う様は、2千5百年前、神武天皇が即位された日を記念する紀元節(現在の建国記念の日)に似ていた。
クリスマスに街中が華やかに飾られ、大きなプレゼントの箱を抱えた人々が行き交う光景には、日本のお正月にそれぞれの家が注連縄(しめなわ)を飾り、門松を立て、歌留多(かるた)取りや羽根つきに興ずる様を思い出した。
人間が共同体の中で生活していく以上、子ども達を育て、先祖に感謝し、戦死者に思いを馳せ、一年の節目をともに祝う、ということは、どこの国でも変わらないことなのだろう。
鉞子は、自分の生涯が、日本での武士の娘の時代から、現在のアメリカでの生活まで、一つの流れが変わることなく、坦々と続いてきたもののように思い始めた。
■7.「私も日本の子なのね」■
やがて、松雄と鉞子に女の子が授かった。「母上」の名、フロレンスが花を意味していることから、「花野」と名付けた。花野は父親にも「母上」にも可愛がられてすくすくと育った。
花野が6歳の時、仲良しのスーザンがよちよち歩きの金髪の美しい妹を連れてきた。花野はとてもうらやましく思い、寝る前には「スーザンのように、私にも小さな妹を下さいませ」と神さまにお祈りするようになった。
やがて、その祈りが聞き入れられたのか、妹が生まれた。花野は眼を大きく見開いて、髪の毛の黒い妹をじっと見つめていたが、一言も口を聞かずに「母上」の部屋に行って、「あんな妹を下さいとお願いしたのじゃなかったわ、スーザンの妹のような、黄金色の髪の毛の赤ちゃんが欲しかったのよ」と困ったように言った。
「母上」は、花野を膝に抱き上げ、この家に二人も日本人の子供ができて大変おめでたい事だ、と言って聞かせたので、花野の失望も少しは慰められた。
ある日の午後、花野が客間の大鏡の前にじっと立っているのを「母上」が見つけ、「何をしているの」と尋ねた。
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私も日本の子なのね。私はスーザンのようでもないし、アリスにも似ていないわ。
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そして、涙を抑えてむせぶように、
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でも、お母さまの髪は黒いのね、私の髪もお母さまと同じだわ。
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花野はその日から、日本のものごとに心動かされるようになった。鉞子は夜な夜な、日本のおとぎ話を聞かせた。「黒い髪の毛の美しい子ども」が、糸を桜の花びらに通して鎖を作ったり、という話を、花野は喜んだ。鉞子が日本の子守歌を歌うと、花野も小声であとをつけて歌った。
■8.異人さんと神国日本の人々がお互いの心の中が判りあうまでは■
アメリカの「母上」と一家4人の幸福な生活も、松雄の急死で突然の幕が下りた。鉞子は二人の娘を連れて、東京に戻った。娘たちは日本語の習得に苦労したが、やがて着物姿に黒髪が似合う、いかにも可愛らしい日本の子どもになった。
鉞子の母親も東京に出てきて、ともに住むようになり、二人の娘はお祖母さまの物語に耳を傾けたり、本の読み方を教わるようになった。ある時は、二人がお祖母様の両側に寄り添うように座り、お祖母様が花野に「アメリカのお祖母様」という漢字を教えていたことさえあった。
アメリカでは快活な娘だった花野は、お祖母様の躾で、しとやかになり、品もよくなった。しかし、鉞子はそれで花野が本当に幸せになれるのか、考え込んでしまった。眼はもの柔らかになったが、昔のように輝いてはいない。
母が高齢で亡くなると、鉞子は二人の娘と共に、再度の渡米を決心した。日本を去る前に、鉞子は二人の娘を自分の故郷・長岡に連れて行った。故郷の姉の家の土蔵で、鉞子は青い古びた座布団を見つけた。鉞子の幼い頃、お祖母様が使っていた座布団だった。鉞子は、お祖母様がこの座布団に座って、こう言ったのを思い出した。
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エツ坊や。異人さんと神国日本の人々がお互いの心の中が判りあうまでは、何度船が往来しても、決してお国とお国とが近づきあうことはありませんよ。[1,p377]
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こう言われた「エツ坊」は黒船に乗って、遠い異人さんの国に旅をし、そこで西洋も東洋も人情に変わりないことを知ったのだった。けれども、これはまだ大方の東洋人にも西洋人にも隠された秘密だった。
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あから顔の異人さんも、神国日本の人々も、今尚お互いの心を理解しおうてはおりませず、この秘密は今も尚かくされたままになっておりますが、船の往来は今なお絶えることもございません。絶えることもございません。[1,p378]
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(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(618) 武家の娘(上) ~ 千年の老樹の根から若桜武家という「千年の老樹」に生まれ育った娘は、若桜として異国の地に花を咲かせようとしていた。
https://note.com/jog_jp/n/n0f60c229f657
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 杉本鉞子『武士の娘』★★、ちくま文庫、H6
2. 櫻井よしこ『明治人の姿』★★★、小学館101新書、H21