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JOG(437) 小野田寛郎の30年戦争

「いまの日本が失ったものを持っている戦前の日本人の生の声が聞けるかもしれない」


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■1.「オレには戦争は終わっていない!」■

「おい」と背後から声をかけられ、炊事のために火を起こしていた鈴木紀夫は立ち上がって、振り返った。声をかけた男は銃を構え、夕日を背に近づいてきた。昭和49(1974)年2月20日、フィリピン・ルバング島山中のことである。

「ボク、日本人です。ボク、日本人です」と鈴木青年は繰り返し、ぎこちなく軍隊式の挙手の敬礼を二度した。男が鉄砲を自分に向けていると知って、足がガタガタと震えだした。

「小野田さんですか?」と鈴木青年はうわずった声で聞いた。「そうだ、小野田だ」「あっ、小野田少尉デアリマスカ」と、急に軍隊調になった。「長い間、ご苦労様でした。戦争は終わっています。ボクと一緒に日本に帰っていただけませんか」

 小野田少尉は、鈴木青年を怒鳴りつけた。「オレには戦争は終わっていない!」

■2.戦前の日本人の生の声が聞けるかもしれない■

 小野田少尉は4日前から、この青年の行動を監視していた。テントで野営するからには討伐隊か。敵は日本語のできるやつをオトリに送り込んできた、と小野田少尉は警戒心を強めていた。

 鈴木青年はポケットからマールボロを出して、小野田少尉にすすめた。米国製タバコとは、ますます怪しい奴だ。

「君はだれの命令を受けて来たのか」と詰問する小野田少尉に、「いや、単なる旅行者です」と答える。

 小野田さん、ボクは戦後生まれなんだけど、いろいろ戦前のことなども好きで、本を読んだり話を聞いたりしているんです。でも、いまの日本と戦前の日本では、人間まで変わってしまっているんですよね。それでボク、小野田さんがこの島に残ってまだ戦争をしているという記事を新聞で読んで、そうだ、そんな人間、それも陸軍の将校さんがいるのなら、一度会って話をしてみたい。いまの日本が失ったものを持っている戦前の日本人の生の声が聞けるかもしれないとね。

 おいおい、この男はいったいどうなっているのか、と小野田少尉は思った。わけがわからなかったが、それにしても面白いことをいう日本青年がいるものだと、ちょっぴり親近感を抱いた。

■3.「3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」■

「オレは民主主義者だよ。いや、自由主義者の方がいいな。だから兵隊になる前は中国で随分勝手気ままに遊んだものだ」

 小野田寛郎(ひろお)は昭和14(1939)年、和歌山の中学を卒業すると、貿易商社に就職し、中国の漢口(今の武漢)の支店に務めた。17歳にして英国製の背広を着て、米国車に乗り、夜のダンスホールに入りびたる日々だった。「あいつはホールで中国娘を口説くために中国語を勉強している」などと言われた。

 昭和17年5月、満20歳になると、徴兵された。しばらく中国ゲリラ掃討作戦などで弾の下をくぐった後、昭和19(1944)年9月、中国語ができるのを買われて、陸軍のスパイ養成機関・中野学校に送られた。そこでは「たとえ、国賊の汚名を着ても、どんな生き恥を晒してでも生き延びよ。できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂である」と教わった。

 約3ヶ月の特訓の後、フィリピン戦線に送られた。米軍の上陸が間近と予想されており、「小野田見習士官は、ルバン(グ)島へ赴き、同島警備隊の遊撃(ゲリラ)戦を指導せよ」と口頭命令を受けた。小野田少尉は、以後30年間、この命令を守り続ける。

 ルバング島は、マニラ湾を塞ぐように位置する南北27キロ、東西10キロの小島である。敵のルソン島攻撃を遅延させるために、ルバン飛行場の滑走路を破壊し、敵が上陸したら、敵機の爆破を図れという命令だった。「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」と言われた。

■4.ゲリラ戦の開始■

 昭和20年2月、米軍のルバング島上陸が始まった。艦砲射撃と地上攻撃機による爆弾投下の後、戦車4両を先頭にした海兵約1個大隊が上陸を開始。約200名の日本軍は4日間の戦いに敗れ、小野田少尉は数人の兵士を連れてジャングルに逃げ込み、ゲリラ戦に入った。

 8月中旬になると、毎日威嚇射撃をしていた米兵の姿が見えなくなった。10月中旬には、住民が「8月15日、戦争は終わった。命は保証する。山を降りてこい」と下手な字のビラを置いて逃げていった。確かに敵のパトロール隊は米兵からフィリピン兵に代わっていたが、彼らは日本兵と見るとしゃにむに発砲してくる。戦争が終わったと信じろという方が無理だった。

 昭和20年暮れには、米爆撃機が大量のビラを投下した。「第14方面軍 山下奉文」名の「降伏命令書」であった。しかし、「投降者ニ対シテハ食物、衛生助ヲ与へ、日本ヘ送ス」と、まるで日本語になっていない。山下将軍の名をかたった米軍の謀略だと判断した。

