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JOG(103) 下村治 ~ 高度成長のシナリオ・ライター~

「日本経済は美しい白鳥になる」


■1.日本の爆発的なエネルギーを見てください■

 昭和39(1964)年9月、東京で初めてのIMF総会が開催された。102ヶ国からの参加者の前で、池田勇人首相が演説を始めた。

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 IMFの皆さん。日本の爆発的なエネルギーを見てください。皆さんから借りた資金は、国民の頭脳と勤勉によって立派に生きて働いています。明治維新以来、先人の築き上げた教育の成果が驚異的な日本経済の発展の秘密なのです。

 アジアの諸国の人々よ、あなたたちが今、独立にともなってうけつつある苦難は、敗戦以来、20年、われわれがなめつくした苦難でした。そこから一日も早く抜け出してください。その手がかりを見いだすことこそ、IMF東京総会の意義なのです。
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 池田の演説は好評だった。「低開発国の代表が多いから、彼らを鼓舞したのだろう」(シュバイツァー専務理事)の言葉に代表されるように、各国は日の出の勢いで台頭してきた日本に拍手を送っていた。[1,p169]

 この年、アジアで始めてのオリンピック開催、東海道新幹線開通、そしてOECD加盟。池田内閣の所得倍増計画のもとで、日本経済は驚異的な高度成長を遂げ、先進国の仲間入りをしつつあった。そのシナリオは、一人のエコノミストが、自ら生み出した最先端の経済成長理論をもとに、描いたものであった。

■2.綱渡り状態の日本経済■

 そのエコノミスト、下村治は明治43年佐賀市に生まれ、東大経済学部を卒業後、大蔵省に入省。当時のことを次のように語っている。

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 私は昭和9年の大学卒ですが、そのころ国民みなが失業と貧乏で困っていました。・・・日本は明治以来百年もたっているのに失業と貧乏の重圧から逃れることができない。その重圧が社会的な、あるいは政治的な混乱を生み、間違って戦争に駆り立てられるようなことになってしまった。そういったことをなくしたいと思っていました。高度成長になると、そのような重圧から解放されると信じていたのです。[1,p243]
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 昭和27年、日本は独立を回復したが、経済的にはお先真っ暗の状態だった。朝鮮戦争の特需が呼び水になって、景気がよくなると、すぐに輸入が激増する。一方の輸出は、日本製品の「安かろう、悪かろう」というイメージが残り、先進諸国は差別的な輸入制限を設けていて、なかなか伸びない。結局、貿易収支は3億ドルの赤字、外貨準備高が29年6月末には、6億ドルまで落ち込むという綱渡り状態だった。

 今まではGHQが外貨管理をし、ドルが足りなくとも穴埋めしてくれたが、独立後はそうはいかない。IMFからの22百万ドルの緊急借り入れで急場をしのぐありさまである。景気が過熱するたびに、日銀は、一定額以上の資金を借りる銀行から特別高い金利を取る「高率」適用や、輸入金融の廃止などで、ブレーキをかけていた。

■3.日本経済は美しい白鳥になる■

 しかし、下村はこのような現状の先に、まったく別の未来を見ていた。

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 日本経済はいま歴史的転換期にある。勃興期を到来させることができるかどうかの岐路に差しかかろうとしている。[1,p99]

 日本経済についてありとあらゆる弱点を言いつのり、いまにも破局が訪れるような予言をする人々を見ていると、アンデルセンの醜いアヒルの子を思い出す。その人々は日本経済をアヒルかアヒルの子と思っているのではないか。実際の日本経済は美しい白鳥となる特徴をいくつも備えているにもかかわらず[1,p100]
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 下村は大蔵省の記者クラブにいた経済記者たちに、「やがて日本のGNPは、西独並みになります」と予言して、彼らの度肝を抜いた。そんなことを考える人間は皆無に等しかったのである。

