見出し画像

JOG(589) ラスト・エンペラーと「偽」満洲国

 日本は最後の清国皇帝を傀儡として、「偽」満洲国をでっちあげたのか?


■1.最後の皇帝の東京裁判での証言■

 清国の最後の皇帝であり、後に満洲国皇帝となった愛新覚
羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)は、東京裁判にソ連側の証
人として召喚され、「満洲国においては自分は日本軍閥の傀
儡(かいらい)に過ぎなかった」と答弁した。

 当時、溥儀はソ連に拘留されており、日本が満洲を侵略した
とするソ連の望むとおりの証言をしたのである。

 満洲事変当時、溥儀が陸相・南次郎に宛てた親書の中で、
満洲国皇帝として復位することを希望すると書いていた事実を
突きつけられても、溥儀はそれを偽造だと撥ねつけた。

 この強弁には弟の溥傑(ふけつ)でさえも憤慨し、日本軍
閥はわれわれを利用したかもしれないが、われわれも彼らを
利用したということを、どうして証言しないのかと、兄のふ
がいなさを嘆いたという。[2,p401]

 溥儀が清国皇帝として北京の紫禁城で成長し、後に生命の危
険が迫って日本公使館に逃げ込むというドラマチックな場面で
常に溥儀の側にいたのはイギリス人教師レジナルド・ジョンス
トンであった。ジョンストンは、その体験を『紫禁城の黄昏』
[1,2]という浩瀚な本にまとめている。この本の日本語訳監修
者の渡部昇一氏は次のように述べている。

__________
『紫禁城の黄昏』が、極東軍事裁判(東京裁判)に証拠書
類として採用されていたら、あのような裁判は成立しなかっ
たであろう。

 こう言うだけで、本書の価値を知るには充分である。も
ちろん、何が何でも日本を悪者に仕立て上げたかった東京
裁判所は、本書を証拠資料として採用せず、却下した。
[1,p8]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■2.清国と満洲■

 さて清国皇帝が満洲に逃れて、そこで再び皇帝となった経緯
を理解するには、清国と満洲との歴史的関係を知っておかなけ
ればならない。

 清国とは、1636年に満洲族の愛新覚羅氏が建国した国である。
満洲族は漢族とは言葉も文字も習俗も異なるまったく別の民族
であった。清国は1644年に北京を攻略して、首都を移した。そ
れ以来、シナ本土は、満洲族による異民族支配の下にあった。
その後シナに革命が起こって清国は滅ぼされ、溥儀は故郷の満
洲に戻って満洲国の皇帝となったのである。

 しかし現在の中国は、溥儀は日本の傀儡であり、彼が復位し
た国を「偽満洲国」などと呼ぶ。さらに「満洲」という地名も、
「東北」と呼び変え、あたかもシナの一部であるかのように見
せかけている。

(注: ジョンストンの著書では、「中国(Chung Kuo)」と
「シナ(China)」を区別して使っているので、弊誌もこれに従っ
ている。「中国」は中華民国、または中華人民共和国の略称で
あり、シナは歴史的に漢民族の住んでいた地域を表す地理的概
念である。満洲は満洲族の住んでいた土地であり、当然、シナ
には含まれない。)

 おおよそ、これが満洲族とその皇帝のたどった歴史であった。
今回は溥儀が満洲に帰還するまでの時期を、ジョンストンの記
述を通じて辿ってみよう。そこから、日本が本当に「悪者」だっ
たのか、も見えてくる。

■3.ロシアから満洲を取り返してやった日本■

 19世紀末、清国は西洋諸国に領土を蚕食されていた。光緒
帝(溥儀の先代)は日本に倣って近代化路線をとり、国勢回復
を目指した。しかし、叔母にあたる西太后がその試みを絶ち、
光緒帝を監禁してしまう。清国は再び無気力な状態に戻った。

__________
 1989年当時、満洲に住んでいた英国の商人たちは、「ま
さに現実のものとなっていくロシアの実質的な満洲併合」
について語っている。英国の宣教師の指導者も「私のみな
らず、私のもとで働くどの宣教師も口をそろえ、満洲とは
名前だけで、ことごとくロシアのものと思われると明言し
た」のである。

 これは、眼前にある今の満洲問題の背景を理解しようと
する者なら、絶対に忘れてはならない事実である。シナの
人々は、満洲の領土からロシア勢力を駆逐するために、い
かなる種類の行動をも、まったく取ろうとはしなかった。

 もし日本が、1904年から1905年にかけての日露戦争で、
ロシア軍と戦い、これを打ち破らなかったならば、遼東半
島のみならず、満洲全土も、そしてその名前までも、今日
のロシアの一部となっていたことは、まったく疑う余地の
ない事実である。[1,p43]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 満洲がソ連のものとなったら、次は朝鮮であり、そして日本
の独立も風前の灯火となる。日本は生き残りをかけてロシアに
決死の戦いを挑んだ。

