JOG(678) 名将・山口多聞
この名将が真珠湾攻撃の指揮をとっていたら、大東亜戦争は別の展開になっていたろう。
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■1.「第2撃準備完了」
昭和16(1941)年12月8日午前3時22分、「トラトラトラ(われ奇襲に成功せり)」の無電が入ってきた。日本海軍の機動部隊6隻の空母から発進した第1次攻撃隊の爆撃機・雷撃機140機、零戦43機が、真珠湾に停泊中の太平洋艦隊に襲いかかった。この日を期して猛訓練を積んできたパイロットたちの腕はめざましく、魚雷や爆弾などを次々に敵艦に命中させた。
3時間ほど後に発進した第2次攻撃隊の167機も、同様の攻撃を続け、戦艦5隻を沈没させるなど、壊滅的な打撃を与えた。
午前9時22分、攻撃隊の収容を終えると、南雲忠一・司令長官は攻撃の成果は十分に達したと判断して、再攻撃を命ずることなく、北に戻っていった。
空母「蒼龍」「飛龍」からなる第2航空戦隊を率いる山口多聞司令官は第2撃の準備が終わると、南雲のいる旗艦「赤城」に向かって「第2撃準備完了」の信号を送った。しかし、何の返事もなかった。
2カ月まえの図上演習の時以来、山口は何度も南雲に、修理施設、燃料施設などへの反復攻撃を意見具申した。しかし、南雲は一切受け入れず、攻撃目標は敵艦隊だけで、一撃後さっと逃げるという案を作成して、山本連合艦隊司令長官にも承認させている。
■2.「僕はエライことを引き受けてしまった」
南雲は真珠湾攻撃に出撃した際、「僕はエライことを引き受けてしまった。僕がもう少し気を強くして、きっぱり断ればよかったと思うが、一体出るには出たがうまくいくかしら」と言っていたと伝えられている。[1,p125]
米太平洋艦隊撃滅よりも、そこそこの戦果を上げて、機動部隊を無事帰すことに主眼があったようだ。
機動部隊引き上げの最中にも、敵の通信から空母エンタープライズがオアフ島付近にいることが判明した。しかし、それを攻撃しようと気もさらさらなく、ひたすら逃げ帰った。山口は、これでは悔いを千載に残す、と肩を落とした。
12月9日、機動部隊は連合艦隊からミッドウェー島を空襲し、再使用できないように徹底的に破壊せよ、という命令を受けた。ミッドウェー島は、米軍のハワイ防衛の前進基地である。しかし、南雲はまたも、荒天が続き、燃料補給ができないという理由で、攻撃を実施しようとはしなかった。
山口は「ミッドウェー攻撃を実施すべきである」と、南雲に強硬に意見具申した。現在地は荒天でも、13百キロも離れたミッドウェーに近づけば、天候もよくなり、攻撃できるかもしれない。しかし、南雲は聞かなかった。
■3.「真珠湾の被害は、はるかに軽微だった」
米太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将は、戦後に出版した『太平洋海戦史』の中で、「アメリカ側の観点からみた場合、真珠湾の惨敗は、その当初に思われたほどには大きくなく、想像されたよりもはるかに軽微であった」と述べている。
沈没した2隻の旧式戦艦はもともと速力が遅く、使い物にならなかった。それ以外の旧式戦艦は、浮揚後に改装され、主に陸上への砲撃に使われた。そして米海軍は一切被害を受けなかった空母を中心とした戦法をとる。
機械工場や修理施設を破壊していれば、沈没した戦艦の浮揚・改装もできず、また無傷であった空母の保守もできなくなって、その行動を大きく制限できたはずだった。さらに450万バレルの燃料タンクを破壊していれば、米艦隊は何ヶ月も麻痺していたはずである。また「空母が危難をまぬがれた」のは、幸運だけでなく、エンタープライズの位置を知りながら、南雲が攻撃をしなかったことによる。
そして、もっとも悔やまれるのは、ミッドウェー島の攻撃をしなかったことである。この6カ月後、日本海軍はミッドウェー攻撃を仕掛けて、大敗を喫し、これが太平洋での海戦の転換点になるのである。
■4.「帰還ニ努力セヨ」
山口は深い戦略眼を持った敢闘精神にあふれる武人だったが、同時に真の武人らしく、深い人間性を備えていた。それを伝えるエピソードは多いが、一つだけ紹介しておこう。
