JOG(1273) 頭山満翁と大アジア主義 ~ 孫文、蒋介石、汪兆銘と目指した日中提携
西洋列強からのアジア独立を目指して、多くの国の独立志士を助けた義侠の人。
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■1.「これは頭山翁に諮(はか)るに限る」
日露の緊張が高まっていた明治36 (1903)年頃、八代六郎・海軍大佐は焦(あせ)っていました。大佐は海軍きってのロシア通で、日露の兵力を比較研究した結果、半年後には戦力差が大きく開き、5年後には圧倒的な差となり、日本の勝算はなくなると見ていました。
「戦うならば、今しかない、どうしたら政府に決断させることができるだろう?」
八代は、はたと膝を打ち、立ち上がりました。
「これは頭山満(とうやま・みつる)翁に諮(はか)るに限る」
八代は、早速、頭山邸に車を走らせました。
「これは、半年遅いか早いかで、大変な違いになります」
憂色を浮かべて、説明する八代の話をじっと聞いていた頭山翁は、
「まったく、貴君の言うとおりたい」
とうなずきました。
「八代さん、私はちょうどこれから桂首相を訪ねるところだ。首相ば激励してくるけん、ここで待っときやい」
しばらくして帰ってきた頭山翁は、首相の意思が既に開戦に決していたことを伝え、「いよいよやることになった。安心しなさい」と励ましました。
「そうですか、ありがたい」
八代大佐は熱い涙を畳の上にこぼしました。
■2.「どんな身なりの人にも、背筋をピンと伸ばして」
頭山翁は幕末の安政2(1855)年に福岡藩士の子として生まれました。生涯、無位無冠のまま、日本の国家主義団体の草分けとされる玄洋社(げんようしゃ)のリーダーとなり、現在では、いかにも「右翼の黒幕的存在」であるかのように、見なされています。
頭山翁の孫の一人は、幼い頃を思い出して「とにかく、来客が多かった」と語っています。大臣や各国大使から、無名の書生までの来客を、頭山翁の横にちょこんと座って見ていたそうです。
そんな頭山翁が、なぜ首相を訪れて「激励」するような立場についたのでしょうか? 葦津珍彦(あしず・うずひこ)氏は父親が頭山翁と親しくしていた関係で、翁の政治力について、こう観察しています。
しかし、頭山翁はそんな「正確な機密情報」をどこから得ていたのでしょうか?
八代大佐が、頭山翁に相談に来たのも、まさにこの一例です。
■3.「自分ひとりとなっても君を助けることを約束する」
頭山翁の人脈は、アジアの独立志士たちにも広がっていました。朝鮮、中国、フィリピン、インドなどの独立志士が本国を追われると、日本でかくまい、再起の時期まで公私両面で助けるのです。また日本に潜伏中の独立志士の引き渡しを西洋宗主国が日本政府に求めると、頭山翁は要路の人物を動かして、拒絶させました。
多くの独立志士の中でも、頭山翁との結びつきが特に深かったのが、中国の孫文でした。二人が出会ったのは明治31(1898)年、清朝政府打倒の最初の挙兵に失敗した孫文が、横浜に潜伏している時でした。
頭山翁は孫文の「救国愛民の志」にうたれ「君がどんなに絶望的な境遇に立ち至ろうとも、天下を敵として闘うという意志を抱き続ける限り、自分ひとりとなっても君を助けることを約束する」と言い、東京滞在での借家、生活費、活動資金を提供しました。
孫文は1911(明治四十四)年の幸亥革命成功まで、大小実に十一回の失敗を重ねていますが、頭山翁と玄洋社は孫文の身を官憲と暗殺から守り抜き、革命資金を提供し、武装蜂起にも人を出して力添えをしたのです。[JOG(319),JOG(043)]
■4.「今に見ろ、また吹き出物が出てくるよ」
辛亥革命の成功後の翌1912年1月1日、孫文は南京で中華民国の成立を宣言し、初代臨時大総統に就任しました。式典には、頭山翁が国賓級のゲストとして招待されました。しかし、孫文には新政権を支える軍事力も財政基盤もなく、中国全土を統治する人材も欠けていました。各地の軍閥も勢力を保っています。
頭山翁は帰国してから、玄洋社の同志にこう言いました。「今度の革命は膏薬(こうやく、貼り薬)療治だ。本当の切開手術をしないから、今に見ろ、また吹き出物が出てくるよ」[井川、p456]
この予言は現実となっていきます。圧倒的な軍事力、資金力を有する北方軍閥の哀世凱(えんせいがい)が、革命政権との妥協を申し入れてきました。衰世凱は革命党の勢いを巧みに利用して清国皇帝を退位させました。これを受けて、孫文は大総統の地位を衰世凱に譲ります。袁世凱の人となりを知る頭山翁は反対しましたが、孫文は聞き入れませんでした。
その後、孫文は国民党による議院内閣制を志向しますが、袁世凱はその総理大臣候補の人物を暗殺。孫文は打倒袁世凱を目指して各地で挙兵しましたが、武力、資金力で勝る袁世凱の軍に次々と鎮圧されてしまいました。
頭山翁は部下に孫文救出を命じ、清国に派遣しました。亡命者として再び日本にやってきた孫文に対して、日本政府も国民も邪魔者扱いしましたが、頭山翁は再び3年近くの間、生活費も活動費もすべて面倒を見て、袁世凱が再三差し向ける刺客から守り抜きました。
■5.頭山翁と孫文の「大アジア主義」
