JOG(1244) ボランティア尾畠春夫さんの生き方 ~「他者への想像力とほんの少しの優しさ」
行方不明になった2歳児を見つけ出したボランティア尾畠春夫さんが問いかける生き方。
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■1.行方不明になった2歳児を発見したボランティア
2018年8月、山口県で2歳の男の子よし君が行方不明となり、警察や消防が150人態勢で2日かけても探しても見つからなかったのを、大分県から駆けつけた一人のボランティアがわずか2、30分で見つけた、という救出劇は全国的なニュースになったので、覚えている読者も多いでしょう。
そのボランティアは尾畠春夫さん、79歳(当時)。その数日前まで西日本豪雨により被災した広島の呉市で、泥の撤去作業に従事していましたが、一度、大分の自宅に戻ったところで、よし君行方不明のニュースに接しました。翌日になってもまだ見つからない、という事で、手伝いに行こうと決心します。
朝、大分を発って、ずっと地道を走り、午後2時頃、現地に着きました。年金の月5万5千円だけで、すべて自弁でボランティア活動をしているので、高速道路は使いません。車は中古で買ったダイハツの軽ワゴン。走行距離は20万キロを超えています。寝泊まりもすべて、この車の中です。
現地に着いて、まずは付近を歩きました。高台に登って、眼下に広がる田んぼを眺めます。もし子供が倒れていたら、その部分だけ稲の色が違って見えるはずですが、そういうところがないので、田んぼではないな、と判断しました。
段々畑は踏んだ跡がずっと残っていたので「ここはもう警察が捜索したんだな」と思いましたが、見落としているところもあるかと、念のため見て回りました。その日はそれで終わり、車の中で寝袋に入って寝ました。
■2.「お母さんの姿を見たときはもう、本当にうれしかった」
翌朝、6時頃から裏山に登り始めました。以前、大分でやはり2歳の女児を捜索した時にも、山の上の方で見つかり、小さい子は上の方に登っていくのではないか、と考えたからです。「よーしくーん」「よーしくーん」と大声で呼びながら、山道を登っていきます。早朝から始めたのは、まだ捜索も始まっておらず、静かなので小さな子の声も聞こえるかもしれない、と思ったからです。
すると、2、30分ほどで、「ぼく、ここ」「ぼく、ここ」と、しっかりした声が聞こえました。声の方向に10メートルほど行くと、小さな沢で男の子がちょこんと座っていました。近づいて「よし君?」と声をかけると、「うん」と頷(うなづ)きます。
「よし君、飴(あめ)食べる?」と聞くと「うん」と言って、飴の袋にすごい勢いで手を伸ばしました。もう3日も食べていないので、無理はありません。パチンコ玉よりちょっと大きな飴を10個ほど持ってきていたのです。小さい子には、これくらいがちょうど良いだろうと考えて。
尾畠さんは用意していたバスタオルでよし君をくるみ、抱いて、山を下りました。途中で、警官たちに混じって、よし君のお母さんが待っていました。
■3.「スーパーでもコンビニでもない、ただのボランティアだ」
150人が2日がかりでも見つけられなかった幼児を、わずか2、30分で見つけたということで、「スーパーボランティア」と呼ばれるようになり、この言葉は年末の流行語大賞トップテンにも選ばれました。ニュースに登場した尾畠さんは「スーパーでもコンビニでもない、ただのボランティアだ」と笑わせながらも、その言葉は気に入らなかったようで受賞を辞退しました。
尾畠さんは、「スーパーボランティア」という言葉が一人歩きすることで、ボランティアのハードルが高くなり、「私には無理」「特別な人だけ」と思う人が増えてしまうことを警戒していたようです。そもそも「誰だってできることはある。まずは一度、被災地に来てほしい」というのが、尾畠さんの想いでした。
尾畠さんは65歳まで大分で魚屋をやっていました。持ち前の研究心で、地元では大変、評判がよく、一度も赤字になったことがなかったそうです。そして65歳になった時、ピタリと店を閉めて、ボランティア活動を始めました。
「仕事や子育てでお世話になった恩返しがしたい」と話していましたが、ボランティア活動を始めたきっかけの一つに、一人の米兵の話を聞いて深く感動した経験があったようです。
その米兵、在日米軍のジョン・O・アーン少佐は1960年に別府の戦災孤児施設の改築資金を得ようと、神奈川県の座間米軍基地から別府までの1320キロを2週間で歩けるかどうか、同僚たちと賭けをします。一日100キロ近い旅ですが、それをこなして得た掛け金を施設に寄付したのです。
尾畠さんは貧しい子沢山の家に生まれ、小学5年生の時から豊かな農家に奉公に出されました。そんな体験からも、子供たちのことを思うアーン少佐の行為には深く感じる所があったのでしょう。
■4.「思い出探し隊の隊長をやってくれないかね?」
尾畠さんはあちこちの被災地で様々なボランティア活動をしていますが、その中でも印象的な一幕を紹介しましょう。
東日本大震災が起こった時、大分と南三陸町の間を車で往復しながら、延べ500日、ボランティア活動をしました。そんな尾畠さんに初めて会った南三陸町の佐藤仁町長は、いきなり「尾畠さん、思い出探し隊の隊長をやってくれないかね?」と頼みました。尾畠さんの風貌に、何か感じるところがあったのでしょう。
