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JOG(35) 報道と政治宣伝の見分け方
本多勝一氏のように、せいぜいショーウインドウとしてしつらえた「人道的キャンプ」を見る程度で、提灯持ちの政治宣伝を書くタイプ。
■1.日本人記者は誰ひとり現場を見ていない■
一九六八年早春のテト(旧正月)攻勢は、ベトナム戦争中の最大の激戦だった。バンコクから数日遅れてベトナムに入った私は、現に古都ユエがまだ共産軍に占領されているというのに、サイゴン駐在の日本人記者が誰ひとり現場を見ていないと聞いてびっくりした。
テト攻勢のとき、ユエの旧市内は、ほぼ三週間にわたって北ベトナム軍と解放戦線の制圧下にあった。そのあいだに、少なくとも二千八百人の民間人が「サイゴン政府に協力した」かどで処刑された。日本の新聞にはほとんど報道されなかったが、ユエ城の東にあるジアホイの高校の校庭には、一つの穴に二十三人の死体がほうり込まれていた。何人かずつ手錠でつないで、半殺しだった証拠に舌を出している死体、土を吸い込んでいる死体が多かった。
ユエの政府軍司令部が最後まで持ちこたえることができたのは、北ベトナム・解放戦線軍が城にかけるはしごを一つしか持たなかったからだと教えられた。これは実に不思議なことだった。
それまでの私は、日本の新聞を読んだ印象から、解放戦線は民衆という水の中を泳ぐ魚だと教えられていた。だが、もしベトナム民衆が心の底で“解放”を支持しているのなら、なぜ、はしごの一つや二つ、そっと出してやれなかったのだろうか?[1]
自ら「戦争屋」と称して、現場で事実を自分の目で観察し、自分自身が感じたことを直接報道する事を信条とする徳岡孝夫氏の文章である。ベトナム戦争は、様々なジャーナリスト達の真価を見破る絶好の題材を提供した。以下、当時の対照的な報道を紹介して、新聞の読み方を考えてみよう。
■2.解放直後のサイゴン■
75年4月30日正午、サイゴンの独立宮殿に「北」正規軍の戦車隊が突入し、南ベトナムは最終的に「解放」された。「解放」後のサイゴンに残留した数少ない日本人記者の一人、毎日新聞特派員の古森義久氏は、次のようにレポートしている。
サイゴンに軍政を布いた軍事管理委員会が「米植民地主義や傀儡政権の低俗な書物を禁止する」布令を出したのをきっかけに、焚書が始まったが、エロ本だけではなく、欧米の文学や一般教養書までが燃やされた。「解放学生青年連盟」と名乗る青少年が本屋や民家を一軒一軒回り、「反革命的不良図書」を片端から没収した。さすがにこれは民衆から激しい反発を買ったので、軍事管理委員会も行き過ぎを戒める布告を出し、外国の本でも医学や自然科学の本は除外し、また民家に立ち入って没収するのは禁止された。
人民裁判や公開処刑も始まった。初めは刑事犯が対象だったが、間もなく旧政権下の「反人民的行動」まで処罰の対象になった。通常の訴訟手続きは行われず、当局が動員した民衆のなかから有罪の声が上がれば処刑するというやりかたである。[2]
臨時革命政府の法相だったチュオン・ニュ・タンによると、「解放」後の1年間に逮捕された旧政権の将校・国家公務員・政治家の実数は最小限に見積もって約30万人にのぼったと述べている。[3,p411]
同じ光景を、週刊朝日と朝日新聞は次のように伝えている。
平たい話をすると、現にサイゴン解放後二日ぐらいはみんな恐れ入って、商店も半分以上閉めていたし、ずっと出てこなかった。ところが、二日間ぐらいの緊張感が終わると、『プレイボーイ』まで街頭に並ぶことになった。売春がまた出てきたしね。ただし、バーやキャバレー、ナイトクラブのたぐいは最初の布令でもって禁止されましたから、秘密キャバレー的なものがほんの少し。今度はナメたわけですよ、やってきた解放軍を。案外おとなしいじゃないか、ということですよ。[井川一久、週刊朝日、75年7月11日号、3,p408]
内戦に亡命はつきもの、民族を二分して三十年間も戦ったにしては、血なまぐさい報復がないだけ『さすが』というべきか『まし』というべきか・・・[本多勝一、朝日新聞、75年12月11日、3,p430]
■3.難民の命がけの脱出■
戦争後、せっかく「解放」された祖国を捨てて、多くの難民が国
外に逃げ出した。
七五年四月のサイゴン陥落の直前、直後に国外に脱出した「南」ヴェトナム人は総計一三万人を越したが、これは旧サイゴン政権の関係者や政府軍の高級将校、資本家とその家族が大半であり、革命につきものの亡命者とみなすことができる。しかしその後も脱出者は切れ目なく続き、七六年、七七年と増え続けた。[3,p427]
この年(78年)、外国に到着したヴェトナム難民は8万5千人以上に達した。その遭難率は50%近いと推定されるので、脱出者の実数は78年だけで恐らく20万人近くに達しただろう。[3,p436]
サイゴン陥落時の難民が、米軍機や米艦艇で運ばれたのに対し、その後の難民は、陸続きの国が社会主義国で、陸路の脱出が不可能なため、航洋性のない河川用の肝や小さなボロ漁船で海上に乗り出し、運を天に任せて近隣のマレーシアやタイの沿岸にたどり着くか、公海上で他国の船に拾われるかを当てにした決死的脱出であった。しかもシャム湾に跳梁する海賊に襲われれば殺されないまでも、身ぐるみ剥がされ、女性は子どもに至るまで集団暴行される。船はエンジンを壊され、燃料油も強奪されるから漂流せざるをえない。[3,p427]
