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JOG(719) 国土創生の志士 ~ 浅野総一郎

「おらは新しい世界を創る」という子供の時の志そのままには国家的事業に邁進した。


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「おらは新しい世界を創る」という子供の時の志そのままに、浅野総一郎は国家的事業に邁進した。

■1.欧州からの電報の束

 昭和5(1930)年、欧州の旅に出ている父・浅野総一郎から次々と送られてくる電報の束を見て、息子・泰二郎の胸は潰れるような悲しみに満たされた。電報はすべて細々とした仕事上の指図であった。

 欧州旅行中の総一郎はベルリンで咳が止まらなくなり、医者に見てもらったところ、食道ガンと診断された。80歳を過ぎ、不治の病に侵されながらも、最後の最後まで事業を発展させようとする父の心情に泰二郎は頭が下がった。

 しかし、そんな息子の悲しみは露知らず、当の総一郎はいたって意気軒昂だった。もともとこの旅は妻に先立たれたので、ヨーロッパで金髪の若い花嫁を貰い、南米の未開の大地で新しい事業を起こそうと出発したものだった。

 図らずもベルリンで食道ガンと診断されたが、自分ならまだ5年やそこらは生きられるだろう、と思った。5年という限られた時間の中では、南米で新規事業を起こすよりも日本での事業をさらに進めようと、息子に次々と指示の電報を送っていたのである。

 浅野総一郎は、セメントの国産化、港湾整備、臨海工業地帯開発など多くの事業に取り組んだが、その一生は、この80代での姿が示しているように、一分一秒を無駄にすることなく、明治日本のインフラ整備のために奔走した人生であった。

■2.「新しい世界を創る」

 浅野総一郎は、嘉永元(1848)年に能登半島の東の付け根、現在の富山県氷見市で生まれた。ペリーの黒船がやってきたのは5歳の時。新しい時代が開けようとしていた。

 大きくなったら何になると聞かれると「でっかい海に思うぞんぶん千石船を走らせる大商人になるだっちゃ」と言う。大商人になって、金を儲けてどうする、と聞かれると、「おらは新しい世界を創る。きっと、考えられないような世界が開けるはずじゃ」と答えた。

 総一郎にとっては、金を儲けることは「新しい世界を創る」ための手段であった。総一郎は、その後の長い人生で、まさにこの幼い時からの夢を追い続けていく。

 総一郎はわずか15歳にして、少年実業家として立ち上がった。機(はた)織り機を揃え、奥能登から女工を雇い、縮織(ちじみばた)という織物を作って、近隣の村々に売り歩いた。うまく行き始めたところで、醤油の製造に手を広げるが、資金難に陥って、商売を両方とも畳んだ。

 その後も様々な事業を起こしては失敗する。ついには夜逃げ同然の姿で故郷を逃げ出し、明治4年(1871)年に東京と改名する前の江戸に出た。

「俺には七転び八起きでは足りそうにありやせん」と時にはうなだれる事もあったが、決して諦めずに様々な事業に取り組んでいく姿勢が、後の大実業家としての素質を磨いていった。

■3.世間が必要としている商品を売る

 24歳の総一郎が東京で始めた事業は水売りだった。暑いさなかに御茶ノ水の名水を汲み、砂糖を入れて1杯1銭で売る。これが意外と儲かった。

 次に新興の港町、横浜に移った。味噌などを包む竹の皮を千葉の知人から仕入れる。竹の皮を伸ばす技術者を雇って、横浜中を歩きまわって取引先を開拓した。竹皮商として、みるみるうちに成長していった。

 竹皮商を1年も続けた頃、総一郎は千葉の薪(まき)や炭が安いことに目をつけた。東京の大きな薪炭商で10日ほど見習いとして働かせてもらい、薪炭商売のコツを学んだ。

 竹の皮を運ぶ船に、薪炭を積んで横浜に持ち帰り、県庁に飛び込んで売り込みを図った。役人とて寒ければ火にも当たるし、茶も沸かす。安い仕入先を掴んでいるので、他よりも格安に売ることで、売り込みは成功した。

