JOG(851) 昭和天皇と御召艦艦長・漢那憲和
御召艦艦長として裕仁皇太子を先導する漢那憲和の姿に、郷里・沖縄の人々は感激の涙を流した。
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■1.大和世(ヤマトユー)
「大和世(ヤマトユー)は、支那世(シナユー)とは違います。今からはどんなことがあっても、憲和を中学へ入れます」
小学校高等科に進んだ漢那憲和(かんなけんわ)の進路に関して、「貧乏人は学問する必要はない」とする祖父・憲敬(けんけい)に対して、母オトはこう言い切った。
憲和の父親は王府の税関吏をつとめていたが、廃藩置県で失業し、失意のうちに憲和が5歳の時に、結核で亡くなった。母オトは茶商をして憲和とその弟を養ったが、その貧しさは、それぞれ着物が2枚しかなく、夜洗って交互に着ていたほどだった。
明治22(1889)年のことである。かつての琉球王国は人民に対してシナ風の苛斂誅求を行っており、王府は士族が奢侈に流れた生活をする一方で、農民には土地私有も認めず、一定年限で耕地替えをさせていた。
ほとんどの琉球の民は無学文盲の状態に置かれていた。本土では義務教育の普及が急速に進められ、明治18(1885)年での本土における就学率が男子65.8%、女子32.0%に達していたが、沖縄ではようやく女史教育が始められたばかりであり、男子の就学率も明治30(1897)年にようやく30%に達したという状況であった。
オトの母親は、安政年間(1854~1860)に、列強の艦隊が次々と沖縄に寄港し、武装した外国人水兵たちが傍若無人に振る舞っていたことをオトによく話していた。このままでは沖縄も日本全体も、外国の植民地にされてしまう。そんな危惧がオトの先見性を育てたのかもしれない。
■2.「今日、皆さんは、決心して断髪しなさい」
明治24(1891)年春、憲和は沖縄尋常中学校の第8期生として入校した。入校者はわずか8名。憲和は飛び級をしていて最年少だったが、成績はトップだった。
その前年秋に主席教諭(教頭)として着任したのが、東北青年・下国良之助(しもくに・りょうのすけ)だった。当時の文部省は、沖縄県民の旧守頑固ぶりと、教育への無関心ぶりに手を焼いており、その打開策として優秀な教員を派遣したのだった。
赴任した沖縄中学は、教室二部屋のみの長屋で、風が吹けば建物が振動する有様だった。生徒はみな琉球式に髪を結って、角帯をしていた。「体操は民情に合わない」として実施されていなかった。
下国は校風を一新すべく、生徒に徒歩競争をさせたり、頻繁に家庭訪問を行って父兄の啓蒙につとめ、また優秀な生徒には学費免除の制度を設けた。憲和もこの恩恵に浴した。
髪型に関しては、明治改元にあたって、明治天皇が断髪、洋装されて近代化への範を示し、明治3(1870)年には散髪廃刀令が出されていたが、沖縄では父兄が頑固で、散髪を勧めるなら学校を辞めさせるという剣幕だった。
ある時、下国が数名の理髪師と散髪した上級生を連れてきて、「今日、皆さんは、決心して断髪しなさい。そうでなければ退校しなさい」と迫った。1,2名の生徒が出て行った。残った生徒たちを理髪師と上級生が次々と断髪していった。あちこちにすすり泣きの声が聞こえていた。
憲和の頭を見た祖父・憲敬は激怒して、学校に抗議に行こうとした。それを母オトが制して、「下国先生のお考えにまちがいはありません!」 嫁の言葉に、憲敬は「オマエは、大和人(ヤマトンチュー)に味方するのか」と、大変な剣幕だった。
■3.海軍への憧憬
明治27(1894)年、日清戦争が勃発した時には、憲和は中学4年生だった。沖縄では頑固党(清国派)と開化党(日本派)が衝突して、乱闘事件まで起きていた。頑固党は「(清国の)黄色い軍艦が沖縄に救援に来る」と宣伝していた。
明治28(1895)年4月、日本が勝利して講和が成立した頃、連合艦隊旗艦『松島』が那覇沖に投錨した。その時、海岸で級友数名と遊んでいた憲和は早速、学校のボートで『松島』を訪れることにした。
1キロほど沖に漕ぎ出したが、波が荒くて到底いけそうもない。皆が引き返そうとしたが、憲和は「横波を喰らって沈没するより、思い切って漕ぎ出して、軍艦に救われた方がました」と言い出した。そこで皆で一生懸命漕いで、ようやく『松島』にたどりついた。
艦上の勇士たちは拍手喝采して、憲和らを迎えた。そして士官室に連れて行って、西洋料理をご馳走してくれた。士官の一人が「君等の中に、他日、海軍軍人になりたい希望の人はいないか」と聞くと、憲和が「自分がなります」と即答した。颯爽とした海軍士官の姿が、青春時代の憲和の心を捉え、海軍に対する憧憬を育んだ。
