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JOG(161) 国難・大津事件

 来日中のロシア皇太子が凶漢に襲われた。戦争に
なって植民地に転落するか、亡国の危機迫る。


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■1.ロシア皇太子ニコライ来日■

 明治24(1891)年5月8日、ロシア皇太子ニコライを乗せた
軍艦アゾヴァ号(6,000t)が、ナヒモフ号(8,524t)、モノマフ号
(5,593t)を従えて、鹿児島湾に入ってきた。いずれも厚い甲鉄
に覆われ、多くの砲を装備している。町の者たちは、今まで見
たこともない巨大な軍艦に、畏怖に近い印象を受けた。

 先導する通報艦・八重山は国産の新鋭艦であったが、わずか
に1,609トン、ロシア艦に比べあまりにも貧弱に見えた。

 ニコライはシベリア鉄道の起工式に、皇帝の名代として臨席
するため、インドからウラジオストクに赴く途上であった。お
りしも我が国ではシベリア鉄道の敷設は、ロシアの極東侵略の
準備であるとの危機感が募っていた。さらに幕末にロシア艦が
樺太、択捉島、北海道の利尻島を襲って、番人を拉致したり、
放火、略奪をほしいままにした暴挙は、ロシアに対する恐怖と
して根強く残っていた。

 やがてロシア皇帝となり、独裁的な権力を持つ皇太子ニコラ
イを日本に招聘し、好感を抱かせることは、わが国の安全にと
って極めて有効だと政府は判断し、今回の訪問が実現したので
ある。

■2.武力誇示と軍事偵察?■

 鹿児島に寄港した3隻と、さらに神戸に直行した4隻と、都
合7隻もの新鋭軍艦からなる大艦隊を率いた皇太子ニコライの
来日は、日本に対する武力誇示であるとか、軍事偵察のためで
はないかという憶測がしきりに流さた。

 この憶測は駐日ロシア公使シェービッチの傲岸な要求によっ
てさらに強められた。外国の軍艦が入港できる港は条約によっ
て制限されていたが、シェービッチは皇太子一行の軍艦がどの
港にも入れるよう青木外務大臣に要求した。これを青木が拒否
すると、激怒したシェービッチは、あくまでも日本政府が許可
しない場合には砲撃による武力行使も辞さないと威嚇した。
軍事力、経済力ともはるかに劣る日本は、この強硬な態度に屈
して要求をのんだ。

 しかし明治天皇は、両国親睦のためにもニコライを最上級の
歓待でむかえるべきだと考えられ、政府も国賓として歓迎する
準備を進めた。

■3.心のこもった歓迎■

 一方のニコライは日本に行けることを楽しみにしていた。そ
のために他の国々に滞在する日数は短いのに、日本のみは30
日以上も滞在することになった。

 これは叔父のアレキシス大公が明治6年ごろ訪日し、帰国後
は皇太子に対しても常々「東洋の日本国へ遊ばれよ。その風俗
といい人情といい君民の一致和合せる世界無比の楽園なり」と
勧めていたからであるという。

 皇太子ニコライを乗せた艦隊は4月27日長崎に着くと、5月8
日に鹿児島湾に立ち寄った後、5月9日神戸港に到着。一行は、
翌日陸路、京都に向かった。各地での盛大な歓迎ぶりは、叔父
の言葉を裏切らないものであった。

 京都では皇太子に夜景を楽しんでもらうため、東山如意ケ嶽
と衣笠山の山腹に「大」という火の文字を浮かび上がらせた。
皇太子は眼を輝かせて、接伴委員長の有栖川宮に、「心のこも
った歓迎に感謝します」と言った。

■4.一同の顔から血の気が引いた■

 事件は5月11日午後1時30分過ぎに起こった。ニコライ
は京都から、大津に出て、琵琶湖を周遊した帰りであった。皇
太子を乗せた人力車が通ると、挙手をしていた巡査が、急にそ
の手をおろして、サーベルを抜き、ニコライに斬りかかった。

 巡査はすぐに取り押さえられたが、ニコライは頭部を斬られ、
激しい出血が右の瞼から頬を濡らした。逮捕された犯人の津田
三蔵巡査は、ロシアの強圧的な態度を不快に思っており、皇太
子に一太刀を加えて、「彼ノ心ヲ寒カラシメントセリ」と動機
を述べている。

 事件の報は、1時間後には明治天皇のもとに届き、ただちに
政府要人を集めて御前会議が開かれた。現地からの電報が紹介
されると、一同の顔から血の気が引いた。

 ロシア側が怒って宣戦布告することも予想される。そうなれ
ば日本に勝ち目はなく、属国か、植民地にされてしまうであろ
う。現在、神戸港に停泊中の7隻の艦隊だけでも、大阪や東京
を砲撃して、火の海にできるのである。あるいは、賠償として
千島などの領土を要求してくるかもしれない。天皇は、自ら陳
謝を兼ねて、おもだった大臣らとともにニコライに見舞いに行
く、と異例の決心をされた。

