JOG(648) 星一(下)~ 第一次大戦敗戦国ドイツへの支援
製薬事業で成功した星は第一次大戦の敗戦国ドイツの支援に立ち上がった。
(前号より続きます)
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■1.大正の東京に出現したニューヨークの一角
大正3(1914)年、東京・京橋。2階建ての木造住宅や、くすんだレンガ作りのオフィスが並ぶ中に、白い4階建ての鉄筋コンクリートのビルが登場した。
ビルの屋上には強大な看板が立ち、夜になると電気で赤い文字が輝いた。「クスリはホシ」と。突如、ニューヨークの一角が出現したようだった。
そのビルの最上階に、40歳になった星一(ほし・はじめ)の社長室があった。長身でスマートに背広を着こなした姿は、これまたアメリカ人のようだった。
12年におよぶアメリカ生活から帰国したのが、明治38(1905)年[a]。それから10年間、星は様々な薬の国産化を行うことで、事業を順調に拡大していた。
■2.すべての関係者に利益を与えることが、真の事業の意味
アメリカでの留学中に、星はいろいろな薬の世話になった。その一つにイヒチオールという打撲傷を負った時に湿布として用いると良く効く薬があった。
星が最初に国産化に取り組んだのが、このイヒチオールだった。いろいろな失敗の末に、なんとか製造に成功した。できあがった薬は、そこそこの価格で問屋が引き取ってくれた。原料はガス会社の廃液を安く仕入れたものだから、面白いように儲かった。
この経験から星は気づいた。我が国は欧米からいろいろな薬を輸入しているが、それがどれほど欧米企業を儲けさせているか、ということを。輸入に頼っている薬を国産化することは、貴重な外貨の流出を防ぎ、より安価な薬を国民に提供することになる。
この考えから、星は次々と様々な薬の国産化を進めた。出資金を集めて株式会社を作り、社員を採用し、一村に一軒ずつ販売特約店をおいた。
消費者には安価な薬を提供し、社員には職を提供し、販売店には収益をもたらし、出資者には利益を配分する。こうして、すべての関係者に利益を与えることが、真の事業の意味だということを、星はアメリカで学んでいた。
■3.日本をドイツに並ぶ製薬大国に導く道
しかし、単に外国の真似をするだけでは、面白くない。模倣だけでは、いつまで経っても欧米諸国を追い越せない。日本にふさわしい道があるはずだ。
こう考えた星は、日本には東洋医学の伝統があることに着目した。化学の先進国ドイツは石炭をもとにしたコールタール系の原料から、新しい合成医薬品を次々に生み出している。
それに対して東洋医学では薬草の効能を活用する。植物の薬理作用を持つ有効成分を抽出し、医薬品を生み出す産業こそ、日本をドイツに並ぶ製薬大国に導く道ではないか。
なにから手をつけるべきか、という答えを見つけるのに、あまり時間はかからなかった。モルヒネである。ケシの果実が未熟なうちに傷をつけると乳状の液がにじみ出てくる。それがもつ神秘的な麻酔作用は、アヘンとして多くの人々に麻薬中毒の災厄をもたらしてきた。
しかし化学が進み、主成分モルヒネが抽出できるようになると、人々を激痛から救う薬として、手術の際には欠かせないものとなった。星はモルヒネの国産化に取り組むこととした。
■4.台湾総督府と組んたモルヒネ製造
モルヒネの国産化に取り組もうとした星がぶち当たった最初の難関が、原料であるアヘンの入手だった。国内では法律により政府の専売となっており、その価格は国際相場の3倍から4倍となっていた。これでは外国産に太刀打ちできない。
なんとかこの難関を突破しようと、持ち前の粘りで八方調べ尽くしたところで見つかったのが、台湾でのアヘン政策だった。
台湾総督府はアヘンを専売とし、徐々に中毒患者を減らすという政策で効果を上げていた。日本が統治を開始した当初は19万人もの中毒患者がいたが、大正2(1913)年には8万人に減っていた。
