JOG(1316) 行基 ~ 民による瑞穂の国づくり
行基は各地での大規模な水田開拓事業を通じて、民すなわち大御宝が国を支えあう姿を実現した。
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■1.「利根川の東遷」「淀川の西遷」
利根川は群馬県から東に流れ、銚子のあたりで太平洋に注ぎます。しかし、江戸時代以前は、江戸湾(東京湾)に流れ込んでおり、ひとたび洪水を起こすと頻繁に水路が変わり、流域は度重なる水害に襲われていました。これでは安心して住むこともできず、田畑の耕作もできません。
そこで江戸時代初期に60年もかけて現在の水路に変更されたのです。この「利根川東遷事業」によって、江戸市中も安心して住めるようになり、かつ周辺に農地を広げる事ができたのです。
実は、大阪平野も同様でした。ひとたび大雨が降ると、淀川が暴れ、流域を水浸しにします。第16代仁徳天皇(西暦300年代末~400年代前半?)は、群臣にこう詔(みことのり)された、と日本書紀は伝えています。
こうして築かれたのが、大阪城のすぐ北を通って河水を海に流す「難波の堀江」や、淀川の流路安定のための「茨田堤(まむたのつつみ)」でした。この二つは日本最初の大規模な土木工事と呼ばれています。
しかし、その後も淀川の氾濫は収まらず、そこで西暦700年代前半に「淀川の西遷」が企てられ、見事に成功しました。「利根川の東遷」に匹敵する大土木事業が、900年も前に実現されていたのです。その中心となったのが、僧・行基(ぎょうき)でした。
■2.当時の仏僧は先端技術者
行基は、天智天皇が即位した西暦668年に、和泉地方(今の堺市のあたり)に生まれました。15歳にして出家し、道昭(どうしょう)の教えを受けたと伝えられています。道昭は唐に渡って、小説『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった玄奘(げんじょう)の教えを受けたことで有名です。日本に戻ってからは、井戸掘りや橋渡しなどの社会事業をしながら、仏法を説きました。
行基は道昭に付き従って、土木技術を習得したようです。当時の僧は、仏教のみならず、医学や暦、土木、建築などの先端技術者でもありました。
行基は704年、36歳の頃から、生まれ故郷の和泉地方で小さな溜め池の築造などを始めました。溜め池は水田に水を安定的に供給するために使われます。工事現場の近くに寺院や尼院として道場を作り、そこで役夫(えきふ、作業者)を泊め、彼らに仏教の道を説いたりもしていたようです。
豪族が農民のために稲を与えたり、農民の負担を肩代わりしてやった事例がいくつも記録に残っているので、豪族たちの協力も得ていたのでは、と考えられています[井上、p52]。豪族にしても、溜め池を作ることによって米の生産高が上がれば、自分たちの利益にもなります。
■3.天平の「所得倍増計画」
∂養老6(722)年、朝廷は「良田一百万町歩開墾計画」を立てます。人口増加により、口分田として支給する田地が足りなくなっており、あらたに百万町歩の田を開拓しようという計画です。
百万町歩がどれ位か、かつて建設省の河川局長までつとめた尾田栄章氏が分かりやすく、こう説明しています。当時の人口約6百万人から推定すると、すでに開墾されていた水田面積は60万町歩から90万町歩。ということは、百万町歩の開墾とは、水田面積を倍増以上にしようという大胆な計画なのです。尾田氏は、これを「所得倍増計画」とも言うべき、と指摘しています。
その手段として、翌年に制定されたのが「三世一身法」です。これは新しく灌漑用水路を作って開墾した場合は、本人、子、孫の3代の使用を認め、既存の水路を利用した場合は本人一代限りの使用を認める、というものでした。開墾では田を切り拓く事よりも、新たに水を確保する事の方が大変なのです。
また、「良田一百万町歩開墾計画」では、収穫量3千石以上の開墾をした場合は、勲六等の叙勲、1千石以上には終身課税免除という報奨も設定しています。3千石と言えば、120町歩、男600人分の口分田に相当します。