 その後、総一郎は石炭の販売に絞って、税関や裁判所、病院、さらには横浜を出航する蒸気船へと得意先を広げ、石炭商として繁盛していった。石炭は時代が必要とするエネルギー源であった。

■4.「この世の中に生まれた物で無駄になるものがあるはずがない」

 石炭商として横浜では知らぬ者のないほど成功したが、「新しい世界を創る」ことを目指す総一郎は、これしきのことで満足はしなかった。

 次に目をつけたのは、得意先のガス局から毎日出される廃棄物だった。当時は「骸炭(がいたん)」と呼ばれたコークスが空き地に山積みされていた。また異臭を放つ真っ黒い液体「コールタール」が、ため池にあふれんばかりとなっている。

「いかにももったいない。炭は灰になるまで燃え切るもの、石炭とて同じはず、、、この世の中に生まれた物で無駄になるものがあるはずがない」。そう考えた総一郎は、コークスとコールタールの利用法がないか、聞き歩いた。

 やがて西洋ではコークスを燃料にしている事を知った。そこで、深川のセメント工場にコークスのかけらを持ち込んで頼みこんだ。[1,p49]

 聞けば、西洋の諸工業は、コークスというものを燃料にしているそうです。わが日本ではまだどこもそれを実行していない。欧州やアメリカの人にできて日本人にできないはずはない。

 そこでお願いです。コークス燃料化の実験を深川セメント工場でさせてください。

 深川の官営セメント工場は、設備が完成して、試作をはじめた時だった。以前、煙突からモクモクと黒煙を出している様子を見て、これは石炭の上得意になると飛び込みで売り込んだが、すでに煙の少ない無煙炭を仕入れているから、とニベもなく断られていた。

 諦めずに4度、5度と訪問しているうちに、工場の技師と仲良くなっていた。その技師にコークス燃料化の実験を頼み込んだのである。

■5.コークスとコールタールのリサイクル

 総一郎の粘りと熱心さを買っていた技師は「実験費用をそちらで負担するなら」と了承してくれた。

 寝ずの実験は見事に成功し、ガス局のコークスを非常な安値で引取り、セメント工場で燃料にする、という現代で言う「リサイクル」のプロセスが成立した。ガス局はやっかいもののコークスの始末ができて大喜びであり、またセメント工場も割安の燃料を使えるようになって喜んだ。

 さらに6年ほど後になるが、コールタールの方も利用方法が見つかった。当時、コレラが大流行し、多くの死者が出ていた。衛生局では消毒剤の在庫がなくなり、大慌てとなって、消毒剤の石炭酸の原料としてコールタールに着目した。

 総一郎は使い道が分からないまま、ガス局のコールタールを買い取る契約をしていたので、衛生局から大量に売って欲しいという話が持ち込まれた。これをきっかけに、消毒剤、防腐剤の原料としてコールタールが売れるようになった。

 新しい事業によって、世の中の問題を解決する。総一郎は事業家として、「新しい世界を創る」道を邁進していった。

■6.「セメントの使命は大きい」

 深川セメント工場に出入りするようになって、総一郎は、官営事業というものが実にのんびりしているのに驚いた。職工たちは、工場が儲かろうが損しようが我関せずと、悠長な働きぶりである。

 セメント製造は国家的事業で、設備投資もかなりの額になっているのに、いまだに利益もあがっていないようだ。朝早くから晩遅くまで身を粉にして働く総一郎には、税金を食いつぶしているようにしか見えない。

 当時はセメントはレンガの接着剤として使われる添え物に過ぎなかったが、砂や砂利を混ぜてコンクリートにすれば、燃えない建物ができる。また港を作るには岸壁や防波堤がいるが、それもコンクリートで作る。鉄道にもダムにもコンクリートは必需品である。

 セメントの使命は大きい。それなのに、お国のものだと安心して、皆平気で無駄ばかりしています。こういう状態は国のためになるとは思えません。[1,p62]

 こう説き続けていた総一郎に、3年後の明治14(1881)年、チャンスが訪れた。深川セメント工場が民間に払い下げられることになったのである。三井、三菱が名乗りを上げたが、それぞれ倉庫や別荘にする、という申請である。「セメント工場として続けるのは無理」という情報が陰で流れていたようだ。総一郎はこう訴えた。