■5.「戦闘」■

 後に、日本からの捜索隊が来て、新聞を置いていったが、「ねぐら発見」「たき火跡を発見」といった記事を見て、小野田少尉は思わず、噴き出したという。自分たちを「やせ衰え、穴の中で隠れて暮らしている気の毒な日本兵」としかとらえていなかったからである。

 小野田少尉らは「戦闘」を続けていた。日本軍が再上陸してくるとすれば、水深が深く山が迫った西海岸だと考え、そこから住民を威嚇して追い払い、向かってくる敵には容赦なく発砲した。

 捜索隊が置いていった新聞や、住民から奪ったラジオの日本語短波放送で、祖国の現状は察知していた。日本本土は米軍に占領され、カイライ政権が作られている。しかし、本当の日本政府は満洲のどこかに存在して、戦争を継続している。ベトナム戦争で米軍機が連日、南方に飛んでいくのも、日本軍が猛反抗に出たからだと判断した。

 アメリカは民主主義の国だから、戦争が泥沼になれば、世論は反戦に傾く。勝てる戦いではないが、条件講和に持ち込めば良い。小野田少尉の戦いは、その一部であった。

 フィリピン警察軍は、約30年の間に93回の討伐を行った。時には約100人を動員して包囲作戦に出て、小野田少尉以下は激しい銃撃戦を展開して、包囲網を突破した。

 また、収穫期には住民を威嚇して追い払い、積み上げたモミに火をつける陽動作戦を行った。通報を受けた国家警察軍がすっ飛んでくるが、通報は当然、米軍にも行くだろう。日本の諜報機関は必ずそれをキャッチするはずだ。友軍に、自分たちの存在を知らせる工作であった。

 しかし、女性と子どもには危害を加えなかった。戦闘力も敵意もない女子どもは、戦いには無関係だったからだ。後に投降した小野田少尉に、州知事夫人はこう語っている。

 島の男たちは30年間、大変怖い思いをした。不幸な事件も起きました。しかし、オノダは決して女性と子どもには危害を加えなかった。彼女たちが子供たちと共に安心して暮らすことができたのは、大変幸せなことでした。[1,p147]

■6.こだますら打ち返さざり夏山は■

 昭和29年5月7日、日本軍再上陸のために占領していた西海岸に、30数名の討伐隊がやってきて、銃撃戦となった。射撃の名手だった島田庄一伍長が眉間を打ち抜かれ、即死した。

 昭和47年10月17日には、稲むらに火をかける陽動作戦の最中に、警察軍に襲われ、小塚一等兵が銃撃でやられた。

 とうとう一人になってしまった。しかし、「次は自分の番だ」という恐怖心はなぜか湧かなかった。敵に対する憎悪がこみ上げたが、その感情におぼれることを防ぐために、自分の命の年限を決めた。あと10年、60歳で死ぬ。60歳の誕生日、敵レーダー基地に突撃。保存している銃弾すべてを打ち尽くして、死に花を咲かそう、、、。

 小塚一等兵「戦死」のニュースは、日本でも衝撃的なニュースとして取り上げられた。ヘリコプターが飛び、「小野田さん、生命は保証されています。いますぐ出てきてください」と呼びかけた。

 ジープからは女性の声が流れた。「ヒロちゃんが、私に二つくれたわね」 姉千恵の声である。結婚祝いに贈った真珠の指輪のことだ。長兄や次兄、弟の声も聞こえた。本物に違いないと思った。

 小野田少尉は二通りの見方を考えた。一つは米軍の謀略工作だ。「残置諜者」の自分を取り除くために、占領下の日本から肉親まで駆り立ててきたというもの。もう一つは日本の謀略機関が、アメリカを欺くためのトリックとして、捜索隊という口実で、島の飛行場やレーダー基地の情報収集をしている、というもの。アメリカのベトナム戦争での失敗をついて、経済大国にのし上がった日本がフィリピンを自陣営に取り込む目的か。

 いずれにせよ、肉親の呼びかけを信じて、うっかり出て行ってはならない、と小野田少尉は判断した。

 捜索隊は、「小野田山荘」と看板が掛けられた立派な小屋を残していった。そこには87歳の父・種次郎の俳句が板壁に貼り付けてあった。

こだますら打ち返さざり夏山は

■7.「投降命令」■

 肉親も含めた捜索隊が引き上げて約1年後、昭和49年2月、冒頭の鈴木青年が登場する。

 小野田少尉は鈴木青年と徹夜で語り合い、上官の命令があれば、山を下りる、と約束した。鈴木青年は2週間ほどして、上官の一人だった谷口義美・少佐を伴って、戻ってきた。小野田少尉は日暮れ時を狙って、残照の西空を背に、二人のテントの前に出た。少佐が姿を現すと、不動の姿勢をとった。