こうした規定からは、朝廷は民間による大規模な開墾を期待している様が浮かび上がってきます。この頃、行基は数千、数万の人々を率いて、相当規模の貯め池の築造や開墾事業を展開しており、良田一百万町歩開墾計画と三世一身法は、まさに行基のような民間の大規模開墾に期待した施策だったようです。
■4.1メートルあたり2~3ミリの勾配の導水路掘削
行基率いる集団の高度な灌漑技術は、現在の大阪府岸和田市にある久米田池(くめだいけ)に見ることができます。久米田池は広さ45.6ha、貯水量157万トン、周囲約2,650mの大阪府内最大の面積を持つ溜め池です。神亀(じんき)2(725)年から天平10(738)年まで14年かけて造られたと伝えられています。1300年経った現在でも、溜め池として活用されています。
三方を自然の台地に囲まれ、残りの一方に堤防を構築して、溜め池とされました。しかし、問題は、どこから水を引くかです。すぐ横に牛滝川という水量豊かな河川が流れていますが、その水位は久米田池の最高水位より10メートルも低いのです。
そこで、牛滝川を6キロメートルほど遡って、10数メートルほど高い地点から緩やかな傾斜の導水路を作って、久保田池に注ぎ込む、という手法がとられました。この辺りの地形の勾配は300分の1から500分の1。ということは1メートルあたり2~3ミリです。これだけの精密な傾斜を持つ6キロもの導水路を作る技術を、行基集団は持っていたのです。
これだけ高い水面を持つ久米田池からなら、牛滝川よりも高い処にある土地にも水を送れます。それによって、流域でより広い水田を拓くことができるのです。
■5.淀川中下流域の総合開発事業
天平2(735)年以降は、それまでの経験を生かし、畿内全域での大規模な開墾事業が展開されました。冒頭で述べた淀川中下流域の開発もこの時期に行われています。
淀川中下流域とは、現在の枚方(ひらかた)市のあたり、延長10キロメートル、幅2キロメートル、面積約20平方キロメートルの広大な沼地を一気に農地に変えようという大事業です。面積1820町歩は、口分田で言えば9100人分にもあたります。
この沼地を農地にするためには、
・淀川の氾濫を防止する治水対策
・沼地となっている地域の干陸化、そのための排水対策
・灌漑施設の整備による用水対策
の3つの施策を総合的に進めなければなりません。治水対策の柱は、水量を他の河川などに分散させる放水路を作ることです。行基集団は淀川から、北に並行して流れる神崎川などに3本の放水路を作りました。うち2本は幅200メートル級です。
放水路は幅が大きいほど、洪水時に吸収できる水量が大きくなり、氾濫の危険性が減少します。さらに、平時にも水面が低くなり、それだけ周囲の田からの排水も容易になります。行基集団は同時に淀川に堤防や橋を何カ所にも設けています。尾田氏はこうした行基の規模壮大な事業について、こう評しています。
尾田氏は行基集団のバックに朝廷の支持があったと指摘していますが、それにしても、民間人たちが主役となって、これだけの事業を展開するだけの民力の高まりには、驚かされます。
■6.行基が結集した民の力で作られた大仏
聖武天皇による大仏鋳造の詔は天平15(743)年に出されました。聖武天皇の治世の初期は干魃、地震、天然痘などの天災が何年も続き、それに対して、天平9(737)年暮れにこう記しています。[JOG(1314)]
いくら仏法が優れていても、それを民一人ひとりが心に受けとめて、互いへの思いやりを持ち、それぞれが国家共同体のために尽くすようにならなければ、幸福な国家は作れない、と考えたのです。そういう思いを持つ聖武天皇が、行基集団の技術力、動員力、そして国家人民のための志に着目したのは当然でしょう。
行基は大仏造営の勧進役、すたわち寄付や労働提供の募集責任者に任命されました。大仏の建造費は現在価値で約4657億円にのぼると試算されていますが、その相当部分は地方の豪族たちからの寄付でした。また大仏造立には、のべ260万人もの民が参画しました。これだけの規模の寄付や労働提供が集まったのは、行基集団の力があったからこそでしょう。
ちなみに、大仏造立に参加した役夫の消費など、経済波及効果は約1兆246億円に上ると推定されています[日経]。大仏造立は民間の活力が発揮され、そしてその波及効果も広く民に及んだのです。
■7.民を育て、その力を引き出した行基