セメント工場として国が多額の投資をしたものを無にするなんて、もったいない。どうぞ、私に任せてください。きっと立派に経営してみせますぞ。[1,p70]

■7.「安いセメントを作らなければ、自分が引き受けた意味がない」

 総一郎の熱意が政府にも伝わり、翌年、払い下げの前段階として、経営の実権を任された。さっそく製造から販売促進まで様々な改革を始めた。総一郎の心意気が職工たちにも伝わり、一丸となって、工場が唸りを上げ始めた。これが後に浅野セメントに発展する。

 おりしも皇居造営のためのセメントを納入することとなり、「天子様のお住まいを、燃えないセメントで作るのだ」と身が引き締まった。これまではいくら高くとも政府が買い上げてくれたが、安いセメントを作らなければ、自分が引き受けた意味がない、と意気込んだ。

 明治17(1884)年4月、「宮内庁御用達」の旗を掲げて、皇居西の丸に初荷を納めた。当時の輸入セメントが樽28円であったのを、4円50銭と破格の安値とした。輸入品並の価格で納めれば大儲けだが、総一郎は「税金の大きな節約になる」と大満足であった。

 皇居は明治22(1889)年1月11日に完成し、さっそく明治天皇が赤坂離宮から移り住まわれた。1ヶ月後の2月11日にはアジアで最初の近代憲法が発布される。皇居は近代国家・日本の象徴であった。

 近代国家には、交通・物流の要となる港湾が必要である。しかし、当時の横浜港は小さな漁港でしかなく、外国からの大型蒸気船は、はるか沖に停泊して、艀(はしけ)で船客や貨物を運んでいた。

海が荒れれば、艀は動かせない。

 大型蒸気船が直接、横付けできるよう岸壁を作らなければならない。防波堤も必要だ。岸壁も防波堤もコンクリートで作る。築港のためのセメントは外国産のものしかなかったが、価格が高く、予算がいくらあっても足りない。

 港のない都市など、玄関のない家と同じです。世界の名だたる都市は港湾が完備し、国内外の各地と港や鉄道で直結されているからこその発展を繁栄があるのです。[1,p178]

 総一郎はこう説いて、各地の築港計画を推し進めていった。同時に、築港に使える安価な国産セメントを開発し、大量に供給した。こうして総一郎の努力により、横浜港、大阪港、函館港、小樽港、門司港、東京湾港などが整備されていった。

■8.「国土創生の志士」

 総一郎が築港と同時に説いたのは、河川河口の埋め立てによる工業地の創造である。

 いずれの都市も、重要な商工業地は天然または人工の埋立地に発展を見るものと断定して差し支えありません。河口域の埋立事業は、自然のちからによって埋め立てられるべき性質の土地に人工を施すので、工事は極めて容易であり、工費も安くおさえられます。

都市の発展段階で、河川河口の埋め立てこそ都市形成の過程で辿るべき自然の道であり、国家的利益は莫大なものになるはずです。

 特に目をつけたのは、東京・横浜の間を流れる鶴見川だった。

 東京-横浜間に新しい大地を造りましょう。それにはやはり鶴見川沖が一番です。鶴見川は小さな河川ですが、何度も氾濫をして治水も必要ですし、河口全体は堆積土砂が多く埋立地として最適ですよ。大工場地帯をつくれば、東京、横浜の都市発展のためにも計り知れない利益を生み出すはずです。[1,p190]

 こうして「鶴見沖150万坪埋め立て地」の大事業が始まった。「鶴見埋立組合」を結成して、大正3(1914)年に埋め立てを始め、鉄道を引き、運河を作った。

 埋め立て地は、やがて東京ガス、東京電力、日本石油、日産自動車などの大工場が立ち並ぶ、日本を代表する臨海工業地帯として発展していった。この功績により、総一郎は「日本の臨海工業地帯開発の父」と呼ばれるようになる。

 子供の時に夢見た「新しい世界を創る」ことを、一代の事業を通じて実現したのである。まさに「国土創生の志士」とも呼ぶべき一生であった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. 

b.

1. 新田純子『その男、はかりしれず―日本の近代をつくった男浅野総一郎伝』★★、サンマーク出版、H12


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