見出し画像

JOG(454)「大航海時代」の原動力 ~ すべては「欲得」だけだった

 「知識欲と探検への情熱」や「キリスト教布教の志」が「大航海時代」をもたらしたのか?


■転送歓迎■ H18.07.16 ■ 34,179 Copies ■ 2,136,723 Views■

■1.「全ては欲得だけだった」■

「大航海時代」とは、いかにも勇壮な響きを持つ。15世紀、ポルトガルはアフリカ南端の喜望峰を回ってインドに到達し、さらにマレー半島を回って、マカオに拠点を作った。負けじと、スペインはジェノバ商人クリストファー・コロンブスの提案を採用し、西回りにインドに到達しようと大西洋を横断し、アメリカ大陸を発見する。この後、オランダ、イギリス、フランスとヨーロッパ諸国の世界進出が続いた。
「大航海時代」にヨーロッパ人が全世界に進出して行った本来の動機は「知識欲と探検への情熱」であった、と語られる。あるいは、「欧州の優れた文明を他の未開民族に普及するために海を渡った」と言う人もいる。「キリスト教を布教して、異教徒の魂を救済するためだった」という説もある。
 これらは「美しいお伽噺」であって、「全ては欲得だけだった」と言い切るのが、『驕れる白人と闘うための日本近代史』[1]を書いた松原久子氏である。
 この本はもともと日本人向けに日本語で書かれた本ではない。原著は『宇宙船 日本』というタイトルで、ヨーロッパ人のためにドイツ語で書かれた。そのヨーロッパ人に向かって、彼等の「大航海時代」は、「全ては欲得だけだった」と言い切るのである。
 氏の『言挙げせよ日本』は、弊誌で紹介したことがある[a]。その「言挙げ」を自ら実践したのが、この『驕れる白人と闘うための日本近代史』なのである。この中で松原氏は、白人が自らの歴史を飾るために考え出した様々な「美しいお伽噺」を木っ端微塵に粉砕している。本号ではそのいくつかを見てみよう。

■2.ヨーロッパの輸出商品「奴隷」■

 当時、酷寒の地ヨーロッパは貧しかった。そこにアラブ商人が、オリエントの豊かな商品を持ち込んできた。砂糖や香辛料、絹織物、宝石、珊瑚、真珠、陶磁器、、、豊かなオリエントの物産は、ヨーロッパの上流階級のあこがれだった。
 しかし、交易のためにヨーロッパがアラブ商人に提供できるものは限られていた。羊毛、皮革、毛皮、蜜蝋などである。不足分は、金・銀で支払うしかなかった。莫大な金銀がアラブ商人の懐に流れ、ヨーロッパの金銀の貯蔵量は減少していった。
 金銀の払底を防ぐために、ヨーロッパからアラブ商人に特別な商品が提供された。白人奴隷である。
 中世初期に、北部のヴァイキングがロシアの川筋に沿って南下してきた時、彼らは、ポーランドからロシアのウラル山脈にいたる平原で、スラブ人の男女を捕らえては、アルメニアの黒海沿岸で、胡椒、砂糖、絹織物、宝石と交換した。奴隷は毛皮に次いで主要な商品だった。ここからスラブが「奴隷(スレイブ)」の語源となったのである。

■3.アラブ人に対する激しい怒り■

 アラブ商人と取引をしていたヴェネチアやジェノバの商人たちは、クロアチアやペロポンネソス半島、クレタ島など、東地中海沿岸の住民をさらっては、奴隷としてシリアやレバノンで売りさばいた。奴隷は、そこからダマスカスやバグダッドの奴隷市場に運ばれた。
 ヨーロッパ内部での戦争に負けた都市の住民も奴隷として売られた。1501年、フランス軍とスペイン軍が南イタリアを攻撃した際には、占領されたカプアの男は全員殺され、女はローマの奴隷市場で売買された。
 1550年頃、地中海のアフリカ大陸北岸にあるチェニスの街には、約3万人のヨーロッパ人奴隷がいたことが記録に残っている。
 しかし、ヨーロッパ人はアラブ商人相手に、大人しく奴隷輸出で満足しているような人間ではなかった。