12月15日、連合艦隊から、今度はウェーキ島の敵兵力を撃破し、南洋部隊による占領を援助すべしとの命令が下った。南雲は自らは参加せず、山口少将の第2航空戦隊の2空母を中心にウェーキ島に向かわせた。
山口は、3日間の攻撃で作戦を成功させたが、若い下士官2名の乗った艦上爆撃機1機が母艦「蒼龍」の位置を見失い、夕暮れになっても帰ってこなかった。山口は迷った飛行機への目印として、黒煙を上げさせた。
夜となり、燃料切れまであと10分に迫った頃、無電が届いた。「戦死ナリヤ」。このまま墜落死すれば、戦死でなく事故死とされるのではないかと心配しているようであった。
山口は無線封止の命令を破って、返電させた。「名誉アル戦死ナレドモ帰還ニ努力セヨ」。続いて「蒼龍」は誘導電波を出し、探照灯で上空を照射し始めた。なんとしても二人を救おうというのである。「忝(かたじけ)ナシ」との無電が返ってきた。
爆撃機はようやく姿を見せたが、燃料が切れたのか、海上に不時着し、白い水柱が立った。駆逐艦が急行し、搭乗員二人を救助した。
二人は「蒼龍」に帰還してから、「戦死ナリヤ」と問い合わせたのはどういう理由か、と聞かれた。「はい、戦死でないと靖国神社にゆけないのではないかと、二人とも心配だったのであります。申し訳ありませんでした」と答えた。
山口の目から涙があふれそうになった。
■5.「今度は、帰ってこられんかも知れんよ」
真珠湾攻撃の次の大規模作戦として構想されたのが、ミッドウェー攻略作戦であった。前述のようにミッドウェー島は米軍のハワイ防衛の重要拠点であり、ここを攻撃することで、真珠湾攻撃で討ちもらした米空母部隊をおびきよせ、撃滅しようとしたのである。
この頃、真珠湾以降の勝利に奢った海軍軍人の一部、たとえば南雲司令長官なども、米機動部隊とぶつかれば、「鎧袖一触である」と言い切っていた。
そのために機密保持もずさんで、横須賀、呉、佐世保など海軍の拠点では誰でもが、「今度はM(ミッドウェー)だそうですね」ともっぱらの噂だった。これでは、米海軍にも筒抜けになっていただろう。
ミッドウェーに出かけるとき、山口は妻の孝子に「今度は、敵の知っている所へ行くから、帰ってこられんかも知れんよ」と言った。
■6.運命の6分間
5月27日、南雲中将率いる機動部隊がミッドウェーに向かった。空母4隻、戦艦11隻、巡洋艦16隻などからなり、米太平洋艦隊の全軍をはるかに凌駕する大軍であった。
一方、米軍は日本艦隊の進行計画をすでに暗号解読で掴んでおり、空母3隻、巡洋艦8隻などをミッドウェーに向かわせた。日本海軍の潜水艦8隻はミッドウェーとハワイの間に散開して米艦隊を待ち伏せるはずであったが、実際に到着したのは、米艦隊が通過した3日以上も後であった。米軍がこんなに早く来るはずがないという日本側の油断があった。
6月4日、日本側の108機がミッドウェー基地を空襲。待ち構えていた米軍から迎撃機が出動したが、日本側はこれを撃滅して、基地施設に大打撃を与えた。しかし、日本の空母の位置を知った米機動部隊は、即座に35機を発進させた。
偵察機から「敵ハ巡洋艦5隻、駆逐艦5隻ナリ」との報告が入った。南雲は空母はいないようだとホッとしたが、山口は「そんな編成はないはずだ。かならず空母がいる。これ以上ぐずぐずはできない」として、現在の基地攻撃用の爆弾装備のままで良いから、攻撃隊を直ちに発進させるよう南雲に進言したが、聞き入られなかった。
そこに米軍機が急降下爆撃で襲いかかった。わずか6分間に、「赤城」「加賀」「蒼龍」が炎上した。闘志にあふれる米軍と、慢心した日本海軍の差が、ここにあらわれた。そして、この6分間が大東亜戦争の分岐点となった。
■7.「飛龍」の反撃
幸い山口が搭乗する空母「飛龍」はやや離れていて、無事だった。山口は「本艦は全力をあげて敵空母攻撃に向かう」と通報し、すぐに第一次攻撃隊24機を発進させた。同時に、敵との距離をつめて、反復攻撃を可能とするために、艦を全速で敵に向かわせた。
第一次攻撃隊は、敵戦闘機の迎撃と猛烈な対空砲火をかいくぐって、空母ヨークタウンに爆弾6発を命中させて、大火災を起こさせた。しかし、日本側も24機中16機が撃ち落とされた。