1924年(大正13)年11月、孫文は上海から神戸にやってきました。大陸での足がかりは作りましたが、地方軍閥が割拠して、統一はまだまだの状態でした。孫文は日本に立ち寄って、ぜひ頭山翁の助言を得たいと考えたのです。
二人は神戸のオリエンタルホテルで8年ぶりの再会を果たしました。孫文は頭山翁の前で気をつけの姿勢をとり、その手を握って、「この度は、やむを得ざる都合で当地までわざわざご足労を願い、恐縮千万です。どうぞ今回だけはお赦(ゆる)しを願います」と頭を下げました。
二人は早速会談に入り、孫文は国際情勢に関する自らの観測を述べ、頭山翁は日中の提携を強調しました。これが二人の最後の会見となりました。
3日後、孫文は神戸で、世に言う「大アジア講演」を行いました。日本が日露戦争に勝利したことで、アジア諸国で独立運動が燃え広がり、独立運動家たちにとって日本は希望の国、理想の国となった、と語りました。しかし、アジアの復興には、日本と中国の連携が不可欠であるのに、それがまだできていないと訴え、次のような言葉で演説を締めくくりました。
孫文は、先頭を切って近代化を実現した日本が「列強の一つ」とうぬぼれることなく、アジア大団結の中核として弱小国を助けてほしいと訴えたのでした。日本国民への警句を残して孫文は日本を去りました。その時、孫文の身体はすでに病魔に冒されており、この3ヶ月後に亡くなります。
一方、頭山翁は、会見の2週間後に、こう語っています。
二人は同じく日中連携を軸として西洋列強からアジアを守る「大アジア主義」で、一致していたのです。
■6.「友好関係を回復するためには一生の力をささげる所存」
孫文の後継者となった蒋介石も、日本に留学していた頃から、頭山翁に私淑(ししゅく、ひそかに尊敬し学ぶこと)していました。1926(大正15)年、国民革命軍総司令官に就任した蒋介石は、孫文の悲願だった「中国統一」を目指して北伐を始めます。
しかし国民党内の内紛から、翌年9月、下野して日本にやってきた蒋介石は40日間の日本滞在期間の半分を頭山翁の側で過ごし、大アジア主義の精神を熱心に学びました。そして、頭山翁の激励によって、再び「中国統一」への志を新たにします。
1937(昭和12)年7月、支那事変が始まりました。頭山翁はこう語っています。
日本と蒋介石を戦わせて漁夫の利を得ようとするスターリンや毛沢東の野望に気がついていたような口ぶりです。[JOG(263)]
翁は日中の和平を諦めませんでした。中国革命を支援してきた部下たちに、国民党の要人たちと連絡を取らせていました。頭山翁自身が、国民政府の首相に相当する行政院院長孔祥熙にあてた次の電文記録が残っています。
■7.最後のご奉公
日本が孫文のもう一人の後継者・汪兆銘に親日政権を作らせたことで、日本と蒋介石の関係は一段と難しくなりました。その汪兆銘も頭山翁を「慈父のごとく」慕っていました。汪兆銘は東京に来た際には、かならず頭山邸を訪れていました。
頭山翁は、汪兆銘が蒋介石と対立していては、決して日中和平も実現しないと考えていました。そして「汪も蒋も孫の門弟、中国を思う心は一つだ」と周囲のものに語っていました。
その気持ちが汪兆銘にも伝わったのでしょう。汪兆銘は頭山翁あてに「将来、日中全面和平の実現を控え、もし自分が政府主席であることが邪魔になるならば、この地位に拘泥しない」という趣旨の自筆自署の文書を提出しています。
昭和16(1941)年9月24日、事変収拾と対米開戦回避に苦心されていた皇族・東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)陸軍大将に、頭山翁は呼び出されました。
頭山翁は顔色一つ変えずに、即答しました。
そして、門弟の広田弘毅元首相などに矢継ぎ早に指示して、準備を進めさせました。11月中旬には蒋介石が署名入りの写真を使者に持たせて、伝言を寄せました。翁の来訪を待っている、というメッセージでしょう。
しかし、この件は、その直前に成立した東条英機内閣によって潰されました。日米開戦後も、頭山翁は機会を待っていましたが、昭和19(1944)年10月、ついに89歳の生涯を閉じました。
頭山翁の目指した大アジア主義による日中提携は、それから80年近く経った現在、日本と台湾の間では実現しました。しかし、中国大陸は「いつ飛び出して来るか分からぬ怪物」の一つ、すなわち中国共産党に支配されたままです。
頭山翁が支援した東南アジアからインドに至る地域はすべて独立国となり、日本の友邦となっています。あとは中国共産党に支配された大陸をいかに解放するか、我々はまだまだ息の長い戦いを続けなければならないのです。
(文責:伊勢雅臣)
■おたより
■伊勢雅臣
歴史を動かすのは、人物の思いであること、それが今の多くの歴史教科書に欠けている視点ですね。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・葦津珍彦『大アジア主義と頭山満』★★、葦津事務所、H20
・井川聡『頭山満伝―ただ一人で千万人に抗した男』★★、潮書房光人新社、H27
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