JOG(1394) 阿部正弘 ~ 平和的開国のリーダー
阿部正弘率いる幕末の幕閣は、高い外交能力を駆使して、平和的な開国を成し遂げた。
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テーマ『明治の奇跡をもたらした日本人』
近代経済を築いた日本人 ~ 安田善次郎、森村市左衛門、豊田佐吉
安田善次郎(1838~1921)
・安田銀行(現みずほファイナンシャルグループ)、明治安田生命保険、損害保険ジャパン他の創業者
森村市左衛門(1839~1919)
・ノリタケ、TOTO、日本ガイシ、日本特殊陶業他の創業者
豊田佐吉(1867~1930)
・トヨタ自動織機・トヨタ紡織他、創業者。長男・喜一郎がトヨタ自動車創業
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■1.「幕府の高い外交能力は特筆されるべき」
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黒船来航と日本開国について、日本には今なお次のような理解が広く存在している。(1)無能な幕府が、(2)強大なアメリカの軍事的圧力に屈し、(3)極端な不平等条約を結んだとする説である。・・・
しかし、日本側の記録にとどまらず、日米双方の資料を丹念に読み、さらに英米競争の資料や中国情報、オランダ情報などを総合的に読むと、幕府無能無策説・アメリカ軍事圧力説・極端な不平等条約説という三段論法は、歴史の実像と大きくかけ離れていることが分かる。[加藤、p208]
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こう語るのは、加藤祐三・横浜市立大学名誉教授の『幕末外交と開国』です。加藤教授は「歴史の実像」をこう表現しています。
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日米和親条約は一門の大砲も火を噴かず、平和的な交渉によって結ばれた。これが最重要の論点だと私は考える。戦争を伴わない条約を私は「交渉条約」と名づけ、戦争の結果としての「敗戦条約」と対比させている。
・・・アジア近代史から見れば、日米和親条約のような「交渉条約」は稀有の事例である。・・・
日本外交史のなかでは、幕府の高い外交能力は特筆されるべきであろう。[加藤、p210]
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「敗戦条約」の典型例が、清の開国です。清はイギリス商人によるアヘンの密輸を禁じて、イギリスとの間の戦争となり、1842年の南京条約で莫大な賠償金を支払い、香港を奪われました。その結果、それまで清国が朝貢貿易として厳格に管理していた貿易を、イギリスの武力に屈して自由貿易とされたのです。
これに比べれば、我が国の開国が平和的に成し遂げられたことの意義がよく分かります。
■2.25歳で老中首座となった阿部正弘
加藤教授の言う「幕府の高い外交能力」を指揮したのが、老中首座・阿部正弘(あべ・まさひろ)でした。老中首座とは、今日で言えば、総理大臣にあたります。
正弘は、備後国(広島県東部)福山藩第5代藩主・阿部正精(まさきよ)の5男として、文政2(1819)年に生まれました。正精は42歳で老中となり、6年間在職しました。公平廉潔で、第11代将軍家斉(いえなり)の汚れた側近とは合わず、病と称して辞職しました。その後、正精はみずからオラング語を習い、家中に天文学を学ばせています。
家督を継いだ兄・正寧が病弱のため、正弘が第7代藩主を継ぎました。そして、23歳にして老中、25歳にして老中首座と異例の出世をしました。寺社奉行の際に、大奥の一悪女による将軍家乗っ取り事件を見事解決して、12代将軍・家慶(いえよし)に大抜擢されたのです。清新な老中の誕生に、江戸市中も大喜び、神輿(みこし)や提灯(ちょうちん)行列まで繰り出されました。
■3.練達のオランダ外交官ドンクル・クルチウス