山口は続いて第2次攻撃隊として残る全機15機を発進させた。第2次攻撃隊は敵約30機の迎撃をかわしながら、敵空母に魚雷2発を命中させて炎上させた。これで空母2隻をしとめたと思ったが、実は、鎮火していたヨークタウンを別の空母と誤認していたのであった。
第1次、2次の攻撃隊で無事に戻ってきたのは、15機のみだった。山口はこれらをすべて投入して第3次攻撃を考えたが、搭乗員の疲労が激しいため、発進時刻を1時間半遅らせて、休息を取らせた。半日以上も食事をとらずに働き続けている艦内にも配食を命じた。
そこに敵機24機が襲いかかり、4発の爆弾を命中させた。艦内の魚雷や爆弾があちこちで誘爆した。飛龍は航行不能状態に陥った。
■8.「いい月だなあ。艦長、二人で月を愛でながら語ろうか」
6月6日午前零時、雲もなく満天の星が降るようであった。東の空には下限の月があがっている。火災はだぶおさまったが、「飛龍」の命運もこれまでと、加来艦長は総員退去の命令を下した。
沈む艦に残るという加来艦長に、山口は「僕も残るよ」と前から決心していたように答えた。
この時点で生存していた全乗組員の半分ほどの6百数十名が甲板に集められた。加来艦長の訓示のあと、山口司令官が台の上に立った。いつもの温顔で、まるでくつろいだ宴会の席で挨拶するような様子だった。その内容も簡単で、「今回の貴い経験を生かし、大東亜戦争をきっと勝ち抜いてくれ」というものであった。
その後、山口の音頭で、西方の宮城に向かい、「天皇陛下万歳」を三唱した。ラッパで「君が代」が鳴り渡り、艦橋後方のマストから全員挙手敬礼のうちに軍艦旗と将旗(山口司令官の所在を示す)が降ろされた。乗員の間から、むせび泣きが沸き起こった。
司令部幕僚と「飛龍」幹部は、山口と加来に、今まで通り我々を指揮して戦って貰いたいと懇請した。しかし二人は「多数の部下を死なせ、戦いを全うしえず、陛下の艦を沈めることはまことに申し訳ないことで、艦と運命を共にするのが、とるべき道だ」と聞かなかった。
説得を断念した幕僚・幹部たちは、自分たちもお供をする、と述べたが、山口は「君らは私の身代わりに生還して、大東亜戦争をかならず勝ち抜いてくれ」と言い、退去を厳命した。山口と加来は幹部一同と水杯を交わした。
山口が東の空を仰いでいった。「いい月だなあ。艦長、二人で月を愛でながら語ろうか」
「じつにいい月ですね。私は月のとても良い晩に生まれたそうですが、今日もまたいい月の下で、しかもこんないい死に場所を得て、幸せです。」 加来はにこにこしていた。
■9.「日本海軍は人事で敗れた」
最後の連合艦隊司令長官・小沢治三郎少将は、戦後、大東亜戦争の敗因について「日本海軍は人事で敗れた」と語っている。[1,p311]
確かに山口多聞少将が真珠湾攻撃の指揮をとっていたら、修理施設、石油タンクを破壊し、その後の米艦隊の行動を麻痺させていたであろう。その帰途に、ミッドウェー島の米軍基地を完全破壊していれば、そもそもその後のミッドウェー攻略作戦も必要なかったはずである。
日本海軍は戦力的には米国太平洋艦隊を上回っていたのだが、山口多聞少将のような名将を生かす人事ができずに敗北したのである。
「亡国の悲劇とは、人材が欠乏するから起こるのではなく、人材はいてもそれを使いこなすメカニズムが機能しなくなるから起こるのだ」とは塩野七生の言(『日本人へ 国家と歴史編』)であるが、日本海軍の敗因もまさしくこれであった。
そして、この事は迷走を続ける現代の日本についても言えるのではないだろうか。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(168)
対独参戦のために、日本を追いつめて真珠湾を攻撃させようというシナリオの原作者が見つかった。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 生出寿『烈将 山口多聞』★★、H1
■「名将・山口多聞」に寄せられたおたより
■編集長・伊勢雅臣より
「先人の苦労・犠牲」を思うところから、国の未来が開けます。
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