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JOG(539) 国作りは人作り ~ 山川健次郎(下)

 健次郎はいくつもの大学の基礎を作り、明治・大正の日本の発展を支える人作りに貢献した。

(前号より続きます。)


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■1.人を育てる■

   山川健次郎が勤め始めた東京開成学校は、明治10(1877)年、
東京大学に編入され、健次郎もその理学部教授補に横滑りした。
教授は全員外国人だったが、2年後、健次郎は日本人として初
めての物理学講座教授に昇進した。

 当時は物理学を学ぶ学生は少なく、学生はいつも数人しかい
なかった。健次郎は英語で講義をし、学生は教科書を丸暗記し
て授業に臨んだ。

 健次郎の最初の弟子となったのが、田中館愛橘(たなかだて
・あいきつ)だった。後に東京帝国大学教授となり、文化勲章
を受章する人物である。

 健次郎は教授を務めながら、次第に教育に関心を深めていっ
た。自分が今日あるのは、何人もの人々が助けてくれたお陰で
ある。研究に徹し、発明・発見をして科学技術の発展に貢献す
る道もあるが、人を育てることによって、発明・発見が倍々に
増えていく。そんな仕事も大事ではないか、健次郎はそう思う
ようになった。教育者・山川健次郎のスタートである。

■2.生徒一人■

 物理学を学ぶ学生は数人だったが、さらに物理を専攻する学
生は年に一人か、二人しかいなかった。それがゼロとなっては、
日本の科学技術の振興にブレーキがかかる。健次郎と田中館は
良い学生を見つけることに懸命だった。

「先生、理学科に頭が切れる男がいます」と田中館が知らせに
きた。物理学を専攻したいと周囲に漏らしていたのを、聞き込
んだのだった。健次郎は気になって、理学科の教室までその男
を見に行った。目元の涼やかな端正な顔立ちの男だった。後に
原子物理学の開拓者となる長岡半太郎であった。

 健次郎と田中館は長岡の勧誘に力を入れ、長岡が物理学科へ
の進学を決めたときには、二人で祝杯を上げた。この年の物理
学科の入学生は、長岡一人だった。健次郎はほとんど毎日、長
岡につきっきりで物理学を教えた。

 健次郎は、時には長岡に人としての生き方を説いた。

 西洋文明や欧米人を無批判に礼賛する輩が増えているが、
それは違う。日本には日本のよさがある。アメリカは人種
差別がひどすぎる。日本人たるもの日本の心を忘れてはな
らぬ。

 長岡は武士道を学ぶべく、剣道を始めた。上級生になると、
健次郎に似てきて、下級生に対して「欧米人に負けてはならぬ。
日本の科学の発展こそが我々の使命だ」と励ました。

 健次郎は長岡が人間的にも立派に成長しつつあることを知っ
て、教育者冥利につきる、と喜んだ。

■3.教師の仕事とは、その人間をどう開花させるか■

 明治15(1882)年、健次郎は26歳の田中館を卒業と同時に
東京大学準助教授に抜擢した。「頼むぞ」と健次郎が手を差し
出すと、田中館はハンカチで目頭を拭き、やがて泣き出した。
田中館は健次郎の期待に応えて、その年のうちに助教授に昇進
し、主任教授の健次郎を助けた。

 明治19(1886)年3月2日、帝国大学令が発布され、東京大
学は東京帝国大学となった。帝国大学とは国家の必要とする学
問を研究・教育する機関とされた。

 田中館は学生時代から地磁気の研究を進めていたが、それを
計測する器械の制作にも成功した。いまでもこの器械が世界で
使われており、東京帝大物理学科のレベルは世界的水準に達し
ていた。田中館は明治21(1888)年からイギリスとドイツに3
年間、留学し、帰国後、教授に昇進した。