行基の事業では広く民を「大御宝」として大切にしよう、という姿勢が見られます。治水利水架橋などの工事現場では、かならず道場が作られ、そこで役夫たちは寝泊まりしながら、仏教も学びました。その道場について、尾田氏はこう指摘されています。
道場に寝泊まりし、工事に参加することで、人々はそれぞれの技術分野でのエキスパートに育っていったのです。まさに「処を得た大御宝」になり、その総力が結集されて、巨大な地域開発事業として花開きました。
道場は男女別で、男性用の寺院に併設して女性用の尼院が建てられました。ただ、現在の堺市にあった深井尼院は単独に建てられており、尾田氏は近くの薦江池は女性が主役となって作られたのではないか、と推測されています。口分田は女性も男性の2/3の大きさを与えられていることから、我が国は古来から、西洋や中国とは違って男女共同参画社会だったようです。
また、天平13(741)年、奈良県と京都府の県境近くを流れる木津川の和泉大橋の架橋のために道場・泉橋院が建てられました。そこに聖武天皇が行幸され、74歳の行基が迎えて終日対談しました。その際に、行基が「猪名野(兵庫県伊丹市あたり)に給孤獨園を造りたい」と申し出て、許されました。弧は孤児、獨は身寄りのない老人です。
伊丹市には昆陽池という大きな池がありますが、高度成長期になされた埋め立ての前はその3倍もの大きさがありました。その池を行基集団は造って、この辺りの地域総合開拓も行ったのです。
開拓した水田の一部の150町歩、成人男子750人分の口分田に相当する田地が、この給孤獨園の経済的基盤として充てられました。そこでは孤児や老人たちも農作業に精を出して、働いたことでしょう。これなら他からの寄付に頼ることなく、自立して運営していけますね。
こうした民間活力による国土創成はその後も続き、尾田氏は延歴4(785)年、行基没後36年経った時でも、近江の人が私財を投じて、3万6千余人を動員した工事をした、という記事を紹介しています。
■8.「互いに力を合わせて国を支える大御宝の姿」
「日本の社会資本整備には民が大きく関わっている」と尾田氏は述べ、「この系譜の劈頭(へきとう)に位置するのが行基」としています。[尾田、p52]
我が国は神武天皇が即位にあたって、民を大御宝と呼び、「大御宝を鎮むべし」との詔を発せられました。大御宝を大切にするとは、現行憲法第25条の言う「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障するだけでは足りません。
民は、それぞれ処を得て、自らの個性、能力を発揮して、それぞれの一隅で国家社会を支えるのが理想です。そうした自己実現を図ってこそ、人間としての生き甲斐も得られるのです。
聖武天皇が大仏造立に関して「一枝の草、一把の土」でも良いから、と民に協力を呼びかけられ、のべ260万人もの人々が参加した光景は、まさに互いに力を合わせて国を支える大御宝の姿を実現したものです。聖武天皇の祈りを、民の側のリーダーとして実現したのが行基であった、と言えるでしょう。
(文責:伊勢雅臣)
■おたより
■伊勢雅臣より
1300年前の先人の足跡が、今の我々の繋がっているのですね。なんと豊かな歴史でしょう。
■伊勢雅臣より
長文のお便り、ありがとうございます。行基のような凄い人物でも、歴史教科書では「行基のように,一般の人々に布教して歩き,人々とともに橋やため池を造る僧も現れました」(東京書籍)という程度の記述で済ませているところに、我が国の歴史教育の不毛ぶりが現れています。
なお、尾田氏の力作が参考リストから漏れており、失礼しました。本ブログでは訂正してあります。
■リンク■
■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・井上薫『行基』★、吉川弘文館、S62
・宇治谷孟『全現代語訳 日本書紀 上』★、講談社学術文庫、S63
・尾田栄章『行基と長屋王の時代』★★、現代企画室、H29
・日本経済新聞H220806「『奈良の大仏』建造費4657億円 いまの価格で試算」
■おたより
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