__________
 日本は、1904年から1905年、満洲本土を戦場とした日露
戦争で勝利した後、その戦争でロシアから勝ち取った権益
や特権は保持したものの、(それらの権益や特権に従属す
る)満洲の東三省は、その領土をロシアにもぎとられた政
府の手に返してやったのである。その政府とは、いうまで
もなく満洲王朝の政府である。 [1,p105]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■4.共和国の中の皇帝■

 1908年8月、光緒帝の弟である醇親王の子で、3歳にもなら
ない溥儀が第12代皇帝として即位した。同年11月14日に
光緒帝が亡くなり、翌日、西太后も没した。死期を悟った西太
后が、光緒帝を毒殺したという説もある。父親の醇親王が摂政
となったが、無知無力な人物であり、再び、政治的停滞の時代
が続いた。

 1911年、辛亥革命が起こり、翌年、中華民国が成立して、孫
文が臨時大統領に就任した。しかし、皇帝は一切の政治的権力
は剥奪されたものの、その地位は保全され、宮廷は維持された。
少年皇帝はそのまま紫禁城での生活を続けたのである。

 王政を倒し、国王を殺害したフランス革命やロシア革命と比
べれば、奇妙な妥協に見えるが、それは漢民族の間でも共和国
政府よりも皇帝への忠誠心がはるかに高かった、という実態を
踏まえたものだろう。

 清朝は漢民族を異民族支配したが、それは圧政とはほど遠かっ
た。宮廷の無気力と官吏の腐敗は甚だしかったが、過去3百年
間に渡って、民衆は自由に暮らしていた。西洋諸国や日本の外
圧がなければ、革命などは必要なかったのである。

 アメリカ人学者ウェルズ・ウィリアムズ博士は、著書『中国
総論』の中で次のように述べている。

__________
 シナ人は個人的に不公平な課税に反抗したり、互いに結
託して不当に厳しい役人を殺害、放逐したりするが、その
一方で、彼らの皇帝への計り知れない畏敬の念ほど、シナ
の政治で注目に値するものはない。[1,p166]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■5.皇帝の家庭教師■

 しかし、共和制が始まっても、国内抗争は止まなかった。
1913(大正2)年には第2革命が起こり、袁世凱が大総統となり、
孫文は日本に亡命した。1915年には袁世凱は皇帝になろうとし
たが、第3革命が勃発し、翌年死去。1917年には帝政復古を図
るクーデターが起こったが失敗。軍閥間の抗争が激しくなった。

 ジョンストンが少年皇帝の「帝師(皇帝の家庭教師)」となっ
たのは1919年だった。溥儀は13歳になっていた。この時点で
の大総統は、袁世凱の友人で、学者や官僚としての立派な経歴
を持つ徐世昌だった。

 徐世昌は、共和制が失敗して民衆が旧体制を支持した場合に
は、溥儀を皇帝とする立憲君主制をとることを考えていた。そ
してその際には、溥儀が立憲君主にふさわしい役割を演じられ
るよう教育したいと考え、英語と初等の西洋の学問の師として
ジョンストンを招いたのである。

__________
 教え子の皇帝と私との関係は、当初から友好的で仲睦ま
じいものであったが、時が経つにつれ、ますますその関係
も深まっていった。・・・

 陛下が最も興味を持ったのは、世界の時事問題(ヴェル
サイユ条約前後のヨーロッパの出来事も含まれる)、地理
と旅行、初歩的な物理科学(天文学も含む)、政治学、英
国憲政史、そして自国シナの政治の舞台で日々繰り広げら
れる劇的な諸事件である。

 私たちは、これといった手順を踏むわけでなく、このよ
うな話題についてシナ語で自由に話をする。したがって当
然のこと、あれこれと話をしているうちに時間がとられ、
英語の学習時間も削られることになる。[2,p31]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 紫禁城に閉じ込められた少年皇帝の目は、中国国内の動乱と
世界の情勢に向けられていた。

■6.満洲、蒙古の独立を望む声■

 この間にも、中国の国内情勢は混乱の度を増していった。

__________
 一般大衆の意見はというと、当時のシナの多くの地域で
人々が共和国に幻滅しきっていたことは間違いない。共和
国はよいことを山ほど約束しておきながら、貧苦以外は、
ほとんど何ももたらさなかったからだ。[2,p57]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ジョンストンはこう述べて、証拠の一つに中国で発行されて
いる欧州人による新聞の次のような記事を紹介している。