 明治24(1891)年10月、岐阜・愛知一帯が濃尾大地震に襲
われた。健次郎に命ぜられた田中館はすぐに現地に赴き、崩壊
した寺にテントを張って調査を開始した。田中館は地磁気が地
震で変動するのではないか、と思いつき、これが契機となって
日本の地震研究が飛躍的に進歩した。健次郎が陣頭に立って、
東京帝大は地震研究所の設立に向けて動きだした。みな国家の
ための学問をしようとする気迫に満ちていた。

 明治26(1893)年、健次郎は助教授になっていた長岡をドイ
ツのベルリン大学に留学させた。長岡はドイツの専門雑誌に次
次と研究論文を発表し、学界の注目を集めた。

 健次郎はこれまでの経験から、人間は周囲の人々の愛情や叱
咤激励によって、自分を見つめ、己の人生を築いていく、と考
えていた。教師の仕事とは、その人間をどう開花させるかであっ
た。二人の弟子は、健次郎の愛情と励ましを通じて、見事に開
花したのである。

■4.青年たちの「理学普及運動」に協力■

 弟子の育成と並行して、健次郎は教育行政に打ち込んでいっ
た。明治14(1881)年、東京大学を卒業した青年たちによって、
「理学の普及を以って国運発展の基礎と成す」の信念のもと、
東京物理学講習所が設立された。東京大学の卒業生はほんの一
握りで、日本の科学技術を発展させるには、広く学生を教育す
ることが必要だという考えからだった。

 健次郎はこの青年たちの「理学普及運動」に共鳴し、率先し
て協力した。同校は明治16(1883)年に「東京物理学校」と改
称する。現在の東京理科大学の前身である。当時、物理学を教
える学校は、東京帝大とこの東京物理学校しかなかった。

 明治26(1893)年、健次郎は40歳の若さで、東京帝国大学
を構成する5つの単科大学の一つ、理科大学の学長に任命され
た。

■5.東京帝大総長■

 明治34(1901)年3月、健次郎は東京帝大総長に選ばれた。
当時の東京帝大総長は、日本の学界、教育界を代表して、政財
界、官界、軍部とあらゆる分野に影響力を及ぼし、国家の期待
度は今日の東京大学の比ではなかった。

 今まで賊軍として虐げられてきた各地の会津人たちは快哉を
叫び、次は大臣だ、と期待した。しかし、権力欲のない健次郎
はそんな話がでると、プイと横を向いて、不機嫌になるのだっ
た。

 やがて日露戦争が勃発し、戦局が日本に有利に進むと、東京
帝大法科大学の戸水教授らは、講和の条件として「バイカル湖
以東を割譲させよ」などと過激な主張をした。文部省が総長の
健次郎の頭越しに戸水教授の休職処分を断行した。

 健次郎自身は早期講和すべきと考えていたが、文部省の一方
的な処分は学問と言論の自由から問題あり、として抗議し、同
時に混乱を招いた責任をとって、学生たちも含めた全学の慰留
運動を振り切って、総長を辞職した。

■6.「私腹を肥やすにあらず、余は教育にその利益を投ずる」■

 東京帝大総長を退いても、健次郎はゆっくりしている暇はな
かった。九州の大財閥・安川敬一郎が健次郎の自宅に訪ねてき
た。

 安川は炭坑の経営にあたっていたが、日清・日露戦争で巨利
を得ると、「私腹を肥やすにあらず、余は教育にその利益を投
ずる」として、本業以外の財産をすべて投じて、科学教育の専
門学校を作ろうと考えたのである。そして、学校経営の一切を
健次郎にお任せしたい、と言う。教育を天職と考える健次郎が
断れるはずもない。

「校名は安川工業専門学校としてはいかがであろうか」と健次
郎が提案すると、安川は即座に断った。「私は自分のために学
校を開くわけではない。校名も山川さんに一任します。」

 そこで健次郎は「明治専門学校」と名付けた。後の九州工業大学
である。

 明治42(1909)年4月1日、孫のような新入生55名を迎え
て、開校式が行われた。「本校はたんに技術者をこしらえるの
みの学校ではない。技術に通じるジェントルマンを養成する学
校である」と、健次郎は訴えた。

