JOG(564) 枡富安左衛門 ~ 韓国民の精神開発を使命とした日本人
日本人校長は韓国人学生に「本当に独立を望むなら学ぶのだ」と口癖のように説いた。
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■1.韓国政府から国民勲章を授けられた日本人■
1995(平成7)年12月16日、韓国の京郷新聞は次のような記事を掲載した。[1,p195]
国民勲章とは、政治や経済、社会、教育などの分野で韓国民の福祉向上と国家の発展に大きく寄与した人物に与えられる勲章で、日本の文化勲章に相当する。等級は5段階に分かれており、その中で「牡丹章」は2番目に高いクラスである。
1995年といえば、韓国にとっては「光復(植民地からの解放)」50年にあたっていた。光復節の8月15日には、旧朝鮮総督府の建物が日本統治の象徴として解体撤去され、その式典で、金永三大統領が「植民地支配と侵略行為を日本は素直に反省すべきだ」と演説した。
こうした反日感情の中で、日本統治時代の朝鮮に生きた一人の日本人が、韓国政府から「国民勲章」を受けるとは、どうしたわけか。そこには日韓両国にまたがる人々の強い絆があった。
■2.韓国農業で国利民福を志す■
枡富安左衛門は、明治13(1880)年、福岡県門司市の醤油製造業を営む家に生まれた。下関商業学校在学中に父を失ったため、17歳にして家業を継ぎ、店を切り盛りしながら、学校で商業を学んだ。
明治37(1904)年2月、日露戦争勃発と共に、枡富は出征して、食料・物資の調達・分配など後方の兵站部門に従事した。
出征前から「韓国農業に付きて之れが経営をなして国利民福(JOG注:国に利益をもたらし民を幸福にする)を謀る考えなり」と、韓国での農業経営の志を抱いていたが、出征の途上で、全羅北道(朝鮮半島南西部)の沃野を自らの目で確かめて、その意思が固まった。
当時の朝鮮半島は、停滞した李朝王朝のもとで農業も荒廃の極みにあり、しばしば飢饉に襲われていた[a,b]。そこに日本の進んだ農業技術を導入することで、生産性を飛躍的に上げる余地があった。
日露戦争が終わって帰国した枡富は、明治39(1906)年6月、再び全羅北道を訪れた。この地は李朝末期の東学党の乱の発祥地であり、この頃でも残党が山野に潜伏して、韓国人地主を襲撃したりしていた。そんな中を馬にまたがって、土地を物色して廻る枡富の姿は、農民たちから「無謀な行為」として驚きをもって迎えられた。
■3.尊敬と思慕の念を集めた農業経営■
枡富は、この地で4万坪の土地を購入して、農業経営を始めた。当時の朝鮮半島での農業は原始的な零細農で、面積当たりの収穫も少なかった。また毎年のように洪水や日照りに襲われていた。
枡富は半島でも有数規模の水利組合の結成に参画し、近くの湖から農業用水を確保して、干ばつや洪水の被害防止に大きな成果を上げた。また湖からの水流を利用して発電し、この地方に電灯をともすことに成功したという。燃料源として乱伐が進んでいた付近の山々の植林事業にも、近隣の日本人農業主や韓国人農民と協力して取り組んだ。
さらに悲惨な生活を送っていた小作人たちの救済のために、畑作の改良、緑肥の調整、二毛作、間作などに取り組ませた。こうした農業経営を進めた枡富は、小作人を含め近隣住民から尊敬と思慕の念を集めた。
■4.「韓国の仕事は信仰を元としてやりたい」■
枡富の農業経営に思想的な基盤を与えたのが、妻・照子の影響で入信したキリスト教だった。韓国での農業経営を始めた翌年の明治40(1907)年、枡富は照子と結婚した。照子は福岡英和女学校(現在の福岡女学院)在学中に、アメリカ人女性宣教師と出会い、卒業の年に洗礼を受けていた。
当初、照子は韓国に渡って新婚生活を営んだが、慣れぬ土地で体調を崩し、病気がちになったため、国内に戻って療養生活を送るようになった。以後、枡富は韓国を、照子は日本国内を本拠地とし、数ヶ月単位でお互いに行き来するようになった。
照子は枡富にキリスト教入信を勧めたが、枡富は「仏教にも、儒教にも良い所はある。すべての宗教の長所をとって、国のためになしたい」と言って、なかなか聞き入れなかった。
