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JOG(474) 加藤友三郎 ~ ワシントン軍縮会議・全権代表

「アドミラル・カトーは、ワシントン会議において日本が表明した名誉ある協調的精神の責任者」


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■1.ワシントンのホテル・ショーハムにて■

 ワシントンの瀟洒なホテル・ショーハムの3階の部屋で、海軍大臣・大将、加藤友三郎は瞑目していた。1921(大正10)年11月11日、ワシントン軍縮会議が始まる前日であった。

 テーブル上に広げられたワシントン・ポスト紙には、"Japanese Prime Minister Assassinated”(日本の首相暗殺される)と、大礼服姿の原敬首相の写真とともに報じていた。

 10月15日、出発の際の歓送会で、原首相が「加藤さん、軍縮のことは頼みますぞ」と手を握ったそのぬくもりを加藤は覚えていた。それからわずか3週間後の11月4日に、原は凶漢に短刀で刺殺されたのである。

 加藤は海軍大臣として戦艦・巡洋艦各8隻からなる「八・八艦隊」建設の中心的な推進者であったが、その予算提出の際に原首相は加藤の意見をよく聞いてくれた。そして閣議が一転して、軍縮に転ずるときも、軍拡よりも財政の均衡を考える時期であるという点で、二人の意見は一致していた。

 その原の遺志を継いで、加藤は、明日からのワシントン軍縮会議では、随員中の増強派、加藤寛治・海軍中将や末次信正・大佐を抑えて、軍縮の成果を上げねばならぬと心に誓った。

■2.軍拡競争から軍縮へ■

 八・八艦隊建設は、日露戦争後から海軍の宿願となっていた。ハワイ、フィリピンと西に勢力を伸ばしてくるアメリカ[a]との将来起こりうるかもしれない決戦への備えとして、どうしても実現しなければならない課題であった。

 そのアメリカは戦艦16隻の大艦隊を1924年までに揃える計画を進めていた。太平洋に覇を唱え、中国に進出するには、日本よりも5割以上優勢な海軍力を保持することが必要だと、アメリカは考えていた。しかし、アメリカの国力を持ってしても、16隻の戦艦を建造することは容易ではなく、1921年に至っても、まだ1隻が完成したのみであった。

 一方、イギリスは第一次大戦には勝ったが、国内は疲弊していた。米日の建艦競争を横目に見るのみで、新型戦艦の建造もままならなかった。このままでは世界一流の海軍国の座を失ってしまうと焦っていた。

 英首相ロイド・ジョージは、列国同時の軍縮を考えたが、自ら主唱するのは大英帝国のプライドが許さないので、アメリカを巻き込んで主催国にするよう根回しをした。アメリカの方も、戦艦16隻の大計画を持てあましていた所であり、軍縮によって日本の海軍力を6割程度に縛っておければ、労せずして太平洋に覇を唱えることができると、賛同した。

 英米からの軍縮会議の提案に、日本政府も賛成した。日本としても八・八艦隊の建設に国家予算の3割近くを費やしており、国民の負担を軽減するためにも、仮想敵国のアメリカから軍縮を持ちかけられたら、断る理由はなかった。

■3.アメリカの爆弾提案■

 1921(大正10)年11月12日、ワシントン軍縮会議が、ホワイト・ハウス近隣のコンチネンタル・メモリアル・ホールで開会された。

 米大統領・ハーディングの開会挨拶の後、議長のチャールズ・ヒューズ国務長官が突然、軍縮の具体案を含む爆弾演説を行って、各代表の度肝を抜いた。ヒューズは、艦名までを具体的に挙げて米英日の主力艦の廃棄量と保有量を次のように提案した。

廃棄          保有
米 30隻85万トン  18隻50万トン
英 23隻58万トン  22隻60万トン
日 17隻45万トン  10隻30万トン

 さらに協定成立後10年間は建艦休止とするが、艦齢20年に達した老朽艦は代艦建造を認めるものの、その排水量は3万5千トン以下とすること。

 廃棄総量190万トン近くの史上空前の大軍縮案であった。しかも数字だけ見ると、いかにも米英の廃棄量が多いように見える。しかし、英の廃棄量には紙上計画に過ぎない戦艦4隻17万トンは「すでに経費を支出した」として含んでいながら、日本の計画中の8隻は建造に未着手として、廃棄量には含まれていなかった。