__________
 今日、ヨーロッパ人のダイナミズムとよくいわれるもの は、元を正せば彼らの絶望と怒りの産物である。彼等が渇 望している香辛料、絹、染料、薬、陶器、そしてインドや 遠いアジアの国々の宝石や珊瑚と引き替えに、彼らから金 ・銀、そして白い肌の女性を奪い取ったアラブ人に対する 激しい怒りの産物なのである。[1,p127]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■4.アラブ商人を駆逐したポルトガル■

__________
 こうしてヨーロッパ人のインド進出の先鞭をつけたポル トガル人は、アフリカの海岸に沿って拠点を次々と確保し ていった。コンゴの河口からアンゴラと喜望峰を経て東ア フリカ海岸へと進み、そこで彼らは、何世代にもわたって 商売を続けていたアラブ商人たちと遭遇した。
 ヨーロッパの歴史書は、当時インドでヨーロッパ人が成 功したのは、それまでその地域を支配していたアラブの商 人たちが自ら手を引いたからであると、美しい言葉でさら りと触れている。もちろんアラブ商人たちは自ら手を引く ことなどしなかったので、ヨーロッパ人はアラブの商船を 見つければ、予告することなく攻撃し、沈めた。
 こういったことを可能にした決定的な要因は、ヨーロッ パ艦隊の圧倒的な軍事力と乗組員たちの確固たる目的意識 であった。・・・ポルトガル人は20年ほどでインド洋西 側のアラブの商船をほとんど壊滅させ、攻撃して来たトル コの全艦隊を打ち破ってしまった。[1,p122]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 オリエントとの交易を独占してきたアラブ商人をポルトガルが駆逐すると、スペイン、オランダ、イギリス、フランスも負けじと参入してきた。最大の成功者はイギリスで、海の大国スペインを破り、ポルトガルの商船狩りをし、オランダ船を見つけ次第、攻撃した。
「大航海時代」とは、「欲得」に駆られたヨーロッパ諸国が、世界中を「戦争の海」にした時代だったのである。

■5.「欲得」がもたらした産業革命■

 アラブ商人を駆逐すると、ヨーロッパでは以前より格安の値段で、オリエントの商品を入手できるようになった。綿織物や絹織物、砂糖、香辛料、宝石などが大量に流れ込んだ。彼らの消費は増大の一途を辿った。
 ここでヨーロッパ人は新しい問題に直面する。イギリスでは、インドの綿織物の輸入増加によって、毛織物が売れなくなり、1700年頃、手織物業者たちは、インドからの綿製品の輸入を禁止する法律を議会で無理やりに通してしまった。
 同時に、綿製品をなんとか国産化しようと、木綿を織る技術の習得が盛んになり、それに成功すると、今度は紡織機の開発が始まった。決定的な成功は1760年前後のジェームズ・ワットによる蒸気機関の発明だった。石炭を焚いた蒸気機関が、十数台の紡績機を同時に動かせるようになったのである。
 10年ほどのうちに、イギリスで最初の本格的な紡績工場が誕生した。こうして始まったのが産業革命であるが、これも「大航海時代」と同様、「欲得」がもたらしたものであった。

■6.大英帝国の原動力■

 しかし、イギリス人の欲得は、綿織物を国産化するだけでは満足させられなかった。インド・ムガール帝国の内部抗争に乗じて、イギリスは、フランスと競争しながら、それぞれの土候を買収し、勢力を広げていった。そして1757年のプラッシーの戦いでフランスを破り、ベンガル地方を獲得した。これがイギリスのインド支配の始まりとなった。
 肥沃な北部インドのベンガルとビハールを支配したイギリスの東インド会社は、この地の農民にイギリス輸出用以外の綿花を栽培することを禁じた。会社の命令を聞かない農民は追放され、その土地は「合法的」に没収された。そのために、かつて楽園のような田園風景と謳われたベンガルやビハールの広大な土地は、10年足らずの間に単なる綿畑とされてしまった。自由で豊かな農民たちは日雇い労働者に身を落とした。
 次に東インド会社がやったことは、何百年の伝統を持つ全インドの繊維産業の手工業をつぶすことだった。これは一石二鳥の効果を上げた。繊維産業がつぶされた事で原綿の需要が激減し、イギリスはほとんど無限の供給を受けられるようになった。同時に、インドはイギリスの繊維製品を購入する一大市場となったのである。こうして植民地から安価に原料を調達し、商品を売りつけるという地球規模の搾取システムが構築された。
 また新大陸アメリカで綿花が栽培できるようになると、アフリカから大量の奴隷をアメリカに連れ込み、綿花を栽培させて、それをイギリスに持ち込み、綿布にしてアフリカに売る、という「大西洋の三角貿易システム」も作り上げた。[b]
 数千万人規模の奴隷をアフリカから調達し、アメリカの農園で使う、などという、日本人から見れば気の遠くなるような壮大なアイデアは、前例のない独創ではない。奴隷輸出とはヨーロッパ人にとっては、なじみの深い手段だったのである。
 こうした地球規模の搾取システムを作り上げた大英帝国の原動力は、まさに「欲得」であった。