嘉永5(1852)年7月、正弘が33歳の時に、新しいオランダ商館長ドンクル・クルチウスが来日し、オランダ国王からの公文書を持参しました。その中に、「アメリカが通商要求のために、艦隊を日本に派遣する」という情報が書かれていました。
オランダ商館長はそれまで200年余り、ずっと民間人でしたが、クルチウスは39歳の練達の外交官でした。今後、アメリカをはじめ、西洋列強が次々と日本に通商を要求してくると読んで、経験豊かな外交官を配置して、先を越されまいとしたのです。
正弘は、長崎奉行を経由してクルチウスから、さらに助言を得ました。その中で、特に参考となったのが、「遠洋航海の蒸気軍艦は大量の石炭を搭載せねばならず、その分、水や食料を減らさざるを得ない。米艦隊の最大目的は大統領の国書を将軍にとどけることで、日本が早期に受理に応じれば、戦争の回避ができる」という点でした。[穂高、p185]
一回目の来航の際に、長崎へ回航せよ、という日本の指示をペリーが断った際に、「下田で受け取ろう」と正弘が決断したのは、この情報からでしょう。
クルチウスは、ペリーに対してはどんな約束も先延ばしが良いとアドバイスしましたが、「日本は開国しなければ世界の潮流に乗れない」とも言いました。いずれは開国と、正弘の腹は決まっていました。しかし、国内には水戸の斉昭(なりあき)公など、口やかましい攘夷派がいます。
どのようにして攘夷派の反発を抑えつつ、かつ、日本の独立を守ったまま開国に持って行くか、そこに正弘の苦心がありました。
■4.着々とうたれた国防強化策
ペリー率いる黒船艦隊は、嘉永6(1853)年6月3日(旧暦)に、浦賀沖に姿を現しました。浦賀奉行所が長崎に回航するよう言いましたが、ペリーは当地でしかるべき高官に大統領からの国書を渡すと言って聞きません。さもないと、兵とともに江戸に上陸して、国書を届ける、とも言います。
翌4日、正弘は幕閣全員に登城を命じ、国書を受理すべきかどうか、議論させました。議論百出、何も決まりません。正弘は泰然と正座して、議論を聞くのみでした。長い議論の末に、ようやく大勢が戦いを避けるための国書受理に傾いた時、正弘は「家慶将軍の英断を仰ごう」と言って、将軍の御前に出ました。それしか、斉昭を抑える術(すべ)はありません。
しかし、正弘から初めて黒船の件を聞いた将軍はショックで倒れてしまいます。正弘はやむなく自身で夕方頃、斉昭邸に行き、深夜まで延々と話す斉昭の持論を聞きました。ところが結論は「いまとなっては、打払いが良いとは言えぬな」。「こんな一言を聞くために、国家存亡の秋(とき)に数時間も費やしたのか」と正弘は腸(はらわた)が煮えくり返る思いをしました。
6月8日、将軍に謁見の資格のある旗本以上の全員に対して、江戸城への総登城を命じ、国書を受けとることを伝えました。国交のない国からの国書を受け取ることは、鎖国後、初めてでした。鎖国の一角が数日で崩れたのです。
同時に正弘は着々と国防強化の手を打っていました。
6月15日には、西洋砲術の権威・江川英龍(ひでたつ)を呼んで、江川が提案していた江戸・品川沖での台場建設を命じました。黒船の大砲の射程4~5キロからして、江戸の街に弾が届かないように11基の台場を構築し、そこに大砲を並べるのです。ペリーの第二次来航までに8つの台場が完成しました。現在、その一部が台場公園として解放されています。
6月19日には、オランダに蒸気軍艦を発注しました。それもアメリカの蒸気船が船側に外輪をつけた遅れた形式のものに対して、スクリュープロペラの最新技術の船です。正弘は一年前にオランダから黒船来航の情報がもたらされた時に、すぐに見積もりを依頼していたのです。これにより、「大船建造の禁」という鎖国のもう一つの柱を撤廃しました。
この最初の納品が「咸臨丸(かんりんまる)」で、この7年後、万延元(1860)年、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が派遣された際、正使一行が乗艦するアメリカ軍艦「ポーハタン」の別船として派米。米士官たちの助けはあったものの、勝海舟や福澤諭吉を乗せ、日本人中心の操船で太平洋を往復しました。