 さらに、すでに進水した「陸奥」と建造中の6隻の合計7隻が廃棄とされていた。特に陸奥は、すでに進水していた長門と並んで、40センチ砲を積む超弩級戦艦で、当時、世界でこれに対抗しうるのは、アメリカの「メリーランド」ただ一隻であった。また、代艦を3万5千トン以下としたのも、パナマ運河を通れる最大の大きさであり、5万トンの巨艦を計画していた日本に対する牽制であった。

 公正かつ史上空前の大軍縮に見せかけながら、自らに有利に事を運ぼうという、いかにもアングロサクソンらしい、したたかな提案であった。

■4.「日本は主義において喜んで米国の提案に賛成します」■

 その夜、加藤は、寛次と末次を自室に呼んで、相談をした。二人は「これでは、太平洋の防備には自信が持てません」「どうしても対米7割は確保すべきです」と語気鋭く、加藤に詰め寄った。

 加藤は、外人記者達が「アドミラル(提督)・ポーカーフェイス」とあだ名をつけた、能面のような細面に冷ややかな微笑を浮かべて言った。

 まあ待て。国際会議というものは、初めから手の内を見せるものではあるまい。アメリカもカードを全部開いて見せたような顔をしているが、アングロサクソンのことだから、どのような切り札を残しているか知れたものではない。

 2日あけて、15日に第2回会議が開かれた。英全権で外交界の長老アーサー・バルフォアは、白髪の長身で貫禄を示しながら、無条件受諾を明言した。米提案はイギリスにも有利なように仕組んであり、両国で日本を押さえつけようというものであった。

 バルフォアの後に、加藤が立った。ホールを埋めた聴衆は、加藤の細面をひしと見つめた。「日本は主義において喜んで米国の提案に賛成します」と加藤がまず述べると、満場が総立ちになり、一斉に拍手が湧いた。加藤はポーカーフェイスで続けた。

 ただし、国家がその安全を保障するのに必要な軍備を維持すべき事は、一般に容認されているところである。

 そして、調査の上、追って修正案を提出するが、この問題は海軍専門家の特別審議に付すべき、と提案した。会場は再びざわめいた。

 米英が「平和のために」と推す軍縮案に、日本が躊躇を示しては世界に信を失うことになる。そこで「主義において」受諾して日本の平和的姿勢を示した上で、細目は専門家で議論を煮詰めよう、という、いかにも老練な姿勢であった。

■5.「対米7割は日本防衛の絶対に譲れぬ最低線である」■

 翌16日、海軍の専門家による委員会が開かれた。議長は第2次大戦時に大統領を努めるフランクリン・ルーズベルト海軍次官、日本代表は艦隊増強派のホープ・加藤寛治中将であった。

 寛治は対米7割を強硬に主張して、議長のルーズベルトと激しくやりあった。そして「対米7割は日本防衛の絶対に譲れぬ最低線である。これが獲得できぬ限り、日本は会議を脱退して帰国する」と発言して、他国の代表たちを驚かせた。

 これを聞きつけた内外の記者たちが、加藤友三郎のもとに押しかけてきたので、加藤は「いや、それは加藤君の個人的見解とみてもらいたい。全権団としては、脱退帰国などは全然考えていない」と、相変わらずのポーカーフェイスでその場を取り繕った。

■6.激怒とポーカーフェイス■

 しかし、その夜、加藤は寛治を自室に呼んで、ポーカーフェイスをかなぐり捨てて、怒鳴りつけた。

 君はこの全権団の任務を何と心得ているのか。こんなことで日本が会議を脱退したら日本は会議分裂の国際的責任を負わされることは必定である。平和を乱す軍国主義者という汚名をこうむるかも知れないのだ。・・・

 今後こういうことがあったら、君だけ帰国を命ずる。専断の行為に対しては処罰の道を考えるから、そう思え!

 寛治は打ちしおれて「申しわけありませんでした」と謝罪した。寛治が海軍兵学校の生徒であったとき、加藤はその教官という立場にあった。日本海海戦の際には、加藤は連合艦隊参謀長であったが、寛治はまだ少佐であった。寛治は将来の連合艦隊司令長官と目される艦隊増強派のホープであったが、彼を抑えうるほとんど唯一の人物が加藤であった。

 もっとも、この激怒の裏にももう一つのポーカーフェイスがあったのかも知れない。国内の増強派のリーダーを国際交渉の矢面に立たせて、言いたいことを言わせた上でないと、対米6割の収まりがつかないと考えていたようだ。

 そして、記者団に対しても、「加藤中将が7割を主張しているのは、戦術上の根拠にもとづくものである。全権としては、今少し論議を尽くしてから結論を出したい」と公言し、曖昧な態度を取り続けた。