しかし、照子とともに教会通いをしているうちに、ついに折れて、「僕も信者になる。韓国の仕事は信仰を元としてやりたい」と言った。結婚3年後のことであった。
「信仰に基づいた農業経営」を目指した枡富は、デンマークを自らの事業のモデルとした。この点を次のように語っている。
枡富は、まずは自身の信仰を確かなものとするために、大正元(1912)年、神戸の神学校に入学した。韓国での事業は、一時的に友人に託した。さらに将来の韓国での教会事業は、韓国人自身の手によらなければならないとして、3人の優秀な韓国人学生を呼び寄せ、自分とともに神学校に入学させた。
この後、枡富は多くの韓国人学生に奨学金を出して、日本やソウルの大学、神学校で学ばせるようになった。
■5.私立小学校の設立■
神戸の神学校で学んでいる間に、枡富は韓国の農場の近隣で、子ども向けの学校として「私立興徳学堂」を設立した。当時の韓国全土には、370万人の就学年齢の児童がいたが、寺子屋のような私塾を含めても、18万5千人、全児童の5%しか、教育を受けていなかった。
当初は、村人たちも子供を通わせるのをいやがり、入学希望者は非常に少なかった。経済的な理由からであろう。そこで枡富は、児童全員に教科書やノート、鉛筆などを無料で提供し、授業料までもただにした。
村民たちは、こうした枡富の教育への熱心さや、正規の小学校と変わらない充実した教育内容ぶりを知って、すすんで子供たちを学堂に通わせるようになった。
神戸神学校で学んでいた3人の奨学生が大正5(1916)年に卒業して教員に加わった。彼らは学校に寝泊まりして、教育内容の充実に智恵を絞った。
こうした努力が実って、大正8(1919)年、興徳学堂は学校法人としての認可を受け、私立吾山普通学校と改名した。当時、普通学校は1郡に1校を原則として設立が進められていたが、いち早く普通校を持てた高敞郡は、他地域の住民たちから非常に羨ましがられたという。
■6.学校存続に立ち上がった郡民たち■
大正7(1918)年、枡富は所有する土地約2100坪を使って、「私立吾山高等学校」を設立し、中等教育に乗り出した。早くも2年後に、正式な学校法人としての認可を受け、「吾山高等普通学校」に昇格した。当時の高等普通学校は、朝鮮全土でも12校しかなかったところに、近隣6道での初めての高等普通学校が人口まばらな寒村に出現したことは、大きな話題となった。
ここまでは順調に成長してきたが、第一次大戦後の経済不況の波が、枡富の事業経営を直撃した。今まで農業で得た利益を学校経営につぎ込んできたのだが、それも難しくなった。
枡富は、大正11(1922)年3月31日限りで、吾山高等普通学校を廃校させざるをえない、と発表した。生徒全員は他の学校に転校させ、その学費と交通費を負担することとした。
しかし、この地方ではかけがえのない高等普通学校を潰してはならない、と高敞郡守・金相鉛の呼びかけのもと、地元郡民たちが立ち上がった。もともと独立意識の強い地方で、「自主独立は教育を通じての知性の開明が伴わなければならない」を合い言葉に、学校存続を決議した。
郡民は募金活動を展開し、約30万円を集めた。意気に感じた枡富も生徒たちへの弁済にあてるつもりだった1万5千円を寄付した。枡富はしばらく校長、理事長の立場に留まることとなった。
同時に人里離れた吾山から郡庁のある高敞に移転され、ここに「高敞高等普通学校」として再スタートした。大正15(1926)年、校舎を近代的な赤レンガ造りの2階建てに改築した際の落成式には斎藤実・朝鮮総督が参列した。斎藤は「文化政治」を標榜していた。枡富と親交があり、人作りを最優先した枡富の事業に共感を抱いていたのだろう。
吾山普通学校も、枡富は敷地、校舎、施設のいっさいを当局に寄付し、富安公立普通学校と改称された。
■7.「本当に独立を望むなら学ぶのだ」■
枡富は「本当に独立を望むなら学ぶのだ」と口癖のように生徒たちに説いた。韓国の人々の独立への思いに共感し、そのためには現地の青年たちが将来様々な方面で活躍し、自分の力で発展できるよう、生徒たちの教育に心を砕いた。
その精神は、高敞高等普通学校にも受け継がれた。抗日運動、独立運動に参加して公立学校を退学させられた生徒たちを進んで受け入れ、勉学の場を提供した。やがて高敞は「民族運動揺籃の地」として、朝鮮全土に知られるようになる。