■7.アヘン戦争■

 イギリスの発明したもう一つの三角貿易が、中国の茶を買うために、インドに工業製品を売り、その金で購ったインドのアヘンを中国に売りつけるというものであった。[c]
 多くの欧米人は、中国がかつてアヘン中毒の国であった、と記憶しているが、それが彼らの先祖の仕業であったことは、都合良く忘れている。それどころか、中国がアヘンの悪習に終止符を打つことができたのは、自分たちのお陰だと信じ込んでいる人が少なくない。
 1664年前後に、東インド会社はイギリスの国王チャールス2世に茶を贈った。国王は茶の風味と気分を高揚させる効果に魅了され、お茶はやがて宮廷や議会、そして富裕階級のお気に入りの飲み物となった。1720年頃には、英国のお茶の需要は、絹と木綿を抜くほどになった。
 そして、またかつてと同じ問題が再浮上した。イギリスには中国が欲しがる商品は何もなかったので、銀で支払わなければならなかった。中国向けに特別に作らせた儒教や道教の奉納画、あるいは、ポルノ画集を売ろうとしたがうまく行かなかった。
 そこで東インド会社は、インドで栽培させたアヘンを、ポルノと同様の非合法販売ルートを通じ、中国の役人たちを買収して、売り込むようにした。これは爆発的な成功を収め、東インド会社は200年におよぶ中国貿易で初めて黒字を達成した。
 しかし、その成功も長くは続かなかった。アヘン販売の成功を嗅ぎつけたフランスやアメリカの商人たちが、続々と参入してきたからである。
 一方、中毒患者の激増に手を焼いた清朝政府は、アヘン輸入を禁じたが、これがきっかけとなって、イギリスとのアヘン戦争が始まった。戦争に負けた清国は、多額の賠償金と香港を奪われた。そして、イギリスは中国に自由にアヘンを輸出する権利を得た。

■8.「先住民をタスマニア島の狼のように撃ち殺した」■

 インドや中国のように、住民が多く、ある程度の経済規模を持っている土地では、ヨーロッパ人は原材料の供給基地、および彼らの商品の輸出先として、グローバルな搾取システムに組み込んだ。しかし、北米やオーストラリアなど、原住民が搾取の対象にもならない土地では、どうしたのか。

__________
 アメリカの子供たちは学校で、1620年に180トンのメ イフラワー号に乗って、イギリスから男女合わせてほぼ百 人の清教徒がアメリカにやってきたことを教えられる。清 教徒たちは、11月の半ばに今日のマサチューセッツ近郊 に上陸した。すぐに最初の冬を過ごすことになったが、大 陸の北東に位置するこの地域は、雪が非常に多く、冬が厳 しい。もし先住民たちが持てる力の全てを傾けて彼らを助 けてくれなかったなら、彼らはこの冬を生き延びることは できなかったであろうと、彼ら自身の記録が伝えている。
 それなのに、その半世代の後には、この地方にはもう一 人の先住民も住んでいなかった。病死し、あるいは撲殺さ れ、射殺され、また追い払われたのだった。[1,p130]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 オーストラリアでも同様の事が起こった。松原氏は、オーストラリア大陸発見200年の式典の際に、現地の友人が、次のような発言をした事を紹介している。