■4.「漢那ドンは、必ず大将、大臣になる男じゃ」
明治28(1985)年、憲和は18歳で最上級の5年生に進級した。その頃の校長・児玉喜八が非常にワンマンで、かつ「沖縄県民には、高等教育は早すぎる」などと県民蔑視の発言をしていた。さらに、標準語と英語と「二カ国語」習得するのは重荷だろうから、英語科を廃止しよう、などと言い出した。
憲和たちは憤って校長を排斥しようとしたが、それを止めた下国教頭すら免職にしてしまう。怒った憲和は同級生、下級生を指揮してストライキに入った。そして150人の中学生を引き連れて県庁に赴き、この校長を任命した奈良原知事を弾劾する演説を行った。
憲和の見事な指導統制ぶりに、弾劾された奈良原知事は憲和を見初めた。そして児玉校長を解任し、その翌日に知事官舎に憲和を招いて進路を聞いた。憲和は「海軍兵学校へ進学希望です!」と即答した。
憲和を支援することにした奈良原は海軍兵学校の入試要項をとりよせたが、それを見て驚いた。試験は7月15日とあと3ヶ月後に迫っており、しかも年齢制限が満20歳までで、憲和にとって最初で最後のチャンスであった。
憲和は猛烈な受験勉強を始めた。試験が近づくと奈良原は東京の自宅に憲和を泊め、そこから受験をさせた。結果は、合格者123名中4位の好成績だった。奈良原は「ヨカ、ヨカ、ワシの目に狂いはなか。漢那ドンは、必ず大将、大臣になる男じゃ」と感激した。
欧州の兵学校では王族か貴族の子弟しか入学できなかったのに対し、日本では家柄にこだわらなかった。学費もいらない。憲和が軍人としての道を歩めたのは、家柄や貧富の差にこだわらず、人材を抜擢しようとした明治日本の国家方針があったがゆえである。
また下国教頭や奈良原知事のように、沖縄のために、有為の青年を育てようとした人々の助けも大きかった。
■5.「漢那君、はるばる沖縄からご苦労さん」
明治29(1896)年10月31日、奈良原知事はじめ大勢の教職員や級友の見送りを受けて那覇港を発った憲和は、11月7日夕刻、広島県江田島の兵学校正門の前に立った。
そこに通りかかった青年士官が「漢那君、はるばる沖縄からご苦労さん」と声をかけた。兵学校では指導教官が生徒の写真と履歴書を見て、準備をしておくのである。指導教官は憲和をそのまま官舎に連れて行き、風呂に入らせ、夫人の手料理を振る舞った。
憲和は沖縄からの初の入学ということで、かなり注目されていた。自分の成績が悪ければ、沖縄の名折れだ、という意地もあったのだろう。消灯後も便所には灯りがついているので、そこに教科書を持ち込んで勉強し、成績は常に3番以内に入っていた。柔道でも大会に分隊代表として出場し、優勝までしている。
明治32(1899)年、22歳の憲和は海軍兵学校を卒業した。成績優秀により、天皇陛下から恩賜の双眼鏡を授けられた。卒業後、遠洋航海で初めてオーストラリアを訪問し、その後、軍艦『常磐』『金剛』などの乗り組みを命ぜられた。
明治38(1905)年の日本海海戦では『音羽』の航海長として冷静沈着な操艦を見せ、全乗組員の尊敬を集めた。その功により、勲五等双光旭日章を受けた。
翌年、海軍の最高学府、海軍大学に入学を命ぜられ、航海術専修課程を首席で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。同時に兵学校教官を命ぜられた。その後、憲和は帝国海軍の中で、航海術の権威として頭角を現していく。
明治43(1901)年2月9日、憲和は沖縄最後の王、尚泰(しょうたい)の五女、尚政子と結婚した。貧乏士族階級の青年が立身出世して王女を娶ったというので、沖縄の老若男女は歓喜した。憲和は明治日本において沖縄を代表する人物に育ちつつあった。
■6.「漢那、困るだろう」
大正10(1921)年2月15日、裕仁皇太子の欧州御外遊が正式決定された。欧州を外遊し、各国王室とも交流して、世界の大国として興隆しつつあった日本を背負う皇太子として成長していただきたい、というのが、狙いであった。
巡洋艦『香取』がお召艦として指定され、『鹿島』との2隻で渡欧することとなった。東郷平八郎元帥の強い推薦で、漢那はこの御召艦『香取』の艦長に任命された。当時、漢那の操艦術は群を抜いており、瀬戸内海や狭い水道での航行で右に出るものはなかった。
漢那は御召艦艦長という海軍士官最高の名誉をかみしめつつも、この機会になんとか殿下に沖縄にお立ち寄りいただきたいと、懇請した。しかし確とした決定はなかなか得られなかった。