 同時に「私は会津の戦争で辛酸をなめた。祖国を守るための
軍備は絶対に必要である」として、軍事教練にも力を入れた。
生徒たちは健次郎を「親父、親父」と呼んで慕った。健次郎は
若者を手塩にかけて育てる喜びを再び味わっていた。

■7.「今日ほど嬉しいことはない。会津は朝敵ではないのだ」■

 明治43(1910)年秋、第2次桂内閣は、東北と九州に帝国大
学を設置することを決め、健次郎に九州帝国大学の初代総長就
任を求めた。健次郎は明治専門学校の総裁と兼務しても良い、
という条件で引き受けた。

 九州帝大総長を2年間務めた後は、再び、東京帝大総長への
出馬を求められた。工科大学・理科大学・文科大学の拡張、安
田講堂の建設など、今日の東大の基礎を作った。また短期間で
はあったが、京都帝国大学の総長も兼任した。

 健次郎はいまや教育界の重鎮となり、総理大臣や文部大臣も
教育問題については健次郎の意見を聞いてから取り組むのが通
例となった。

 大正3(1914)年3月、健次郎は東宮御学問所評議員に選ばれ
た。時の皇太子、後の昭和天皇を教育する、という重大な職務
である。学習院院長を務めていた乃木希典大将が明治天皇崩御
に際して殉死する前に、健次郎を推薦しており、その意向を聞
いていた東郷元帥が強く要請したのである。「畏れおおいこと
です」と健次郎は感無量の思いで大任を引き受けた。

 かつて会津人は皇室に刃向かった朝敵の烙印を推されていた
が、その会津人の一人が次代天皇を育てる役割を与えられたの
である。山川は「今日ほど嬉しいことはない。会津は朝敵では
ないのだ」と言って、盃を重ねながら、涙を流した。

■8.72歳の校長■

 大正9(1920)年6月、健次郎は東京帝大を退官した。東京開
成学校に勤め始めた頃から数えると、44年に及ぶ奉職だった。

 退職後は講演活動で全国を行脚していたが、それも長くは続
かなかった。大正14(1925)年2月、7年制の武蔵高等学校か
ら顧問就任の要請があった。現在の武蔵大学、武蔵高校である。

 この学校は実業家・根津嘉一郎の出資によって作られ、設立
の段階から健次郎は相談に乗ってきたが、いよいよ開校の段に
なって顧問就任を依頼されたのだった。健次郎は72歳になっ
ていたので、激務は無理だが顧問ならば、と引き受けた。

 ところが、初代校長・一木喜徳郎が宮内大臣に就任すること
になり、根津は「山川先生、なんとか校長をお願いできません
か」と何度も健次郎の家を訪ねて懇願した。「それは、しかし」
と健次郎は困ってしまったが、「山川先生、日本の将来はいか
に有意な青年を育てるかにかかっております」とまで言われる
と、もう断れなかった。こうして72歳の校長が誕生した。

 武蔵高等学校でも、健次郎は人格教育を重視し、寮生活を取
り入れた。「生徒に万一のことがあってはならん」と、健次郎
は毎日のように自ら寮の井戸水の水質検査を行い、舎監や調理
人にも厳しく衛生面を注意した。これからの青年は世界を見な
ければならない、と生徒の外遊制度を作り、その資金として自
ら200円を出した。

 寮生の一人が発疹チフスに罹って、重態に陥ったことがあっ
た。日頃の注意もあって、他の生徒への伝染は避けられた。健
次郎はすぐに病院に見舞いに行ったが、その生徒はそのまま帰
らぬ人となってしまった。健次郎は遺族に自分の懐から弔慰料
を贈り、遺骸を浅草駅まで見送った。家族は健次郎の行為に感
泣し、生徒たちも感動した。