また、もう一つ、正弘は幕府始まって以来の重大な変革を行いました。受け取った国書を広く公開して、「どんな意見も差し支えない。自由に申せ」と呼びかけたのです。幕府はそれまで外様大名にも「御政道」に口出しをさせませんでした。それが一挙に町人まで含めて、自由な言論を認めたのです。
提出された意見書は記録に残るものだけで719通。大名(藩主)とその家臣、幕臣、学者、さらに吉原の遊女屋主人の意見までありました[加藤、p86]。これは五箇条の御誓文の「万機公論に決すべし」とつながっていく、日本の近代民主主義の起点となりました。同時に国民各層に迫り来る列強の実情を知らせ、その対応を「我が事」として考える国民国家への道の始まりでもありました。
■5.ペリーの足下を見る正弘
ペリーは1年後に回答を貰いにくると言い残して去りましたが、第二回の来航は翌嘉永7(1854)年1月16日と、前回の半年後でした。前倒しの理由の一つは、ロシアのプチャーチンがペリーの第一回来航のすぐ後にやってきて、国交要求をしたことでした。ロシアに先を越されたら、ペリーの面目は丸つぶれになります。
しかし、日本側はロシアとは樺太・千島の領土問題があり、まずはアメリカとの穏やかな条約をまとめた後でと、「ぶらかし(引き延ばし)戦術」をとりました。
もう一つの理由は「米国の大統領選だろう」と正弘は読んでいました。クルチウスからも、またジョン万次郎からも、アメリカは大統領が変われば政策ががらりと変わる、と聞いていました。万次郎は土佐の漁師で、漂流中、アメリカの捕鯨船に救われ、そのままアメリカで教育を受けて船長にまでなった人物です[JOG(252)]。
正弘は会見場所に関する折衝で時間を引き延ばしながら、浦賀奉行所に探りを入れさせると、大統領が民主党のピアスに変わり、前大統領の対日戦略も継承されないことが分かりました。前大統領の命令で来航しているペリーも今回の来航で話をまとめなければなりません。
ペリーは「こちらの要望事項が承認されない場合は、近海に50隻、カリフォルニアに50隻の軍艦を用意している」と脅しましたが、オランダが毎年送ってくる国別の軍艦情報では、アメリカはあと5隻を日本近海に回せるのが限界です。ペリーのはったりは日本側に見破られていました。[穂高、p266]
■6.林大学頭のペリー論破
こうして相手側の足元を見た上で、3月8日に横浜村で林復斎・大学頭(だいがくのかみ)が応接掛としてペリーと談判をしました。冒頭、ペリーが「日本は近海の難破船も救助せず、近寄る外国船には発砲し、漂着した外国人は罪人扱いして投獄する」と批判しましたが、林はここ150年ほどの対外関係資料を国別時代別にまとめた人物です。次のように簡単に論破しました。
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貴官の言うことは事実に反することが多い。・・・我が国の人命尊重には世界に誇るべきものがある。
この三百年にわたって太平の時代がつづいたのも、人命尊重のためである。・・・他国の船が我が国近辺で難破した場合、必要な薪水食料に十分の手当てをしてきた。・・・漂着民は手厚く保護し、長崎に護送、オランダカピタンを通じて送還している。[加藤、p147]
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ペリーはやむなく「今後も薪水食料石炭の供与と難破船救助を堅持されるならば結構である」と矛を収めました。続いて「では、なぜ交易の件は承知されないのか」と問います。林はこう反論しました。
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先に貴官は、第一に人命の尊重と船の救助と申された。それが実現すれば貴官の目的は達成されるはずである。交易は人命と関係ないではないか。[加藤、p148]