■4.投資と需要とのスパイラル・アップを■

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 投資には市況の良しあしに触発される感応投資と起業家の将来ビジョンによって実施される独立投資とがある。・・・今の投資は日本の企業家が将来に向かって明るい見通しを抱き、果敢にチャレンジしている独立投資なのだ。経済の成長段階ではこの独立投資が原動力になる。[1,p87]
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 下村は、貿易赤字のための金融引締めは、日本経済の潜在的な成長力を阻害していると見た。人々は豊かな生活にあこがれ、有効需要は十分にある。

 問題は、生産能力だ。生産能力を急速に拡大すれば、企業の売上は上がり、収益も増える。その結果、従業員の所得が増え、さらに需要は盛り上がり、企業は設備投資を続ける。こうして、設備投資と需要とが、相互に刺激し合って、スパイラルアップの成長を実現する。

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 借金の元利払いに困るというが、日本のように成長する経済が借金をするのは当たり前で、成長の果実によってやがて元利は返せる。[1,p131]
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 下村の見方からすれば、貿易赤字を心配して、設備投資にブレーキをかける日銀の政策は、お客さんが店頭で長蛇の列を作っているのに、借金が怖くて、店の拡張に踏み切れない弱気の経営者のようなものである。

■5.ノーベル賞級の経済成長理論■

 当時このように設備投資を組み込んで、経済成長のメカニズムを理論化した人間は、世界でも珍しかった。経済学者の宇沢弘文は、この分析が英文で世界の学会に紹介されていたら、ノーベル賞を取ってもおかしくなかったと述べている。

 下村は昭和23年から3年間、結核で病床に臥していた。終戦直後の食事にもこと欠く時代に激務を続けたのがたたったのである。そんなある日、突然下村は夫人に大学ノートを買ってきてくれと言い出した。医者は絶対にダメだと首を振った。

 しかし下村は「頭の中でどんどん考えが出てくるんだ。今書かないと消えてしまう。書かせてくれ」と聞かなかった。これが後に下村理論として知られるようになった経済成長理論の出発点である。

 しかし独創的な経済理論に基づき、日銀の緊縮路線を真っ向から批判する下村は、周囲からの理解を得られなかった。日銀の代表的なエコノミスト吉野俊彦、東大、一橋大の経済学者、そしてついには重鎮・都留重人までが登場して、いっせいに下村の説を批判した。

 孤立無援のままでも、下村は決して屈せず、論争を続けた。そのうちに、下村の主張に耳を傾ける人々が少しづつ現れ始めた。その一人が後の首相・池田勇人である。

■6.高度成長のシナリオ■

 池田に求められ、下村は畳半畳ほどの大きな表を作成した。輸出、輸入、設備投資など85項目に及ぶ経済指標が縦に並び、横には昭和36年から46年まで10年間にわたる数字がびっしりと書きこまれていた。下村が簡単な計算機を回しながら、ほとんど独力で作った高度成長の計画であった。そこでの成長率は10%以上にもなっていた。

 昭和34年に誕生した池田勇人内閣は、翌年から10年間で日本のGNP(国民総生産)を2倍にしようという所得倍増計画をスタートさせた。それに基づき、道路5カ年計画など社会資本の充実、優遇税制の実施による産業構造の高度化、貿易・為替自由化による貿易と国際経済協力の推進、工業専門学校の増設等による科学技術の振興など、矢継ぎ早の対策を打ち出した。

 企業経営者も、10年後には今の倍の市場が生まれる、貿易自由化で外国企業に負けてはならない、と奮い立ち、設備投資や技術導入を猛烈な勢いで進めた。臨海工業地帯には、巨大な鉄鋼、石油化学、火力発電などの巨大プラントが続々と作られた。国民の生活水準も急速に上昇して、カー、クーラー、カラーテレビの「3C」が花形商品となった。

