JOG(371) 豊田佐吉の産業報国
40年におよぶ苦難の発明家人生を生き抜いた原動力。
過去号閲覧: https://note.com/jog_jp/n/ndeec0de23251
無料メール受信:https://1lejend.com/stepmail/kd.php?no=172776∂
■1.「これほどお国の為になるものはない」■
明治20(1886)年、浜名湖西岸の吉津村(現在の湖西市)。
この青年こそ21歳の豊田佐吉であった。近くの納屋に材料や道具を持ち込み、佐吉の発明生活が始まった。貧しい大工の父親は反対し、村人は嘲笑する中で。
■2.狂人扱い■
東京で内国勧業博覧会が開かれた時は、すぐに上京し、安宿に泊まり込んで、15日間も朝から晩まで機械館で当時の最新鋭の機械を眺め続けた。しかし工学的な知識のない佐吉には理解できない所が多かった。
こんな苦闘を3年ほども続けて、明治23(1890)年11月、最初の木製人力織機が完成した。発明というよりは、従来の手機の改良というべきもので、4、5割の能率向上は図れたが、世の中に評価されるほどのものではなかった。最初の特許を取得した喜びにひたる間もなく、佐吉は動力織機の発明に向かった。
明治26年3月、最初の妻たみを迎えたが、生活に行き詰まった佐吉が一人、伯父の所に転がりこんでなおも発明に没頭したため、たみは翌年6月に生まれた長男・喜一郎[a]を残して、姿を消してしまった。
■3.木製動力織機の完成■
明治30(1897)年夏に、ようやく木製動力織機が完成した。日本で最初の発明である。従来の人力織機ではとうていできなかった品質の均一な織布が作れるようになり、また独仏から輸入されていた動力織機に比べ、機械スピードは半分にも満たなかったが、価格が数分の一ときわめて安かった。
三井物産がこの動力織機の価値を認め、援助の手を差し伸べたことから、佐吉は発明家として広く世に知られるようになった。この機械は中小織布工場を中心に急速に普及し、その近代化に貢献した。
三井物産が機械の生産と販売を助け、佐吉はもっぱら織機の技術的改良に力を注いだ。小工場に適した石油発動機の開発、糸の送出装置、運転中の緯(よこ)糸補給装置などが相継いで完成し、中小工場のニーズによく応えたため、需要が盛り上がって、生産が追いつかないほどであった。このように利用者の視点から絶えず改善・改良を続ける姿勢は、富や名声を目当てとする発明家にはないものだった。心底に自らの発明で広く「お国のために尽くしたい」という志があったからだろう。
当時、日清戦争の際に日本軍が満洲で大量発行した軍票(軍隊が通貨の代用として発行した手形)を回収するために、日本から綿布を大量に輸出することとなり、三井物産も協力しようとしていたが、当時の手織機ではとうていそれだけの生産量をこなせなかった。ここにちょうど登場した佐吉の動力織機が、この問題を解決した。「お国の為」の最初の奉公であった。
■4.豊田式織機会社の設立と辞職■
明治39(1906)年12月、豊田式織機会社が設立された。それまでは豊田商会という家内企業で織機を製作していたのだが、三井物産からの申し入れで、東京・大阪・名古屋の大資本を集つめた株式会社が設立された。佐吉は技師長として、巻取装置など自動織機を目指した開発を続けていった。
この時期に開発された中に「緯(たて)糸切断停止装置」があった。経糸が一本でも切れたまま、自動的に作り続けると不良品が大量に出来てしまう。だから異常を検知して、すぐに設備が停まるという機能が必要だと佐吉は考えた。この機能は今日のトヨタ生産方式でも「自働化」と呼んで、重要視されている。[b]
同時に動力織機のさらに広範な普及のためには、耐久性が必要であると考え、木製織機の破損・摩耗しやすい所から、順次鉄製部品に変えていき、ついに鉄製織機を完成させた。
佐吉の目指す自動織機は今やほとんど完成の域にあったが、販売を開始する前に、完全な営業試験をすることを主張し、自費で試験工場を設けて、自動織機の完璧を期した。しかし、佐吉の姿勢は、利益主義に走る会社経営陣から批判を浴び、ついに明治43(1910)年4月の緊急重役会で、佐吉は辞職を強要せられるに至った。
■5.工場経営と研究開発と■
辞職の翌月、佐吉は急に思い立って、翌年1月までアメリカとイギリスの織機メーカーを見て回った。すでにアメリカのメーカーが自動織機を開発していたが、佐吉は自分の発明したものより速度も遅く、機構が複雑で故障が多く、織布の不良や品質がよくない事を知った。
帰国した佐吉は、不得手な金策に奔走して、名古屋市内に織布工場を新設した。その利益をもって自動織機の開発を続けようとしたのである。佐吉は家族とともに、この工場に移り、従業員と寝食をともにして、工場経営と研究開発に全勢力を傾けた。朝は誰よりも早く起きて研究室に入り、作業が始めると織機の間をかけまわって、細かい作業にも注意を与えた。夜はふたたび研究室に閉じこもって、おそくまで研究に没頭した。
