JOG(1086) エドウィン・ライシャワー(下)~ 日米のイコール・パートナーシップを求めて
「指導的な立場にある国々の中で、日本だけが非西欧的な国」という独自の立場を、日本人は理解しなければならない。
前号より続きます。
過去号閲覧: https://note.com/jog_jp/n/ndeec0de23251
無料メール受信:https://1lejend.com/stepmail/kd.php?no=172776
■1.駐日大使として華々しいスタート
昭和36(1961)年4月19日早朝、ライシャワーとハル夫人を乗せた飛行機は羽田に着陸した。その様子は朝7持のNHKニュースで生中継された。タラップを降りると、早朝だというのに米国大使館や米軍のみならず、日本政府のお偉方が長い列をなし、報道関係者も100人ほど集まっていた。
ライシャワーはカメラのフラッシュを浴びながら、到着のステートメントを読み上げた。日米双方が「稔りあるパートナーシップ」により互いに「平和で豊かな世界を築こう」という趣旨で、これ以降、5年半の任期中、ライシャワーは一貫してこのテーマを追求していく。
続いて、日本語で同じステートメントを読み上げた。外国の大使による日本語のステートメントは日本人に深い印象を与えた。しかも大使夫人は生粋の日本人である。ライシャワー夫妻の大使としての任期は日本側の大歓迎により、華々しいスタートを切った。
■2.「日本人がアメリカに対して抱く劣等感は本当に大きな問題だ」
しかし、ライシャワーの言う「イコール・パートナーシップ」は、当時の日米の力関係からあまりにもかけ離れていて、日米ともに単なる外交辞令と受け止める人がほとんどだった。
なにしろ占領が終わってから、まだ9年も経っておらず、東京オリンピックもまだ3年も先だった。沖縄は米軍が占領中であり、日本の貿易は赤字が続いていた。ライシャワーはこう家族への手紙に書いた。
当時の日本人は、この劣等感から、世界のことはすべてアメリカに任せ、その庇護のもとで自分たちは自国の経済発展に専念していれば良い、という「甘えの意識」か、逆に日本はアメリカに操られている、という「反米意識」に囚われていた。どちらにしろ、様々な問題を抱える国際社会で、独立国として何らかの貢献をなしていこう、などという意識は全くなかった。
一方のアメリカは逆に日本を過小評価し、援助し、庇護し、言うとおりにさせていれば良い、という考え方の人が少なくなかった。
ライシャワーを送り込んだケネディ政権は日本を欧州と並ぶ主要同盟国とし、発展途上国への開発援助や対ソ防衛負担でより大きな役割を求めようとしていた。日本はアメリカに保護される少年ではなく、独り立ちの青年としてアメリカと連携してくれる存在になって欲しい、と考えていた。
そのためにも、ライシャワーは、日米国民が相互理解、相互信頼のもとに協力していく「イコール・パートナーシップ」を築こうとしていたである。
■3.「あなた方沖縄に住む日本人は」
この目的のために、ライシャワーは日本の政財界、労働界、学界の指導者層と広範な対話を持ち、講演や国内旅行の機会を捉えて、日本国民に語りかけていった。
その最大の成果が、沖縄の本土並み返還に道筋をつけたことだろう。アメリカ軍部は、「沖縄の人は本来日本人でなく、日本人には恨みの気持をもっている。だから沖縄の人はアメリカの施政下にあるのを喜んでいるのだ」と宣伝していた。[2, p395]
ライシャワーは歴史学者として沖縄の歴史も知っていたし、沖縄のほとんどの人々も祖国復帰を熱望していた。このまま沖縄を米軍軍政下においておいていたら、沖縄のみならず本土でも米国への反感が募り、大きな問題に発展するだろう、とライシャワーは考えた。
そこで沖縄でのスピーチで「あなた方沖縄に住む日本人は」と述べた。沖縄の人々がアメリカから公式に「日本人」と呼ばれたのはこれが初めてだったが、この言い方でその後は通るようになった。
■4.「100万人もの日本人をアメリカの軍政下におき続けることはできない」
ただし沖縄返還への道筋をつけるには、相当の根回しが必要だった。ちょうどケネディ大統領の実弟ロバート・ケネディ司法長官が来日したので「100万人もの日本人をアメリカの軍政下におき続けることはできない」「とんでもなく危険な問題になります」と訴えた。
ロバートは黒い手帳に熱心にメモをとり、帰国後、大統領にこれを伝えた。この後も、ライシャワーはロバートを通じて、ケネディ政権に沖縄返還を訴え続けた。