2月23日、司令長官、参謀長、両艦長で貞明皇后に拝謁した。漢那には「沖縄県出身者として御召艦が沖縄に寄港することがあったら、さぞかし欣幸でしょう」とのお言葉があった。貞明皇后は皇太子の弟宮たちにも、会津や幕臣の娘を迎えており、国内の融和にはことさら気を配られていた。[b,c]
継いで東伏見宮殿下に拝謁したとき、殿下も沖縄寄港の予定がないのをお聞きになって、「漢那、困るだろう」との言葉を賜った。沖縄と漢那への思いやりに満ちた皇后と殿下のご発言が後押ししたのだろう。翌日、沖縄寄港が内定した、との知らせがあった。
こうして3月3日、御召艦隊が横浜港から出港した。漢那率いる『香取』次いで『鹿島』が先頭を行き、見送りの仏国軍艦『デストレー』、戦艦『長門』、『扶桑』が従った。湾岸では大観衆から「万歳」の声が響き、奉送する国民の列は浦賀方面まで途切れることなく続いた。
■7.日本国民としての自覚と誇り
3月6日午前9時10分、『香取』『鹿島』が沖縄島東南部の中城湾(なかぐすわん)に進入し、5海里沖合に投錨した。両艦艦首の菊の御紋が朝日にさんぜんと照り輝いていた。
沖縄史上初の御召艦の入港、しかも艦長が地元出身とあって、県民はこの歴史的出来事を一目見ようと黒山の人だかりだった。各所で「万歳」の合唱が起こった。皇太子殿下は、小艇で上陸された。当時の様子は、次のように記録されている。
そこから殿下は漢那の先導で、列車にて那覇に向かわれた。那覇駅には、県会・町村会議員、在郷軍人、中学校生徒らが出迎えた。その中には母オトもいた。皆、お若い殿下と漢那大佐の勇姿に感涙していた。
そこから人力車で、県庁に向かった。数万の県民が沿道で出迎え、殿下のご一行はその中を縫うように走った、と伝えられている。ほとんどの県民は感涙していた。
日清戦争の頃まで日本派と清国派が乱闘までした沖縄でも、地元出身の御召艦艦長・漢那憲和大佐が皇太子を先導するという光景を目の当たりにして、自分たちも等しく皇室を戴き、近代日本を支える日本国民である、という自覚と誇りを抱いた事だろう。
■8.「漢那のお陰で大正10年に沖縄に行くことが出来た」
この後、皇太子の欧州御外遊は順調に進み、裕仁皇太子は欧州の王室や政治家との交流、悲惨な第一次大戦跡の視察などを経て、一段と成長されて帰国された。[a]
漢那はその後、大正14(1925)年に48歳、海軍少将で退官となり、その後、衆議院議員として沖縄振興のために力を尽くした。また郷里の青年たちに学資を援助していたため、台所はいつも火の車であったという。
昭和25(1950)年7月29日、漢那は沖縄の祖国復帰を念じながら、息を引き取った。昭和天皇は漢那の訃報を痛く悲しまれ、侍従を使わせて霊前に果物一籠と祭粢料(さいしりょう)を下された。
沖縄が祖国復帰をしたのは、それから22年も後、昭和47(1972)年であった。昭和60年10月、西銘淳治・沖縄県知事が天皇に62年の沖縄国体へのご臨席をお願いすると、昭和天皇は沖縄戦で祖国の御楯となった英霊と遺族を労りたいとのお気持ちから、沖縄行幸への強い意思を表明された。
しかし、ご病気が重くなり、結局、沖縄行幸の願いは果たされなかった。この時の御製である。
西銘知事を引見された時、天皇は「沖縄といえばすぐ漢那を思い出す。漢那のお陰で大正10年に沖縄に行くことが出来た」と発言されている。漢那が皇太子を先導した光景は、沖縄の人々に日本国民としての自覚を与えただけでなく、若き皇太子の御心にも沖縄への強い愛情を植え付けたのである。昭和天皇の沖縄への思いは、今上陛下にも受け継がれている。[d]
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a.
第一次大戦後の欧州を行く裕仁皇太子は、何を見、何を感じたか?
b.
c.
d. JOG(112) 共感と連帯の象徴
沖縄の地に心を寄せつづけた陛下
【リンク工事中】
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 恵隆之介『昭和天皇の艦長 沖縄出身提督漢那憲和の生涯』★★★、産経新聞出版、H21
■「昭和天皇と御召艦艦長・漢那憲和」に寄せられたおたより
■編集長・伊勢雅臣より
天は必要な時に必要な人を送り出してくれますが、我々凡人も何らかの「天命」を与えられていると思います。それが一燈照隅ということでしょう。
■編集長・伊勢雅臣より
「近隣諸国にもこの歴史、文化を広めていける人材」こそ、国際派日本人でしょうね。