しかし当時の原糸では品質が粗悪で自動機には不向きであることが分かると、佐吉は自ら高品質の原糸を製造することを思い立った。そこで再びあちこちから資金を借りて大正3(1914)年2月に小規模な紡績工場をスタートさせた。その年7月に第一次大戦が勃発し、未曾有の好況に恵まれて設備を次々と増設し、大正7年には豊田紡織株式会社を設立するに至った。
佐吉は事業経営にあたっては、大家族主義をとり、労使協調を基本とした。佐吉の奉仕・感謝の精神がよく浸透していたためか、昭和初期の恐慌時でも工場内にはきわだった労使対立は見られず、それがまた事業の発展に貢献した。
紡織事業の経営から巨大な利益を上げるにいたったが:
大正10年には中国に進出して、上海に約1万坪の大規模な紡織工場を建てた。日貨排斥の中で、苦労は大きかったが、その狙いをこう語っている。
■6.「これならば恐らく米英織機に負けはとるまい」■
豊田紡織の事業により、潤沢な研究費が得られるようになって、自動織機の改良は順調に進み、大正12年7月には完璧に近いものとなっていた。そこで佐吉は愛知県刈谷に約10万坪の土地を購入し、まず200台の自動織機を据えて、実地試験を始めた。各部の緻密な実地試験の結果、次々に新しい発明考案が施され、改良が加えられていった。その結果として、多くの特許も獲得した。この徹底した改良改善は、今日の日本のモノづくりのお家芸である「カイゼン」を思わせる。
佐吉が「これならば恐らく米英織機に負けはとるまい」と十分な確信を得たのは、大正15(1926)年3月であった。従来の動力織機では一人でたかだか4、5台のしか動かすことができないのに比較して、完成した自動織機では50台の運転が可能であった。実に10倍以上の生産性である。
時に佐吉60歳。織機の発明を志した21歳の春から、40年の星霜を経ていた。この年の11月、豊田自動織機製作所が創設され、自動織機の製作・販売が開始された。
■7.「世界の織機王」■
佐吉の発明した動力織機、自動織機は国内に広く普及していった。昭和7(1932)年までに、豊田式織機会社から動力織機13万台が出荷され、豊田自動織機製作所から販売された自動織機も2万台に達した。これらの優秀な国産織機により、海外からの織機の輸入はなくなった。逆に国産織機は、中国・インド・アメリカ・カナダ・メキシコなどにも輸出されるようになった。
佐吉の自動織機は、欧米の織機を模倣したものではなく、まったく異なった系統から発明されたものであった。そして、そこには前述の「自働化」など、後の日本のモノづくりを導く幾多の独創的な考えが込められていた。
昭和4年には、世界の織機の母国と言うべきイギリスのプラット社の技術者が来日して、自動織機を見学し、世界一の織機と賞賛した。そして、プラット社からの申し入れで、欧州・カナダ・インドで登録されていた特許をそして10万ポンド(邦貨100万円)で譲渡する交渉がまとまった。佐吉の織機は、ついに先進国イギリスをも凌駕するものであることが実証され、佐吉は「世界の織機王」として名声は世界的に高まった。
■8.日本人の白人に対する智能の挑戦■
佐吉は自ら自動織機の発明を志すばかりでなく、日本人の発明能力の開発にもつとめた。大正12、3年頃には蓄電池発明奨励の目的で、帝国発明協会に100万円もの寄付を行った。その狙いを佐吉は次のように説明している。
佐吉の目には、当時の白人中心の国際社会の中で、智能が劣っている黄色人種と馬鹿にされ、かつ貧しい祖国の姿が見えていた。なんとか日本が国際社会の中で面目を保ち、かつ独立を維持できるよう富強にならなければならない。
■9.「産業報国の実を挙ぐべし」■
∂佐吉が当時の最先進国イギリスに特許を売ったということは、まさしく日本人の智能が優秀であることを示す「動かすべからざる証拠物」であった。同時に、世界最先端の機械によって、輸出産業を育成し、祖国を富強にする事に貢献したのである。佐吉の40年以上にわたる発明家としての人生の原動力は、このような報国の志であった。
佐吉は昭和5(1930)年10月30日に死去したが、その6周忌にあたる昭和10年、佐吉の遺志を継承するために「豊田綱領」が定められ、佐吉の胸像の前で朗読式が行われて、全従業員がその実践を誓った。その最初の2条は次のようなものである。
佐吉は晩年「これからは自動車工業だ」「日本も立派な自動車をこしらえなければ、世界的に工業国といって威張れぬ」と口癖のように言っていた。そしてプラット社に特許を売って得た100万円、今日の価値では数十億円に相当する金額を長男・喜一郎に与え、「わしは織機でお国のためにつくした。お前は自動車をつくれ。自動車をつくって国のためにつくせ」と励ました。
豊田綱領の制定の5ヶ月前、喜一郎が、乗用車の試作第一号を完成させていた。新たな挑戦が始まっていた。[a]
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a.
b.
■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 楫西光速『豊田佐吉』★★★、吉川弘文館、S37
© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.