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JOG(621) 中島知久平 ~ 「航空立国」の志

富強な白人帝国主義国から日本を護るには、世界一の航空戦力を持つしかない。


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■1.「あがらないぞえ中島飛行機」■

群馬県は利根川の河川敷に作られた滑走路の片隅に、傘のお化けのような骨組みがうずくまっていた。「あれが中島の飛行機いうもんか?」「けったいな飛行機じゃなあ、発動機が前についとるやないか」見物人たちはそんな事を言いあっていた。

 飛行士が操縦席に乗り込むと、プロペラが回り始めた。飛行機は地上滑走で滑走路の端まで行き、風上である北方の赤城山の方に機首を向けた。轟音とともに、飛行機は走り始め、全力滑走に移ると、機体がふわりと浮いた。「飛んだぞ!」見物人の間から拍手が起こった。

 ふいに機が左に傾斜した。北の赤城山から吹いていた風が、東風に変わったのだ。まだ浮力が十分についていない状態で横風を受けた飛行機は、そのまま横転墜落してしまった。  

 一台の車が大破した飛行機に近づき、車から降りた人物が「おーい。佐藤君、大丈夫か」と声をかけた。幸い、飛行士の佐藤は軽傷であった。「いやあ、無事でなにより。機はまたできる。わしも一号機で成功しようとは思わんじゃった」

 この人物が日本で最初に民間会社で飛行機開発に取り組んだ中島知久平であった。知久平は、その後、2号機、3号機と取り組んだが、いずれも失敗に終わった。

 当時は第一次大戦の末期で、日本は未曾有の好景気のもと、大インフレと米価高騰に見舞われていた。「札はだぶつく、お米はあがる、あがらないぞえ中島飛行機」という落首が流行り、これを耳にした知久平は苦笑して、「まあ、見ておれ」と設計図とのにらめっこを続けた。

■2.「満洲で馬賊になって、ロシアをやっつけてやる」■

 中島知久平は、明治17(1884)年、群馬県新田郡の富裕な農家に生まれ、当時の常として愛国少年として育った。ロシアの三国干渉に憤慨して、いずれ満洲に渡って馬賊になり、これを日本大陸義勇軍に発展させて、ロシアをやっつけてやると決心した。遠大な志を立て、それに向かって邁進するという知久平の性格は、この頃から現れていた。

 満洲の馬賊になるには、まず軍人になるのが近道だと考えて、明治33(1900)年、16歳になった知久平は東京に出て、独学で陸軍士官学校を目指した。「百姓の子はそんなに勉強しなくともよい」と祖母が反対したため、2年分の生活費を家の金庫から無断で拝借して、上京したのである。「お金は何倍にでもして必ず返します」という置き手紙を置いて。

 東京での猛勉強の最中、志望を海軍機関学校に変えた。馬賊になるには陸軍の方が良いが、満洲に集結するロシアの大軍を討つには、兵員を運ぶ海軍が要ると意見されたからである。

 明治36(1903)年、無事に海軍機関学校に合格。反対していた祖母も、「この中島の家は、元々新田義貞にもゆかりのある土地柄の家じゃ。海軍将校の卵が出たとは、お国にご奉公できて、忠臣の義貞公もお喜びであろう」と相好を崩した。

■3.「よし、次は飛行機だ」■

 しかし、知久平が在学中に、日露戦争が勃発し、日本の陸軍がロシアの大軍を満洲の地から駆逐してしまった。「もう、おれが馬賊になる出番はない」と思った知久平は、不屈のアイデアマンとしてすぐ次の夢を見いだした。「よし、次は飛行機だ。おれの手で日本の空に飛行機をとばして見せるのだ」

 その2年前、1903(明治36)年末に、アメリカのライト兄弟が人類で最初の動力飛行に成功していた。彼らの目標はアメリカ陸軍に飛行機を採用してもらう事だった。フランスやドイツでも、軍事利用を目的として飛行機の開発競争が始まっていた。

 日本海海戦の歴史的な勝利で、大艦巨砲主義が盛り上がっていたが、知久平はその先のことを考えていた。次の相手はアメリカだと言われているが、アメリカ相手に建艦競争をしても敵うはずがない。しかし1隻8百万円の戦艦も、1機5万円の飛行機20機が魚雷攻撃で沈めてしまえば、差し引き7百万の得となる。

級友達は「人間が乗るのがやっとの飛行機が、どうして何百キロもある魚雷を運ぶことができるんだ」と笑ったが、知久平は「おれがその魚雷を落とす飛行機を作ってやる」と答えた。

■4.飛行機の国産を目指す■

 明治40(1907)年、海軍機関学校を卒業した知久平は、少尉候補生として巡洋艦「明石」での実務練習についた。その後、様々な艦への異動を命ぜられながら、少尉、中尉と順調に昇進していったが、その間にも飛行機の研究は怠らなかった。