「小野田少尉、命令受領に参りました」
「命令を下達する」

それは思いもかけない「投降命令」だった。

 不意に背中の荷物が重くなった。夕闇が急に濃くなった。(戦争は29年も前に終わっていた。それなら、なぜ嶋田伍長や小塚一等兵は死んだのか・・・・)

 体の中をびょうびょうと風が吹き抜けた。

■8.「あなたは立派な軍人だ」■

 小野田少尉は、戦闘服で、フィリピン空軍レーダー基地での「投降の儀式」に出た。整列した将兵が、捧げ筒で迎えた。 翌日は、ヘリコプターで、マニラのマラカニアン宮殿に運ばれた。マルコス大統領が待っていた。大統領は小野田少尉の肩を抱き、こう言った。

 あなたは立派な軍人だ。私もゲリラ隊長として4年間戦ったが、30年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する。われわれは、それぞれの目的のもとに戦った。しかし、戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為のすべてを赦します。[1,p193]

 昭和49(1974)年3月12日、羽田空港に降り立った。すぐに記者会見に臨んだ。

- 人生の最も貴重な時期である30年間をジャングルの中で過ごしたことについて

(質問者を凝視して、しばらく考えた後)若い、勢い盛んなときに大事な仕事を全身でやったことを幸福に思います。

- 日本の敗戦をいつごろ知ったか。また、元上官の谷口さんから停戦命令を聞いた時の心境は。

 敗戦については少佐殿から命令を口達されて初めて確認しました。心境はなんともいいようのない・・・(うつむきかげんで、力なく言葉がとぎれかけたが、再び顔をキッとあげると)新聞などで予備知識を得て、日本が富める国になり、立派なお国になった、その喜びさえあれば戦さの勝敗は問題外です。

■9.「人間としての誇りまで忘れて経済大国に復興した日本」■

 政府から100万円の見舞金が届けられたが、小野田少尉は、靖国神社に奉納した。それに対して、京都のある女性からは「軍国主義復活にくみする行為」という非難の手紙が来た。

 これは主義の問題ではなく、人間としての問題である。小野田が、平和日本が受け入れられない「軍国の化石」であるならば、それは日本人が敗戦を境に戦争指導者までもが一億総転向したからではなかったか。[1,p14]

 広島の平和記念公園にも衝撃を受けた。原爆犠牲者の慰霊碑に「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」とあった。

 私は戦友に聞いた。「これはアメリカが書いたものか?」「いや、日本だ」「ウラの意味があるのか? 負けるような戦争は二度としないというような・・・」

 戦友は黙って首を横に振った。

 日本は昭和20年、米英など連合国の前に屈服した。しかし私はいま、人間としての誇りまで忘れて経済大国に復興した日本に無条件降伏させられているのだ―と感じた。[1,p14]

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 小野田寛郎『たった一人の30年戦争』★★★、東京新聞出版局、H7

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■「小野田寛郎の30年戦争」に寄せられたおたより

「たかし」さんより

 数年前、小野田寛郎氏の講演を聴く機会がありました。 

 70歳を過ぎて尚衰えぬ気力と約1時間半の間、とうとうと大きな声で講演を続ける体力、知力に驚かされました。さすが帝国陸軍中野学校出身と感心させられました。 

 帰国当時の日本に幻滅しブラジルに渡りはしましたが、将来を担う子供達の教育に携わるため日本に戻り「小野田塾」を開いたその使命感にも感動いたしました。

「小野田塾」の存在は勿論承知しておりましたが、単なる戦争ゴッコの集団くらいにしか認識していなかった自分が情けなく、小野田氏に申し訳無い想いでいっぱいになりました。

 私も誇りある日本人の再生のため努力して参りたいと思います。

「栄作」さんより

 横井庄一さん、小野田寛郎さんが帰国された頃のニュースを子供の頃に見ていた記憶があります。あれからすでに30年経つ事を考えると、30年という月日の重みを感じます。ジャングルの中で戦い抜いた、その精神力の強さ、また同時に豊富な知識と冷静な分析力・判断力をも併せ持っておられたことも注目に値すると思います。

 何年も前ですが週刊誌の「メタルカラーの時代」で小野田氏と山根一眞氏との対談を読んだことがあります。その中で、ジャングルで夜空を見ていて光る物体を発見したとき、それが人工衛星だと知っていた、と書かれていました。「子供の科学」(誠文堂新光社;戦前から続く雑誌)に書かれていたものが実際に現れたと思ったのだそうです。私も読んでいたこの雑誌、今は自分の子供達にも読ませています。

 また自分の便の状態の観察から健康状態を知り、健康に最も気遣っていた、とも話されていました。小野田氏は「科学の人」でもあったのですね。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 小野田さんの体力も知力も、そしてそれを生み出した使命感も、戦後の我々が失ったものですね。

© 平成18年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

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