 昭和43年、日本のGNPは西ドイツをついに追い越し、アメリカに次いで世界第2位となった。所得倍増計画の10年間のGNPは年平均11.3%の伸びを示し、倍増どころか、3倍となった。設備投資は14.8%、住宅建設15.1%、輸出は15.6%、輸入は14.5%と非常にバランスのとれた成長を遂げた。これは、この計画が日本経済の潜在的成長力を自然に引き出した事を物語っている。

 高度成長について下村は、次のような評価をしている。
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 現在のような不信と対立のあふれた国際社会の中で、日本人が権威ある発言をしていくにはその土台となる経済的基盤を固め東洋人としてただひとつの先進工業国を作り上げていく以外にない。それは何よりも経済で勝負した池田氏の時代にこそ日本人に対する世界の視線が注がれ、日本が国際社会への復帰を完成した事実が雄弁に物語っている。[1,p176]
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■7.バブルの失敗■

 高度経済成長は、まさにこの時期の日本にとって最適なシナリオであった。しかし、十分な経済成長を遂げ、また世界の状況が変われば、次のシナリオは当然変わらなければならない。

 昭和49年、オイルショックに襲われた日本経済に対し、下村は突如、ゼロ成長を主張して、世間を驚かせた。世界の原料の供給力そのものが低下すれば、その中で日本だけが成長を続けられるわけはない。下村はゼロ成長の中で物価を安定させ、財政を均衡させることを主張したのである。

 昭和50年代後半に入ると、アメリカのレーガン政権は積極的財政拡大政策をとった。58年から60年の3年間で、アメリカの輸入増加は1千億ドルを超え、その結果、日本の輸出増加も3百億ドル前後となりった。明らかにアメリカの輸入増加が、日本および他の国々の輸出増加を引き起こしたのである。

 しかしアメリカ側はこの不均衡の責任を転嫁して、日本の輸入不足によるものと非難し、その主張に沿って、日本が内需拡大を通じて貿易均衡を図るべき、という前川レポートが出された。

 下村はすでに日本経済には大幅な消費増加の可能性はないこと、その上で無理やり内需拡大をすれば、増強した設備による製品の売り場はなくなり、必ず破滅すると予測した。[2,p169]

 果たして、アメリカの要求に基づいた異常な金融緩和は、巨大なバブルとその後の生産能力過剰による長期的な景気低迷をもたらした。明らかな経済政策の失敗である。

■8.日本人による日本人のための政策を■

 日本経済は、下村のシナリオに従って高度成長に成功し、アメリカの要求に従うことによって、狂乱バブルとその後の長期停滞に陥った。正しい経済政策が、いかに経済的繁栄にとって大切なものかを示す実例といえる。それでは、正しい経済政策はどうしたら生まれるのか?

 たとえば、現在でもアメリカの主張に従って、無条件に貿易自由化やグローバルスタンダードを礼賛する人がいるが、それは手段と目的とを取り違えた議論だと下村は主張する。経済政策の目的は、一億二千万人が幸福に生きていくという「国民経済」の繁栄を実現することである。そして、各国が自国の国民経済を健全に運用して、相互に交流を深めていくところに、国際経済の正常な発展がある。

 アメリカは自国の行き過ぎた消費経済を棚に上げて、「貿易の拡大均衡」を日本に要求したが、アメリカの美辞麗句に踊らされて、日本の「国民経済」のあるべき姿を考えなかったのは、わが国自身の失敗である。

 下村の描いた高度経済成長政策は、日本人が、日本人のために、主体的に次代の国民経済のビジョンを描き、それを実現したものである。このようなたくましい主体性は、その前の占領時代にも、また、バブル以降にも見られなかった。今後の日本経済の再生は、まず下村の示したような政策の主体性を回復するところから始めなければならない。

■ 参考 ■

  1. 「エコノミスト三国志」、水木楊、文春文庫、H11.3

  2. 「日本は悪くない」、下村治、文芸春秋、S62.4
    © 1999 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

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