この難民現象に対し、本多勝一は次のように書いている。
旧政権の直接当事者として『非常に良い思い』をしていた一部特権階級はすでにサイゴン陥落直前に逃亡した。一般市民の中で『かなり良い思い』をしていたのは、外国企業なり外国人と直接・間接に関係のあった階層であろう。この階層が今、逃亡に最も熱心である。かれらは『北べトナム』が大きらいで、理屈なしに、"アカ″が恐ろしく、市民が新経済区(開拓地)建設に少しずつ参加するようになってきたことを、将来ヘの絶望とみる。・・・
四百二十万人の大都市だったあのサイゴンは、減ったとはいえまだ三百五十万人。落ち着くまでには、この程度のことは『混乱』以前なのかもしれない。[朝日新聞、77年4月11日夕、3,p427]
■4.新経済区への追放■
難民たちが命がけの脱出を図ったのは、旧政権の公務員や下級将校だったというだけで、子女は進学の道を閉ざされ、親も就職は絶望的で、食うに困ると新経済区行きを強要され、断れば米の配給を停止されるからである。
この新経済区は大部分が耕作に適しないため農民も見捨てていた荒地やジャングルで、そこへ送られた開拓者たちには、政府が家を建て、最初の三カ月は食糧を支給するとの触れこみだった。しかし現地の役人が資材を横領することが多く、家屋といっても掘っ立て小屋程度のお粗末なそれだった。また最初の三カ月間の食糧も規定通り配給されないこともしばしばあり、飢えに苦しむことになる。
この新経済区についても、本多は次のようにレポートしている。
とはいうものの、新経済地域は、もし重大なつまずきがなければ、曲折しながらも、『おそらく』発展するであろう。こうした矛盾は単なるホコロビとして『たぶん』克服されるだろう。
『半強制的』とはいえ、旧サイゴン軍兵士にとっては、血なまぐさい報復もなく開拓地へ行くだけですむところに、べトナム革命の特徴もあるようだ。[ベトナムはどうなっているか、朝日新聞社、3,p432]
■5.報道と政治宣伝の見分け方■
以上、ベトナム戦争においては、二つのまったく対照的なタイプのジャーナリストが現れた。
一方は、徳岡孝夫氏や古森義久氏のように、現場に行って直接自分の目で物事を見て事を報道するタイプ。他方は、本多勝一氏のように、現場を見るといっても、せいぜいショーウインドウとしてしつらえた「人道的キャンプ」を見る程度で、提灯持ちの政治宣伝を書くタイプ。
両者の違いは文体に如実に現れる。前者の文章には、固有名詞、数字などがふんだんに出てくる。たとえば:
・ジアホイの高校の校庭には、一つの穴に二十三人の死体が、、、
・『解放学生青年連盟』と名乗る青少年が本屋や民家を一軒一軒回り、
後者の文章では、以下のように根拠も示されない憶測や予断が多い。
・今度はナメたわけですよ、やってきた解放軍を、・・・
・かれらは『北べトナム』が大きらいで、理屈なしに"アカ″が恐ろしく、、、
・こうした矛盾は単なるホコロビとして『たぶん』克服されるだろう
我が国では、大新聞でも真の報道と、政治宣伝とが混在しており、それらを見分けるには、こういう文体の違いに関する感覚を磨いておくと良い。
氏が対話したベトナム学生達はその後どうなっているのだろうか。北ベトナム軍によって反革命分子として処刑されたか、あるいは難民として小舟で脱出して南海の藻屑と消えたか。米軍が去った後には、氏の予言通り「甘っちょろい」南ベトナム人には誰も助けに来てくれなかった。
氏の言葉は、そのまま現在の平和日本にも通ずるだろう。きびしい国際政治から目をそらして、安逸をむさぼる平和日本。目を覚ますには真実を伝えるジャーナリズムが必要である。
[参考]
1.徳岡孝夫、「戦争屋」の見た平和日本、平成3年、文芸春秋
2.古森義久、ベトナム報道1300日
3.稲垣武、「悪魔祓い」の戦後史、文春文庫、H9
4.徳岡孝夫氏-「戦争屋」の見た平和日本
■おたより 紐育風子さんより
本多勝一氏のもう一つのベストセラー「南京への道」は昭和59年4~10月まで朝日ジャーナルに連載され、昭和12年、日本軍が上海に上陸し、蘇州を経て南京に至る侵攻路を、著者が辿り、現地の被害者の証言を元に書かれたものです。
現地の証人の声をじかに聞いて書いたのだから日本軍の残虐非道については間違いがない、と著者は書いています。
しかし昭和59年当時、中国政府は外国人記者が自由に地方を歩き回って取材することを許していたでしょうか。大朝日のスター記者、本多氏には現地で当局公認の「証人」が用意され、取材のセットアップがなされていたと推測されます。
私はこれまでアメリカで日本から来る有名レポーターのために効率よく「取材」できるよう、インタビュー相手や取材項目を準備する仕事を数多く手掛けてきましたが,こうした経験から容易に推測できることです。
著書から受ける印象通り、本多氏が行く先々の村や町で自ら聞き回り、自らの手で証人を探し出し、インタビューできたとは思えないのです。もし私の推測が正しければ本多氏は中国当局のプロパガンダにまんまと乗せられたという、ジャーナリストとしては最も恥ずべき役割を担ったということになるではないでしょうか。
■編集部より
なるほど、受け入れの側から見れば、事情を知らない記者を乗せるのは、簡単なのですね。
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