__________
 この大陸に入植してきた開拓民たちは、先住民をタスマ ニア島の狼のように撃ち殺したのです。毎日曜日、牧師は 開拓民たちに、オーストラリアの先住民は神が自分の姿に 似せて造ったのではなく、悪魔の姿に似せて造ったのだと 説教したのです。そのことを考えると心が痛むのです。 [1,p130]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■9.黒船のもたらした不安■

 1853年、ペリー率いるアメリカ艦隊が江戸湾に入り、通商の要求をした。「太平の眠りを覚ます蒸気船たった4杯で夜も眠れず」という当時の狂歌を引いて、幕府の慌てぶりをからかう向きがある。
 今日から見れば、当時の日本人は、欧米諸国と通商関係を持つことをなぜ不安に思ったのか、理解できないだろう。しかし、それは幕末の日本人が、上述の欧米諸国の世界進出の実態を、今日の我々以上に正確に捉えていたからである。
 通商関係を持つ、ということを、我々は双方に利益をもたらす、良きものという先入観で捉えている。しかし、インドが植民地にされたのも、まずいくつかの沿岸都市に白人が現れ、慇懃に「アラブ人に代わって、インドから何かを買わせていただきたい」という申し入れをした処から始まった。そして、それからちょうど300年経って、白人は全インドを手中に収めたのだった。その一貫した欲得への執念には、驚かざるを得ない。
 通商関係を足がかりにインドは全国土を奪われ、中国はアヘン禁輸を口実に戦争を仕掛けられ、半植民地状態に陥った。こうした白人の「欲得」の牙が日本に向かわない、と考える方が愚かだろう。
 黒船を迎えた我が先人たちの不安をあざ笑うような人々は、「大航海時代」というようなヨーロッパ人自身の創作による「美しいお伽噺」に目くらましをされているのである。 (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(172) 言挙げの方法~松原久子氏に学ぶ
 国益貫徹の冷たさを美しく包む言語を豊かに発達させてきた
国際社会を生き抜く方法とは。
b. JOG(090) 戦争の海の近代世界システム
 海洋アジアの物産にあこがれて、ヨーロッパと日本に近代文
明が勃興した。
c. JOG(173) アヘン戦争~林則徐はなぜ敗れたのか?
 世界の中心たる大清帝国が、「ケシ粒のような小国」と戦っ
て負けるとは誰が予想したろう。
d. JOG(149) 黒船と白旗
 ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食の近代世界シ
ステムへの屈服を要求していた

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

  1. 松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』★★、文藝春秋、H17

//////////// おたより ////////////
■「『大航海時代』の原動力」に寄せられたおたより
純夫さんより ヨーロッパの都市に行くと、どこでも街の真ん中に教会あるいは市役所の建物があって、そこには広大な広場があります。街の中心に広大な広場があるというのは日本の街作りではほとんどないことであり、何も知らないと、ヨーロッパの方が都市計画において日本よりはるかに優れていると思ったりする訳です。
 ところが、この広場は何のために作られたかというと、奴隷市場のためなんですね。大量の奴隷を1か所に集めるとなると、それなりの広さが必要になる訳です。
 これは、4年前にプラハに行ったときに、4時間市内を歩いて回る英語の観光ツアーでの説明で、宇宙時計のある旧市役所広場がなぜ作られたかという解説でした。加えて、本文の記事ではアラブ商人と言うことが書かれていましたが、チェコ人のガイド氏の説明によると、プラハで奴隷市場を開いていたのは、スペインからやって来たユダヤ人ということでした。
 そこで、歴史をひもとくと、スペインはアラブ人に支配されていましたが、その時はユダヤ人も共存していました。ところが、キリスト教徒が戦いに勝ってアラブ人からスペインを取り戻すと、同時にユダヤ人を追い出しにかかりました。その追い出されたユダヤ人がプラハ辺りまで流れて来たと考えられます。
 ヨーロッパ人のユダヤ人に対する反感は、記事にあるアラブ人に対するものと同様のものがあるのかもしれません。

■ 編集長・伊勢雅臣より
 ヨーロッパの街の広場が奴隷市場にも使われていたとは、知りませんでした。ただし、当然、他の用途にも使われていたそうです。
© 平成18年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

いいなと思ったら応援しよう!