それでも8万人分と言えば、相当な量である。台湾総督府はアヘンをインドから輸入しているが、インド産のアヘンのモルヒネ含有量は6パーセントである。これをペルシャ産に置き換えれば、同じ金額で、含有量は10パーセントに増加する。
増加する4パーセント分を払い下げて貰えれば、星としてもモルヒネ製造に使えるし、台湾総督府はそれだけ収入増加となる。「ここだ、ここだ」と星は思わず、大声で叫んだ。
台湾統治の先駆者・後藤新平とは、星は在米時代に案内した事から、親しくしていた。後藤の流れを受け継ぐ台湾総督府は星の提案を好意的に受けとめてくれた。
星は台湾総督府の認可を受け、入手したアヘンから苦労してモルヒネの抽出に成功した。当初は少量のためコスト高で赤字だったが、生産量を拡大するにつれてコストも下がり、また欧州が第一次大戦に見舞われた事から製品の相場も上昇して、収益を生むようになった。
■5.得体の知れない官製会社
ヨーロッパでの大戦が続いて、日本は特需に湧いていたが、逆に欧州に頼っていた医薬品などが輸入できなくなる事態が想定された。
そこで国産化を進めるために政府はもっと産業振興策をとるべきだという声があがり、星が幹事役に任命されて、賛同者を集め、政府に働きかけた。
この運動が実って、「製薬および化学工業製品の奨励法」という法案が成立し、それに伴う予算も議会を通過した。
しかし、いざ詳細が判明してみると、とんでもない内容になっていた。「国内製薬」という資本金百万円の株式会社が作られ、政府の補助金を一手に受け、薬品の製造をする、というのである。しかも、国内製薬が欠損を出しても補助金で穴埋めされ、年8分の利益配当も補助金で保証されている。
これではこの官製会社に他の民間会社が圧迫されるだけで、日本の化学工業の発展の足を引っ張るだけとなる。
国内製薬の役員を見れば、首謀者は明らかだった。三原製薬という会社につながりのある学者や役人OBなどがずらりと並んでいた。同社は内務省衛生局の役人だった人物を支配人に迎え、そのコネを活用して事業を広げてきた会社である。
呆然とした星は、内務省に出かけて衛生局長に訴えた。補助金を出すなら、重要な品目を指定し、各社の製造量に応じて補助金を出した方が、もっと効果的だと論じた。
しかし、衛生局長は無表情な顔で、「いまさら変更はできない。補助金を出すのは、一社の方が監督しやすい」と答えにもならない答えを返した。耳を傾けようともしない相手に、星は議論をあきらめた。
国内製薬は補助金を使って工場設備などは整えたが、輸入薬の国産化ではほとんど成果もないまま、やがて三原製薬に吸収合併された。星は得体の知れない官製会社の産婆役を演じてしまったのだが、同時に内務省衛生局を敵に回してしまったのである。
■6.ドイツ学界への寄付
大正7(1918)年、第一次大戦はドイツの降伏によって幕を閉じた。翌年の講和会議には日本も連合国の一員として出席し、日独の国交が回復した。
その頃、星は後藤新平から、ドイツ科学界が戦後の疲弊で、実験用のモルモット一匹を買うのにも事欠いている事を聞いた。
星は「なんでしたら、私がドイツの学界に寄付をいたしましょうか」と申し出た。そしてちょっと考えて、「200万マルク、邦貨で8万円ほどでどうでしょう」と言った。現在の貨幣価値で言えば、数千万円規模であろう。後藤は喜んで答えた。
科学における世界最先進国ドイツから学べない、取引もできないとなれば、我が国にとっても国家的損失である。
星の寄付金はドイツ政府に送られ、学術部門に使用された。対日感情の好転にも役立ち、さらにこれが呼び水となって、アメリカその他の国からの寄付も開始されたという。
■7.ドイツからの感謝
大正11(1922)年夏、ドイツ政府から星に招待状が届いた。寄付への感謝をしたい、というのである。招待に応じてドイツに着くと、待ちかまえていたのは国賓待遇の歓迎であった。エーベルト大統領主催の夕食会、ベルリン大学からの名誉学位授与、等々。
星は自分の寄付がこれほどに喜ばれるとは想像もしていなかっただけに、喜びもひとしおだった。
しかし、戦後の驚異的なインフレで、せっかくの200万マルクも価値を失いかけていると知って、今後3年間、インフレに影響されない邦貨で、2万5千円ずつの寄付を続けたいと申し出た。ドイツ人の心からの拍手を浴びながら、星は帰国の途についた。