瓦礫の中には、被災者の思い出の詰まったアルバムやランドセル、位牌、卒業証書などがたくさん埋もれています。ショベルカーが瓦礫の撤去を始めれば、なにもかもが「ゴミ」として処分されてしまいます。佐藤町長は「もし、思い出の写真1枚でも見つかれば、すべてを流された人々の心のよりどころになるのではないか」と考えて、「思いで探し隊」の結成を思いついたようです。
数ヶ月続けた「思い出探し隊」の活動の中で、尾畠さんとしても一番記憶に残っているのは、志津川(しずがわ)に流された家が何軒も重なっている所でした。そのうちの一カ所に、一枚の写真の角が少しだけ地面から出ているのが見えました。白い裏側しか見えませんが、結構な大きさがあって遺影かなと尾畠さんは思いました。
「こういうところは探さないでください。危ないですから」と言われていましたが、尾畠さんは「思い出探し隊」のボランティアの人たちには「ねえさんたちは絶対に入らないでください。私はいろんなところで経験があるから、あそこに入って取らせてもらいますから」と言って、ひとり瓦礫の中にに入っていきました。
その写真には、6歳くらいの、小学校に上がるか上がらないかくらいの、着物を着たかわいい女の子が写っていました。
■5.「家族の写真を見つけるたびに、あったぁ!つて言ってくれてね」
写真はきれいに洗って、テントの中に張ったロープに洗濯ばさみで吊して陰干しにします。そうした写真やランドセルがたまって、町役場の人が「みなさん、取りに来てください」と町民に呼びかけました。
「たしか、この女の子が写った写真が一番に家族に見つかったんじゃないかな」と尾畠さんは回想します。七五三か何かの記念日に撮った思い出の写真でした。
最初はたった一人で始めた「思い出探し隊」も、ゴールデンウィーク前後になると、毎日、10人前後のボランティアが参加してくれるようになりました。元気な人は外に写真を探しに行ってもらい、体が不自由な人やご高齢の人にはテントの中で洗浄作業をお願いしました。
「思いで探し隊」の仕事は、人命救助や復旧を使命とする自衛隊や警察、消防など公的な組織では難しいでしょう。ボランティアだからこそできる仕事です。その中で、耳が遠くとも、足が不自由でも、引きこもりの人もできる作業はいくらでもある。誰でもが「処を得る」という我が国の伝統的理想を、尾畠さんはこういう場面で現実にしているのです。
■6.「いのちの重さ」
「命ほど重いものはない」というのが、尾畠さんの口癖です。しかし、尾畠さんのいう「いのち」は、「人命は地球より重い」などという観念的なヒューマニズムではありません。かつて四国霊場八十八か所の巡礼をした動機を聞かれて、「今まで商売とはいえ、たくさんの魚を殺してきたっちゃ。その供養の旅なんよ」と答えた人です。
被災地でレトルトの味噌汁を飲む際にも、袋のへりにくっついた乾燥ワカメも底に残った数滴の汁も、水を足して飲み干します。そのわけを、尾畠さんはこう説明します。
尾畠さんの「いのち」とは、魚や乾燥ワカメのいのちまでも含めている。これはまさしく太古の昔からの日本人の生命観そのものです。「生きとし生けるもののいのちに我々は生かされている」、その思いがすべてのものへの感謝につながります。
尾畠さんは由布岳に頻繁に登っては、登山道を整備したり、休憩用のベンチを作ったりしていますが、ある時、山に登りながら、こんな事を言ったそうです。
同行した『お天道様は見てる 尾畠春夫のことば』の著者の白石あづささんは、山登りを終わった時の光景をこう書いています。
■7.「今の日本に必要なものは、他者への想像力とほんの少しの優しさ」
白石さんは3年をかけて尾畠さんを取材し、一緒に山に登ったり、ボランティア作業もしました。そのなかでこんな感想も述べています。
尾畠さんがよし君捜査で見せた観察力や、「思い出探し隊」でのリーダーシップも「他者への想像力とほんの少しの優しさ」から出ているのでしょう。これは、何も特別なことではありません。日本人の先人たちが豊かに持っていた「生きとし生けるもの」への同胞感を思い出し、そこから感謝と報恩のこころを新たにすれば得られるものだと思うのです。
(文責:伊勢雅臣)
■おたより
■伊勢雅臣より
「いつもチョッピリを続けていくと、いつの間にかウント思いやり」というお言葉から、二宮尊徳の「積小為大」を思い出しました。
■伊勢雅臣より
「どんな事でもやれば達成感があります」「自分ができることをやる事で」「処を得る」とは、まさにご体験の籠もった言葉ですね。
■リンク■
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■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・尾畠春夫『尾畠春夫 魂の生き方』★★★、南南社、H30
・白石あづさ『お天道様は見てる 尾畠春夫のことば』(Kindle版)★★★、文春e-book、R03
■伊勢雅臣
ボストンと言えば、アメリカの独立革命発祥の地。アメリカの人民が、自分たち共同体全体のことを考えて、独立革命を始めた、そこに米国民の強さの「根っこ」があると考えています。
そういう気風を、我が国も取り戻したいものです。そう思いつつ、この本を書きました。
伊勢雅臣『この国の希望のかたち 新日本文明の可能性』
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