 会津戊辰戦争で白虎隊士として多くの若者の死を見た健次郎
にとって、若者が開花の前に命を失うことは耐え難いことだっ
た。

■9.「国作りは人作り」■

 この間にも、健次郎は陰ながら会津のために尽くした。旧主
松平家が窮乏生活に陥っていたのを、宮中から3万円の下賜を
いただけるよう働きかけた。

 また幕末会津史の編纂にも力をいれ、『京都守護職始末』に
よって幕末の会津藩の立場を鮮明にし、『会津戊辰戦史』で戦
争の全容を明らかにした。今日、この2冊は幕末会津史の根本
資料とされている。

 さらに会津戊辰戦争で戦った長州との和解を進めるため、会
津藩の最後の藩主・松平容保の次男・英夫を長州の山田顕義の
もとに婿入りさせている。山田顕義は日本大学、國學院大學の
学祖とも言われており、健次郎とは教育への情熱で相通ずる所
があっただろう。

 健次郎の晩年の功績として、松平容保の四男・恒男の娘・節
子を昭和天皇の弟宮である秩父宮雍仁(やすひと)親王の妃と
して皇室入りさせたことがある。節子姫は皇后陛下と同名だっ
たため、勢津子と改名して、秩父宮妃となった。

 健次郎は御納采の答礼使として宮中に参内し、御礼を述べた。

 武蔵高校に戻った健次郎に、教頭・山本良吉が「会津家ご先
代の御志がいま初めて御上に通じ、定めて地下でお喜びでござ
いましょう」と言うと、健次郎は無言のまま涙を流し、その涙
が机の上に落ちた。

 松平容保は幕末、京都守護職として孝明天皇の厚い信頼を受
けていたのだが、一転朝敵とされ、会津城での悲惨な戦闘では
多くの人命を失い、降伏後も賊軍として蔑まれてきた。その会
津藩の最後の藩主の孫娘が、今、宮中に迎えられたのである。

 健次郎が会津落城後、15歳にして長州藩士・奥平謙輔の書
生として越後に赴いて以来、多くの人々に支えられ、導かれて
エール大学を卒業した。帰国してからは、今日の東京大学、東
京理科大学、九州工業大学、九州大学、京都大学、武蔵大学な
どの基礎を作り、明治から大正にかけての日本の躍進を支える
人作りに打ち込んできた。

 山川健次郎の77歳の生涯を振り返ると、改めて「国作りは
人作り」と思われてならない。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a.

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

a.星亮一『山川健次郎の生涯』★★★、ちくま文庫、H1

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/おたより_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■「国作りは人作り ~ 山川健次郎(下)」に寄せられたおたより

タキさんより

 山下健次郎が、米国で苦労して教育の大切さを身にしみて体
験し、その如くに日本の近代化に尽くしていく姿に感動しまし
た。

   私は惑星科学者ですが、日本ではこの分野がまだ萌芽のとき
に渡米し、すでに18年になります。近年では、はやぶさやかぐ
やといった探査衛星が飛んで成功し、私もチームの一員として
貢献していますが、それを通して日本の将来を担う若き研究者
が育っているかどうかが問題だと思います。いろんな迫害があ
り、いまだに日本の大学の職につけない立場ですが、海の向こ
うから、いざというときには駆けつけてでも祖国の発展に寄与
したいという思いをいつも抱いています。


Kazさんより

今回は、わたくしの出身大学(東京理科大)の由来についての
記述もあり、大変興味深く読ませて頂きました。特に、当大学
で専攻が物理学でしたので、先人たちの思い(理念)、そして志
の高さと純粋さには、感銘を深くいたしました。

また改めて「国作りは人作り」ということ言葉について、誠
に真実であるとの念を強くいたしました。

世の中を善くするも、悪くするも、「人(ひと)」です。「善
くする人」を育て、そして次代へつなげていけるよう、微力な
がらも努力していきたいと思います。

© 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.


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