軍部の方は「日本の政治が不安定なので、本土の基地はどうなるか分からない。沖縄だけは基地として手放したくない」という意見だった。「それは後ろ向きの考えだ」とライシャワーは反論した。「日本でも沖縄でもトラブルが起こったら、基地は役に立たなくなる。基地を維持するためには、日本との間に強い同盟関係がなくてはならない」
やがてライシャワーは在日米軍のトップとも信頼関係を築き、軍も沖縄返還に賛成してくれた。駐日大使館と在日米軍が同じ意見に立ったという事で、米政府に強力に働きかけることができた。
また、沖縄を返還するには、そもそも日本政府が要求しなければならない。ところが当時の日本政府は慎重さのあまり、それを口に出せずにいた。ライシャワーは大使の任期を終えて、フリーの立場になってから、日本政府に返還要求をするよう説き続けた。
昭和44(1969)年、ようやく佐藤栄作首相が要求をし、昭和47(1972)年に沖縄の本土並み返還が実現した。ライシャワーが沖縄返還を決意した年から11年が経っていた。
■5.「共産党員を除くみんな」が友人となった
ライシャワーは左翼とも対話の機会を進んで持った。例えば従来、反米デモ隊は大使館の門の前で追い返されていたが、ライシャワーが着任してからは、代表者が館内に入って大使館首脳に日本語で要求を述べることができるようになった。丁寧に扱われたのに喜んで引き揚げる人々もいた。
従来からいたスタッフは、大使館は「敵の大海の中に浮かぶ孤島」のようだ、と言っていたが、ライシャワーとハルが来てからは「共産党員を除くみんな」が友人となった。「共産党を除く」というのは、彼らとは論理的な話し合いが出来なかったからである。
■6.「民主主義を支持する者は不可避的に反共でなければならぬ」
駐日大使としての3年目の秋、ライシャワーは次のように発言した。
共産主義は民主主義と両立しない。それはソ連や中国など、共産主義国家がすべて独裁国家になっている事からも明らかである。だから民主主義者は「反共」でなければならない。日米がイコールパートナーになるためには、民主主義や自由市場経済という基本的価値観において一致していなければならない。
それを阻害しているのが、日本の学界や労働界にのさばっている共産主義者たちであった。彼らとの戦いで、ライシャワーは歴史学研究を活用した。
ライシャワーは、封建性を経験した西洋と日本だけがいち早く民主主義化や自由市場経済化などの近代化に成功したことに着目した。封建社会での契約や法治、裁判の発達などが近代化には不可欠だからだ。
これらの基本的価値観を共有するヨーロッパとその後継者アメリカ、そして日本はパートナーとなりうる。そして力を合わせて、ソ連や中国などと対抗して、民主主義と自由市場経済を守ることができる。
■7.日本の知識人を「哲学的に」震撼(しんかん)させた
これは共産主義こそ最も進んだ政治経済体制であるというマルクス主義史観を根底から否定する歴史観であった。これに対する左翼陣営の反応について、ライシャワーは次のように記録している。
「哲学的に」震撼を受けた左翼陣営は、ライシャワーに学問的に挑むのではなく、実力行使によってその影響力を削ごうとした。
■8.「指導的な立場にある国々の中で、日本だけが非西欧的な国」
ライシャワーとハル夫人は「共産党員を除くみんな」と友達になり、日米の相互理解に務めた。それはちょうど日本が敗戦国から脱皮して、自由主義陣営のアジアでの柱として成長していく時にあたっていた。
日米は違っているだけに、違った役割で助け合える。非西洋で先陣を切って近代化を達成した日本は、民主主義や自由市場経済という価値観を東南アジアをはじめとする非西洋の国々に積極的にアピールし、その後押しができる。
その後、日米欧の自由主義陣営は緊密な連携のもとにソ連を打倒した。しかし今や、中国の経済的成長によって、国際世界はソ連の時以上に危険な状況に置かれている。現代世界は、ライシャワーが取り組んだ半世紀前の世界と基本的に同じ問題構造を抱えている。それだけにライシャワーの考え方は、現代の我々にとっても貴重な示唆を含んでいるのである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a.
b.
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. エドウィン・O.ライシャワー, ハル・ライシャワー『ライシャワー大使日録』★★、講談社学術文庫、H15
2.エドウィン・O・ライシャワー『日本への自叙伝』★★★、日本放送出版協会、S57
3. エドウィン・O.ライシャワー『ライシャワー自伝』★★、文藝春秋、S62
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?