 当時、近衛師団の少尉であった石光真清の自伝によれば、
「われわれは腰を抜かさんばかりに驚」き、部下に営内待機を
命ずると、「下士官二人はガタガタふるえ出して、復命も出来
ずに歯をかちかちと噛み鳴らすだけであった。」「陸軍6箇師
団、海軍は殆ど無いに等しい」日本の軍備は、ロシアから見れ
ば、「七五三のお祝いに軍服を着た」幼児のようにしか見えな
いに違いない、と記している。

■5.ロシアの怒り■

 ニコライは、京都のホテルでロシア人医師に手当を受けてい
た。天皇から差し遣わされた二人のお見舞い医が到着しても、
ロシア側は診察させなかった。また東京から駆けつけた青木外
務大臣、西郷内務大臣がニコライに謝罪し、お見舞いの言葉を
述べようとしたが、ロシア側に面会謝絶と突っぱねられた。明
治天皇が数回、ロシア皇帝に状況報告の電報を打たれていたが、
まだ返事がなかった。ロシア側の不気味な沈黙が続いていた。

 翌朝午前6時半に新橋停車場を出発した列車は約15時間後、
午後9時15分に京都に着いた。天皇の顔は煤煙ですすけ、心
労と疲労でひどくやつれて見えた。

 翌朝、天皇はニコライを見舞われ、「ご健康が旧に復せられ
たら、東京その他を御巡覧なされることを切に希望します」と
述べられた。ニコライは、天皇の見舞いに感謝しつつも、「東
京に行くかどうかは、本国の父皇帝の指示に従います」と答え
た。皇太子が旅を中断してしまえば、ロシアとの国交は危機を
迎える。天皇の顔が一瞬こわばり、激しい落胆の様子が窺えた。

 お見舞いの後、ロシア皇帝からの初めての電報がもたらされ
た。大事に至らなかった事を喜び、「陛下がこのことにつき色
々ご配慮下さったことを感謝いたします」と、明治天皇の誠意
に満ちた配慮を十分汲み取った内容であった。

 国民の間では、天皇にならって自分たちもお見舞いをせねば、
という機運が全国的に広まり、学校は謹慎の意を表して休校と
なり、神社、寺院、教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。
見舞電報は一万通を越え、見舞い品も長持ち16棹に達した。

■6.天皇、政府、国民の誠意通ずる■

 皇太子ニコライは、東京に行きたいとの希望を訴え、皇帝も
一度はそれを許したが、シェービッチ公使の強硬な反対で、皇
后を動かし、3日後に日本を離れるよう命令が下った。

 天皇はお別れに神戸のご用邸で午餐を差し上げたいと招待し、
皇太子も喜んで応じようとしたが、医者とシェービッチ公使が
一致して反対した。そこで皇太子は、逆に天皇をアゾヴァ号で
の午餐にお招きした。

 これはロシア側が天皇を拉致しようとする陰謀かもしれない、
という恐れから、侍従達は反対したが、天皇は招待を受け入れ
られた。明治天皇を迎えた皇太子の態度には、人格に強く魅せ
られて、あたかも敬愛する師に対するような敬意の念が現れて
いた。

 ロシアの外務大臣ギールスは、事件発生直後は激怒して日本
政府を責める言葉を繰り返していたが、日本の天皇、政府、国
民の誠意溢れる態度に皇帝も皇后も十分満足しているので、こ
の事件についての賠償は一切要求しないとの意向を伝えた。

 午餐の後、午後2時に天皇がボートでアゾヴァ号を離れられ
ると、ロシア艦隊はあわただしく出港準備を始め、夕刻、神戸
港を発って、ウラジオストックに向かった。

■7.途方もない重大な事柄が起こるかも知れず■

 犯人・津田三蔵をどう処罰するかも、重大な問題であった。
内閣としては、津田を極刑にして、ロシア皇帝、国民を納得さ
せる必要があると判断した。しかし外国の王族に危害を加えた
場合の国内法はなく、一般人に対する謀殺未遂をそのまま適用
すれば、最高でも無期懲役である。

 ロシア公使シェーヴィチにこれを説明すると、たちまち顔色
を変えて、こう恫喝した。
__________
 終身刑というなら、それでもよろしい。ただし、わがロ
シアと日本の間になにか途方もない重大な事柄が起こるか
も知れず、それは覚悟して欲しい。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 いっそのこと、ロシアがよくやっているように、刺客を使っ
て津田三蔵を暗殺させては、と提案した大臣までいたが、元
老・伊藤博文は、怒声に近い声で「いやしくもわが国は法治国
家であり、そのような無法は許されぬ。」といさめた。

■8.法律は国家の精神■

 山田司法大臣は、刑法116条「天皇、三后(太皇太后、皇
太后、皇后)、皇太子ニ対シ危害ヲ加へ、又ハ加ヘントシタル
者ハ死刑ニ処ス」をロシア皇太子にも適用すれば、死刑にでき
ると考えた。