 明治43(1910)年、ロンドンで開催される日英博覧会の視察に巡洋艦「生駒」が派遣されることとなり、ちょうど「生駒」に勤務していた知久平は、この時とばかり、フランスの航空界を視察することを上官に願い出た。この頃は、フランスが飛行機開発の最先進国であり、アンリ・フェルマンが4時間6分で184キロを飛んで、速力と距離の世界記録を更新していた。

 艦長は知久平の願いを聞き入れ、マルセーユ入港後、行方不明として視察に行き、帰国途上で復艦せよ、という大胆な許可を出した。知久平も大喜びで「行方不明」となり、フランスの飛行機会社の機体工場や発動機工場を見学して、無事、マルセーユで帰艦した。

 帰国して間もない頃、陸軍の徳川好敏大尉がフランスから輸入した飛行機で、3.2キロを飛び、これが日本最初の飛行と認められた。知久平の飛行機熱に対して、同僚たちが「徳川大尉が飛んだと言っても、フランスの飛行機だ。日本が自分で飛行機を製造するには、まだ相当の時日がかかる」というと、知久平はこう答えた。

 日本が日清戦争で清国の海軍を破った時、国産の軍艦はほとんどなかった。しかし、日本海海戦では国産の「明石」「須磨」が活躍し、その後、戦艦に近い巡洋艦として、「筑波」「生駒」も呉の海軍工廠で建造されるようになった。我が国の造船能力は日進月歩で、これは飛行機にも当然言えると思う。日本海軍にも国産の飛行機が採用され、勇壮な戦隊を組んで、敵の戦艦戦隊を空から攻撃する日もそう遠くないとおれは思う。[1,p93]

■5.飛行機開発に着手■

 こうした言動から知久平の名は、海軍で有名になっていった。一中尉の分際で、飛行機で戦艦を雷撃するなどと夢のようなことをいう飛行機狂としてだったが。

 しかし、陸海軍の中で飛行機に対する関心は少しづつ高まり、知久平は29歳にして、海軍機の国産を目指して新設された飛行機造修工場の主任に任命された。知久平は大正2(1913)年7月、海軍最初の国産水上飛行機を完成させ、自身で試験飛行を行った。

 翌年、第一次大戦が勃発すると、中国・青島のドイツ軍要塞攻撃に、飛行機からの爆撃を試してみようということで、4機の水上機を運搬船に乗せて近海まで運び、クレーンで海面に降ろして発進させた。4機は49回出撃して、約200発の爆弾を落とし、うち6発は確実に要塞に命中したということで、初戦としてはまずまずの成果を得られた。

 その後も知久平は飛行機の開発を続けた。特に、今までの飛行機のほとんどがエンジンを後部につけた方式であった所を、知久平は前部につけた牽引式を考案し、その後の航空界はこの方式が主流になっていった。知久平の先見の明が窺われる。

■6.民間事業として飛行機開発を進める■

 知久平はさらに重い魚雷を運ぶために二つのエンジンを搭載した双発水上機を開発し、また魚雷落射機も設計したが、上層部に却下された。知久平がことある毎に、大艦巨砲主義を批判していたので、不愉快に思う高官も多かったようだ。

 こうした事から、知久平は海軍を去って、民間の事業として飛行機製作を進めたいと考えるようになった。大正6(1917)年12月、知久平は30代なかばの若さで、予備役編入の願いを出し、海軍を去った。『退官の辞』と題した挨拶状には、こんな一節があった。

 我が目標は一貫して国防の安成にありて、野に下るといえども官にあると真の意義において何等変わるところなし。吾人が国家のため最善の努力を振るい、諸兄の友情恩誼に応え得るの日はむしろ今日以降にあり。[1,p164]

 知久平は海軍で志を共にする数人の技術者と一緒に、郷里の群馬県太田の利根川の河川敷を借りて飛行場を作り、そこで飛行機の設計に取り組んだ。資金は自らの海軍の退職金と、知久平の心意気に感じた富豪からの出資のみだった。

 当初、飛行機研究所と名乗っていたが、大正7(1918)年には、会社名を中島飛行機製作所とした。知久平は、工場の2階の小さな部屋に寝起きし、酒も煙草もやらず、炊事婦の作る粗末な食事だけで、朝から晩まで設計に打ち込んだ。

 こうして出来上がった試作機は冒頭に紹介したように、失敗続きで、地元の人々からも「あがらないぞえ中島飛行機」と揶揄されたのだが、ついに大正8(1919)円2月、4号機が高度100メートルで飛行場の上を一周し、見事に着陸を果たした。

この成功によって、知久平は陸軍航空部から一挙に20機の初注文を受けて、一息つくことができた。

■7.世界最大の飛行機メーカー■

 大正9(1920)年は中島飛行機製作所にとって飛躍の年だった。三井物産との資本提携が成立し、資金面の心配はなくなった。「ようし、日本一の飛行機会社になったるぞ!」と胸を叩いたところに、陸軍から大正9年度分として、100機もの追加注文が入った。海軍も、水上機を30機買いたいと言ってきた。