__________
 増税したことと官吏が腐敗したことにより、国民は満洲
朝廷の復帰を望むようになっている。満洲朝廷も悪かった
けれども、共和国はその十倍も悪いと人々は思っている。
満洲王朝を恋しがる声は人里離れた辺鄙なところで聞こえ
るだけでなく、他の地方でも満洲朝廷を未だに望んでいる
のである。[1,p58]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 満洲王朝を望む声は、当然ながら、満洲および蒙古(モンゴ
ル)では一層強かった。蒙古族は、満洲族がシナ本土を征服す
る際に協力し、その後、清国に属して、清朝皇帝に忠誠を誓っ
てきた。だから、漢民族が独立して共和国を作っても、それに
従う理由はさらさらなかった。外蒙古はすでに1912年、中華民
国が成立した際に独立を宣言している。

 同時に、日本の後ろ盾を得て、満洲を独立させようという動
きも、ジョンストンの耳に届いていた。

__________
 同年(1919年)の7月20日、私は個人的な情報筋から
次のような報告を受けた。「張作霖は君主制を復古しよう
と企んでいるが、その意図は翌年の秋に奉天で若い皇帝を
帝位につかせ、同時に日本の保護下で満洲を独立国として
宣言することだ」というものだった。[2,p70]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 日露戦争でロシアを駆逐して、満洲を返してくれた日本の力
を借りようという考えは、ごく自然なものだったのだろう。

■7.招かれざる客■

 1924年11月5日、大規模な内乱の中で、反乱軍の一部が紫
禁城に乱入し、溥儀に3時間以内の退去を命じた。溥儀はごく
わずかの身のまわりの物をまとめ、父・醇親王の邸宅に身を寄
せた。ここも反乱軍の監視下にあったため、ジョンストンは危
険だと考えて、皇帝を連れだし、受け入れ先を捜した。

__________
 私はまず日本公使館に向かった。そうしたのは、すべて
の外国公使の中で、日本の公使だけが、皇帝を受け入れて
くれるだけでなく、皇帝に実質的な保護を与えてくれるこ
ともでき、それも喜んでやってくれそうな(私はそう望む
のだが)人物だったからだ。[2,p344]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ジョンストンは日本の芳沢公使に皇帝を保護して欲しいと懇
願した。公使はしばらく考えてた後、その懇願を受け入れた。

 溥儀は数カ月間、日本公使館で保護された後、天津の日本租
界に移り、同地で7年もの亡命生活を送った。この間、日本政
府は溥儀を利用しようという素振りすら見せなかった。

__________
 それどころか、日本や、日本の租借地である満洲の関東
洲に皇帝がいては、日本政府が「ひどく困惑する」ことに
なるという旨を、私を通して、間接的に皇帝に伝えたほど
である。[2,p368]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 日本政府にとって、溥儀は招かれざる客であった。

■8.龍は古き故郷に帰って来た■

 1930(昭和5)年、ジョンストンは溥儀と別れ、イギリスに戻っ
た。翌1931年9月、満洲事変が勃発。ちょうどその直前に、ジョ
ンストンはイギリスの外交関係の任務を得て、中国を再度、訪
問し、天津で溥儀とも再会していた。

__________
 11月13日、上海に戻ってみると、私的な電報で皇帝
が天津を去り、満洲に向かったことを知った。

 シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連
れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。その誘
拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信
じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である。

 ・・・皇帝が誘惑されて満洲に連れ去られる危険から逃
れたいと思えば、とことこと自分の足で歩いて英国汽船に
乗り込めばよいだけの話である。[2,p393]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 1932年、関東軍(大日本帝国陸軍)は満洲国を設立し、溥儀
を「執政(最高行政官)」として招請した。

__________
 皇帝が北へ向かうと、彼の乗った特別列車はあちこちの
地点で停車し、地方官吏やその他の役人たちが主君のとこ
ろへ来て敬意を表するのを許したのである。・・・

 龍は古き故郷に帰って来たのである。[2,p394]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 その後、溥儀は満州国の皇帝となった。満州国は関東軍の庇
護のもとで、五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古
人)のスローガンを掲げ、平和な国土作りに邁進した。戦乱の
続くシナ大陸から毎年100万人以上の民衆が万里の長城を超
えて、豊かで平和な満洲国になだれ込んでいった。[a]
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(239) 満洲 ~ 幻の先進工業国家
 傀儡国家、偽満洲国などと罵倒される満洲国に年間百万人以
上の中国人がなだれ込んだ理由は?
https://note.com/jog_jp/n/n82ec2268dde0

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

  1. R. F. ジョンストン『紫禁城の黄昏 上』★、祥伝社、H17
    同文庫版

  2. R. F. ジョンストン『紫禁城の黄昏 下』★、祥伝社、H17
    同文庫版

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?