翌年、ドイツからフリッツ・ハーバー博士が来日した。空中窒素固定法を発見した化学者として知られ、同時に星の寄付金を管理する学術後援会の会長でもあった。
ハーバー博士は星の会社を訪れ、大統領からの親書を手渡した。ドイツが戦後の最も苦しい時に、民族、国境、利害を超えて、友情溢れる援助の手を差し伸べてくれたことに、ドイツ国民はこぞって心からの感謝をささげるものである、という内容だった。
同時に、博士はドイツ染料の日本における一手販売権を星に贈りたいとのドイツ産業界の意向を伝えた。ドイツ染料の優秀さは定評があり、これを一手に販売できるとなれば、莫大な利益がもたらされる。しかし、星は、こう言って謝絶した。[1,p150]
星が欲したのは、利権よりも知識だった。ハーバー博士を国内各地を案内しながら、博士の知識を吸収した。博士も快く教えてくれた。特に、この頃、星は低温を利用した産業を興そうと考えており、博士はこの分野でのドイツの研究成果を送ってあげようと約束してくれた。
■8.私利私欲がつぶした報国の志
しかし、星の低温工業開拓の志は実を結ばなかった。それどころか、本業の新薬開発の事業も苦境に陥っていく。
発端は、後藤新平の政敵・加藤高明が政権の座についたことである。加藤内閣は後藤新平の勢力を削ぐために、露骨に権力を行使した。後藤と親しい星もその標的とされた。星に恨みを抱いていた内務省衛生局が、これに加担した。
まず、台湾専売局からのモルヒネの払い下げが、理由も明かされないまま、ピタリと止められた。払い下げによって、国家も利益を得ているのに、あえてそれを無視しての措置である。
さらに、アヘンの値段が下がったときに、台湾総督府の購入費用を節減しようと、許可を得て、星が自己負担で数年分まとめて購入したことを、アヘンの売買を禁じた法令に違反したとして、自宅捜査を行い、台湾での取調べに何度も出頭させた。
こうした事がたびたび新聞で報道され、世間の信用は地に落ちていった。さらに星と取引のあった銀行にまで、これ見よがしの捜査が行われ、星への資金供給を止めるよう、圧力が加えられた。
結局、星は2年をかけて三審まで戦い、無罪を勝ち取ったのだが、その間に、計画していた「低温工業株式会社」の構想は流産となり、製薬事業そのものも、その勢いを止められてしまう。
このような妨害を受けなければ、日本の製薬業界ははるかに発展し、さらに低温工業が開発されて、食品の冷凍保存などで、国家に大きな貢献がなされていた可能性が高い。加藤内閣、内務省衛生局、そして三原製薬は、国益を踏みにじっても、私利私欲を通したのである。
この間の唯一の救いは、星が、これほどの苦境の中でも、3年間、2万5千円ずつの寄付をするという約束を守ったことである。星は苦心して金をかき集め、最後は自宅を抵当に入れてまで寄付を行った。しかも、そうした事情を星はドイツ側には一切伝えなかった。
その寄付を用いて、ドイツでは日独の知的区流を高めることを目的とした「日本学院」が設立され、フリッツ・ハーバー博士が会長に就任した。ベルリンの王宮内での開院式で、ハーバー博士は式辞の中で、こう述べた。[1,p301]
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a.
b.
■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 星新一『人民は弱し 官吏は強し』★★★、新潮文庫、S53
■「星一(ほし・はじめ)~ 製薬大国への志」に寄せられたおたより
■編集長・伊勢雅臣より
私利私欲のために星一のひたすら国益を思う志を踏みにじった人々のことは、歴史に刻まれて然るべきでしょう。
■編集長・伊勢雅臣より
国家公共に尽くすことを志す人々がどれだけいるかで、国の勢いは決まります。
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