 大正10(1921)年、ワシントン軍縮条約が成立して、当分の間、建艦競争は中止となり、飛行機の方は制限されてなかったので、逆に集中的な開発が続けられた。中島飛行機は次々と名機の開発に成功し、大量の飛行機を陸海軍に納め続けた。

 陸軍最初の国産戦闘機として採用された91式戦闘機は、その後、97式、「隼」などにつながっていく。97式はノモンハン事件の最初の6日間で、ソ連の最新鋭戦闘機175機を撃墜し、日本の飛行機の性能を世界に示した。[a]

 海軍でも国産最初の90式艦上戦闘機を初めとして、65機種を開発した。大東亜戦争勃発と共に真珠湾の米大艦隊を壊滅させて、世界の航空常識を覆した「零戦」は、原設計は三菱であるが、エンジンは中島製であり、また生産された合計1万余機のうち、6千5百機ほどは中島で作られたのである。[b]

 中島飛行機製作所は、戦時中の昭和19(1944)年には、中規模以上の工場だけでも100カ所を超え、人員数は約26万人という世界最大の飛行機メーカーとなっていた。

 飛行機でお国のために尽くす、という知久平の志は、立派に実現されたと言える。

■8.「航空立国」■

 昭和5(1930)年、知久平は衆議院選挙に立候補し、群馬県で最高得票で当選した。「飛行機の中島」と言えば、群馬県で知らない者はいなかったので、選挙運動をする必要もなかった。

 知久平は政治の世界で出世しようという野心はなかった。米英など富強な白人帝国主義国から日本を護るには、大艦巨砲主義ではなく、あくまで航空戦力による国防でなければならないと訴えることが、政治家となった動機であった。そして、陸海軍から空軍を独立させ、世界一の航空戦力を持つ「航空立国」を訴えた。

 知久平の政治家としての活動のハイライトは、昭和17年(1942)秋に構想した『必勝戦策』であろう。これは後に「富岳」と命名される超大型重爆撃機を開発し、これをドイツ占領下のフランスから出撃させて、米国東部に集中する製鉄所、アルミ工場などを全滅させようという雄大な構想だった。すでに知久平の耳には、米国で開発されつつあるB29の情報が届いており、これで日本が爆撃される前に、米本土を叩こうと考えたのだった。

 軍部は、そんな夢のような飛行機は実現不可能ではないかと疑ったが、知久平は重役会議の席上、次のように言って、自社での開発を進めさせた。

 中島飛行機は金儲けのためにあるのではない。国家のために存在しているのだ。軍のワカラズ屋どもが何をいおうとも、国が危機に直面している時、安閑として祖国の国難を傍観していることができるか!

 ・・・そのために会社は大損してもかまわぬ。[1,p389]

 知久平は東条首相を直接説得して、「富岳」の開発をスタートさせた。しかし、この計画は新しくできた軍需省の航空兵器総局長官・遠藤三郎中将によって中止させられてしまった。遠藤中将は、飛行機を一機でも多く必要とする前線のために、現有機の増産を優先させたのである。

■9.「心理的な敗北感をいつまでも持たない」■

 知久平は戦後まもない昭和24(1949)年10月、享年66歳で世を去ったが、その直前、次のような言葉を残していた。

 日本は今は焼け野原である。・・・しかし、私は日本の復興は意外に早いと思う。日本の民族は優秀である。特にその科学的技術において、決して欧米のエンジニアに劣る者ではない。必ずや近い将来に日本の産業は復活する。

 何よりも大切なことは、精神的にまいらないことだ。・・・もし対等の資源を与えられたならば、少なくとも中島飛行機の技術はアメリカには負けていなかったと思う。したがって、負けたからだめだ、というような心理的な敗北感をいつまでも持たないで、早く自分の気持ちを復興させることだ。[1,p411]

 知久平の遺言に励まされた如く、その後、日本の産業は奇跡的な復興を果たし、その後の高度成長時代には、いくつもの分野でアメリカを凌駕していった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a.

b. JOG(475) 零戦 ~ 世界の航空常識を覆した3日間
1941年12月8日からの3日間に、世界の航空史は新しい時代を迎えた。
【リンク工事中】

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■「中島知久平 ~ 『航空立国』の志」に寄せられたおたより

樵さんより

「心理的な敗北感をいつまでも持たないで、早く自分の気持ちを復興させることだ。」正に、今の日本に日本人に必要な言葉だと鳥肌が立ちました。

 戦後半世紀以上が過ぎ、経済的には復活したにも拘らず、今の日本の世界との関わる時の姿勢、国内の様々な問題を考えると、戦前の日本人の伝統精神が戦後からまだ復興していないと思います。

 家族のため、社会のため、国のために自分の人生を使う。
 現在は偏向された個人主義、権利の主張が善とされています。その結果が、今の国内の悲しくなる事件や外国から軽んじられる状況を招いたと思います。

 精神的な復興が必要だと強く感じました。

■ 編集長・伊勢雅臣より

経済的には復興しましたが、精神的な復興はこれからですね。

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