■7.「アドミラル・カトー > ヒューズ+バルフォア」■

 寛治の対米7割に「戦術上の根拠」があることは、ルーズベルトをはじめとする米海軍作戦部がそれに強く反対していた事からも窺える。仮に日米決戦が勃発した際、米海軍は3割を大西洋に残し、7割を太平洋側に投入したとしよう。その米艦隊が日本近海にたどり着くまでには、日本の潜水艦や水雷戦隊により6割に漸減しているだろう。そこで日本の7割と戦ったのでは、米艦隊は小笠原諸島付近で壊滅してしまう。ぜひとも日本を6割に抑え込んでおく必要があった。

 6割か7割かの議論は、専門委員会では決着がつかず、いよいよ12月2日から全権どうしによる本会議が始まった。米側は頑として6割の主張を変えず、加藤も寛治の調査したデータをあげて反駁につとめ、会議はデッドロックに乗り上げた。

 この頃は加藤もすっかり議場に慣れて、ポーカーフェイスに貫禄がつき、米人記者たちも、「アドミラル・カトー > ヒューズ+バルフォア」といった数式で、加藤の存在感を表現した。 米側も必死である。もし軍縮会議が決裂したら、招集した米国の面子は丸つぶれとなる。ヒューズ国務長官やルーズベルト海軍次官ら、当局者のキャリアにもキズがつく。

 そこを狙い撃つように、加藤はこう切り出した。

1.日本は6割をも考慮する用意があるが、米国側に戦意無しという保障がなければ、6割で国民を承服させることは難しい。フィリピンやグアムを要塞化し、大海軍根拠地を構えるようでは、日本から見れば容易ならぬ脅威である。これらの海軍根拠地たる防備をやめて貰いたい。

2.陸奥は98パーセントまで出来上がっているのだから、既成艦として認めて貰いたい。

 ヒューズとバルフォアの面に安堵の色が浮かんだ。加藤の要求をベースとした史上空前の大軍縮の主要部分が、12月15日にコンチネンタル・ホールで公表された。

■8.東郷の笑み■

 加藤が帰国したのは、翌大正11(1922)年3月10日のことであった。おりしも帝国議会が開催中であり、加藤は早速答弁に立たねばならなかった。その慌ただしい中で、海軍首脳による歓迎慰労会が開かれた。

 加藤はまっさきに東郷平八郎に挨拶をした。随員であった末次信正は、興味深くその様子を眺めていた。軍備増強派のシンボルで、対米強硬論者といわれる東郷が、対米6割では不満らしい、という噂が流れていたからである。

 しかし、東郷はにこやかに笑みを浮かべ、「いや、加藤どん、ご苦労でごわした。おはん、ようやってくれよりもした」と厚くねぎらった。末次はがっかりした。

 日本海海戦で、東郷が連合艦隊司令長官を務めた時、加藤は参謀長であった。砲戦が始まって以降の艦隊指揮は、ほとんど加藤が独断でとったと言われるほど、東郷の信頼を得ていた。

 加藤はワシントン会議に出発する前に、密かに東郷と会い、「英米との協調を崩さず、いかようにしてもこの会議をまとめる」との内諾を得ていたのである。さらに会議中にも電文で、「6割やむなし」という中間報告もしていた。軍備増強派が東郷をかついで「対米6割」に反対しようという動きを、加藤はあらかじめ封じていたのである。

■9.「加藤があと10年長生きしていたら」■ 

 この年の6月12日、加藤は原の急死の後を継いだ高橋是清首相が総辞職をした後、総理大臣に就任した。ジャパン・アドバタイザー紙は、こう好意的に報じた。

 今日世界の眼に映ずるアドミラル・カトーは、ワシントン会議において日本が表明した名誉ある協調的精神の責任者として際だっている。従って今日本が彼を起用して政府の首班たらしめることは、とりも直さず、ワシントン条約の字句、精神二つながら、これを実施せんとする日本の誠意を最も雄弁に裏書きするものということができる。

 加藤の在任期間は、大正12年8月に大腸ガンで死去するまでのわずか、1年2ヶ月あまりであったが、その間に、ワシントン会議で約束したシベリアからの撤兵を断行し、また海軍軍縮と同時に陸軍5万6千人の人員削減を実現させた。

 加藤があと10年長生きしていたら、その後の5・15事件、満洲事変、2・26事件という大東亜戦争への道もまったく異なっていたであろうと指摘する人は少なくない。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 豊田穣『蒼茫の海―海軍提督 加藤友三郎の生涯』★★、集英社文庫、H1

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