 しかし、これに待ったをかけたのが、大審院(最高の司法裁
判所)院長・児島惟謙(これかた)であった。116条は、国
家統合の中心たる皇室に危害を与えることは国家の安寧と秩序
を害することであるから特別に設けられているのであり、条文
上も明らかに、外国の皇族に適用することは不当である、と判
断した。

 松方総理は、児島を呼び、悲痛な声で「なんとしても、津田
三蔵を死刑にしなければならないのだ」と言った。児島はこう
答えた。
__________
 私個人の感情としては、津田三蔵のような人物は、国家
の大罪人として八つ裂きにしてもまだ足りないほどに思っ
ております。ただし、法律は国家の精神です。いかなるこ
とがありましょうとも、これを断固としてまもることが、
国に対する忠義であります。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 児島の念頭にあったのは、条約改正問題であった。幕末に諸
外国と結ばれた条約は著しく日本に不利で、たとえば外人が日
本国内で罪を犯しても、日本には裁判権がなかった。これは日
本の法治制度が十分発達していない野蛮国だとの判断が欧米諸
国にあったからである。

 今回の事件で安易に法を曲げるようなことをすれば、「刑法
ヲ犯シ又憲法ヲ破壊スル」ものであり、わが「司法権ノ信用厳
正ヲ失墜スルモノ」となる。各国は「益々(ますます)軽蔑侮
蔑ノ念増長シテ、動(やや)モスレバ非理不法ノ要求」をつき
つけてくることも要求される、と児島は総理、司法大臣あての
意見書で主張した。

 津田を死刑にせねばロシアと戦争になるかも知れず、法を曲
げて死刑にすれば、それを口実に欧米諸国はいつまでも条約改
正に応じないだろう。内閣は窮地に陥った。

■9.注意シテ速カニ処分スベシ■

 内閣全体に一人反対してあくまでも憲政を護ろうとする児島
を勇気づけたのは、明治天皇から直接賜った勅語「今般露国皇
太子ニ関スル事件ハ国家ノ大事ナリ 注意シテ速カニ処分スベ
シ」であった。「注意シテ」とは、法律の適用を誤って国家の
恥としてはならない、との意味であると児島は受け止めた。

 内閣としては、戒厳令を発して法律に縛られない処置をとる、
という非常手段もあったのだが、このような勅語が出された以
上、それも不可能でった。津田の裁判を担当した7人の判事は、
内閣の必死の説得にも関わらず、児島に賛同し、116条適用
を不当として、全員一致で無期懲役の判決を下した。

 日本政府はロシア駐在の西公使を通じて、外務大臣ギールス
に判決の説明をした。ギールスは憤りの色を眼にうかべて「は
なはだ不快であるのは、わが皇太子に危害を加えた者を、一般
人に危害を加えた者と同じ処分をしたことにある」と言った。

 西は、日本政府は最大限の努力をしたが、法律の限界である
ことを理解して欲しいと述べた。ギールスはロシア皇帝に上奏
し、皇帝は「これも日本の法律にもとづくものであるから、な
にも言うことはない、しかし今回の結果は日本の利益にはなっ
ていない」と答えた。

 日ロ関係は将来の波乱をはらみつつも、この事件はひとまず
の決着を見た。明治天皇と政府・国民の君民一体となった皇太
子へのお見舞いと、勅語を支えに法治の精神を護った児島惟謙
以下の司法官らの見識とで、この明治最大の国難をなんとか乗
り切ることができたのである。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

  1. 「ニコライ遭難」★★★、吉村昭、新潮文庫、H8.11

//////////// おたより ////////////
                 高山さん(小学校教諭)より

 先日、日清・日露戦争を授業で、地球史探訪: 国際派日本
人に問われるIdentity_」の中の「3.日露戦争の世界史的意
義」の部分を取り上げ、プリントして児童に紹介しました。授
業後の感想として以下のようなものがありました。

 私は、日本人はほかの国の人にきらわれてるのかなぁと
考えていたけど、この資料を読んで、考えていたこととは
反対でよかったと思いました。それに、自分の子供にまで、
日本の人の名前をつけているなんて思ってもみないことだ
ったので、すごくびっくりしました。でも、ほかの国(外
国)の人がこんなにも乃木大将や東郷平八郎をそんけいし
てくれているのに、なぜ日本の社会の教科書にはその乃木
大将や東郷平八郎のことをくわしくかいてないのかなあと
思いました。

 教科書は日本を悪いような書きかたをしてるけど、(
略)算数だって正しい計算のしかたを教えるし、国語も正
しい日本語を教えるし、理科も正しい実験のしかたを教え
るのに、社会の、しかも正しく理解してなくさなければな
らない(と思う)戦争を悪い所だけ教えるのはどうかと思
う。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 子どもたちの素直な感性からの教科書批判に、教科書執筆者
たちはどう答えるのでしょうか。本誌をこのように使っていた
だいた高山先生に敬意と感謝を捧げます。
以上

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