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ペリーはしばらく別室で考えた末に「交易の件は強いて主張しない」と、あっさり通商要求を取り下げました。ペリーとしては、通商要求で日本側とややこしい議論に入って交渉そのものが破綻したら、おめおめと失敗者として帰国しなければならない、と恐れたのでしょう。
正弘は「ペリーの再来航で開国する。しかし、交易は数年先にする」と、国交と交易を切り離して進める戦略を抱いていました。国交と言っても、薪水食料石炭の供与と難破船救助程度なら、12年前に発した「薪水給与令」を、米国との条約に書き込むだけに過ぎません。交易はアヘン戦争の例もあり、国内の攘夷派との説得に時間がかかります。この戦略通りに和親条約はまとまりました。
■7.最恵国待遇をフル活用して各国と平和的に通商条約締結
その後、日米和親条約をモデルに、同年8月に対イギリス、翌安政元(1855)年2月、対ロシア、安政2(1856)年12月に対オランダと同様の条約が結ばれました。この頃には、アヘン戦争以降、最恵国待遇の考え方が急速に国際法にのしあがっていました。これは日本が他国に提供した好条件は、自国にも展開されるという約束です。
逆に言えば、後発のイギリスやロシアに対して、アメリカと同じ条件なら日本はすぐにでも条約を結べますが、それより良い条件を求めたら、途端に難しくなります。正弘以下、当時の幕閣はこの最新の国際法を理解・活用して、まず米国との間に穏健な和親条約を結んでしまい、他国のそれ以上の要求に蓋をしたのです。
このアプローチは安政5(1858)年6月に結ばれた日米修好通商条約でも成功しました。7月に対オランダ、ロシア、イギリス、9月に対フランスと同様の条約を立て続けに結びました。各国を横並びとして、相互に牽制させるということで、無事に西洋列強との間で、平和的な通商が開かれました。
この頃には正弘は長年の激務から病没していましたが、岩瀬忠震(ただなり)ら、正弘が引き立てた人物が、見事な結果を遺しました。
修好通商条約について、領事裁判権がない、関税自主権がない、という批判がなされていますが、それには事情がありました。まず当時の平和で安全な日本の刑罰は欧米よりもはるかに犯罪者に厳しく(民家に押し入って10両以上を奪えば、死罪・さらし首)、そのまま外国人に適用すれば、国際問題に発展しかねないこと。
また輸入関税は20%と当時の欧米列強が互いに課していた率と同程度の水準でした。しかし、その後の長州の下関戦争などで、5%に下げさせられ、関税自主権を失ったのです。
こうして、正弘のリーダーシップにより、我が国は平和裏に開国と交易開始を実現できました。その他にも、正弘は安政2(1855)年に、長崎海軍伝習所(のちの海軍兵学校)、翌年には蕃書調所(洋学の人材育成、後の東京大学)、築地講武所(西洋式の大砲・小銃訓練、後の陸軍兵学校)と近代日本の躍進を支える人材育成の組織を作り上げました。
明治日本が開国後わずか60余年で、国際連盟理事国という世界の指導的大国に飛躍する、その第一歩が正弘が導いた平和的開国でした。
(文責 伊勢雅臣)
■リンク■
・JOG(252) ジョン万次郎とメリケの恩人
アメリカの捕鯨船に救われた漂流少年は、近代技術を学び、開国間際の日本に帰っていった。
https://note.com/jog_jp/n/n3c938b840cbd
・JOG(1392) 泰平日本と強圧的な黒船艦隊の開国談判
250年の泰平を過ごした江戸日本は、黒船艦隊の強圧的談判によって、ようやく開国した。
https://note.com/jog_jp/n/n38c4315c5e67?magazine_key=ma9132af01a2a
・テーママガジン「迫り来る西洋列強 ~ 幕末日本の対応」
幕末に西洋列強が来襲した時に、江戸幕府とそれに続く明治政府はどのように対応したのでしょうか?
https://note.com/jog_jp/m/ma9132af01a2a
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