冒頭の新聞記事に登場したハングル学者の韓甲洙氏もその一人だ。昭和5(1930)年に光州学生独立運動に参加して、それまで学んでいた学校から退学処分となり、監獄出所後はどこの学校も編入学を認めようとしなかった。
風の噂をたよりに高敞高等普通学校の門を叩くと、応対に出た職員は「韓国のために戦う学生は、勉強させなければならない」とただちに入学を認めてくれた。
韓甲洙氏は、教鞭をとっていたハングル語学者・鄭寅承に出会い、ハングル研究の道を志す。後に韓国で初めてのハングル辞典の編纂委員の一人となり、戦後は李承晩大統領の秘書室長も務めるなど、韓国の政界、教育界の中枢で活躍した。
■8.「私の使命は韓国民の精神開発」■
昭和10(1935)年に高敞高等普通学校を卒業した一人が鄭成沢氏である。枡富はすでに日本に戻り、その前年に亡くなっていたので、直接の面識はなかった。鄭氏は卒業後、教育者の道を歩み、戦後の1966(昭和41)年、富安国民学校の校長に任命された。
鄭氏が教育の一環として、生徒たちに学校の歴史を調べさせたところ、同校が枡富の手によって設立されたことを初めて知った。自分でも関連資料を探したところ、近隣の老人が『枡富安左衛門追想録』と題した分厚い本を差し出した。枡富の夫人・照子が編纂したもので、枡富自身の手紙や文章が収録されていた。それを読んだ鄭氏は深く心を動かされた。
鄭氏は翌年の創立記念日に、全校児童にこう語りかけた。
鄭氏は枡富の命日に追悼式を行い、さらに私費を投じて顕彰碑を建てた。「枡富先生教育功労碑」としたかったが、当時の反日感情の中では打ち壊される恐れもあったので、「学校設立記念碑」とし、裏面に設立の歴史として、枡富の事績を記した。
しかし、反日教育を受けた若い職員らから「倭人を称えるなど、もってのほかだ」と批判され、その一人が「親日校長」などと非難する投書を教育委員会などに送り続けた。鄭氏は、学校や同僚にも迷惑がかかるとして、教職を去った。
■9.「私の使命は韓国民の精神開発」■
1995(平成7)年、枡富の60回忌の年に、鄭氏は韓甲洙氏らとともに再び立ち上がった。学校を設立した外国人が韓国政府から相次いで表彰されていたので、同様の政府表彰を申請したのだった。
「日本人を表彰するなどもってのほか」と担当の役人たちは迷惑そうな表情を隠さなかったが、韓氏の人脈を通じて粘り強く説得し、ついに大統領の決裁がおりたのである。こうして冒頭の「国民勲章牡丹章」授賞が実現した。
富安国民学校の校庭には、開校時に植えられたアカシアの苗木は今は巨木となって、子供たちに格好の日陰を提供している。校庭の片隅には、鄭氏の建てた石碑が今も残っている。その側面には、鄭氏の好んだ枡富の言葉がさりげなく刻まれている。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(056) 忘れられた国土開発
日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html
b. JOG(204) 朝鮮殖産銀行の「一視同仁」経営
朝鮮農業の大発展をもたらしたのは、日本人と朝鮮人の平等・融和のチームワークだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog204.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 黒瀬悦成『知られざる懸け橋―枡富安左衛門と韓国とその時代』★★、朝日ソノラマ、H8
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■竹林さんより
枡富がデンマークを事業のモデルとした件についてですが、1850年代ごろにデンマークでは、エンリコ・ダルガスという軍人(牧師ではありませんが)が国民運動を展開し、信仰と農業・林業を基軸として、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争による祖国の荒廃からの復興を指導しました。
1911年に内村鑑三が『デンマルク国の話』でこのことについて語っており、枡富はこれに影響を受けたものと思われます。