JOG(1068) 泣き虫将軍・本間雅晴と健気なる妻
マニラでの戦争犯罪裁判の被告とされた夫を救うべく、妻はフィリピンに飛び、法廷に立った。
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■1.「わたくし、マニラにまいります」
本間雅晴・予備役中将の妻・富士子のもとに、コーダー大尉が訪れたのは、フィリピンはマニラで昭和21(1946)年1月に始まった本間中将の「戦争犯罪」裁判の直前だった。夫にかけられた嫌疑はバターン半島で降伏した米軍・フィリピン軍約7万6千人もの捕虜の「バターン死の行進」の責任者というものだった。
これはこれだけの捕虜を収容所に移動させるに際して、食糧・水やトラックが絶対的に不足しており、炎熱下を長時間歩かせたため、かつマラリアの蔓延もあって、多くの犠牲者が出た事件である。途中、虐殺や虐待もあったとして、米軍は「真珠湾を忘れるな」の次に「バターン死の行進を忘れるな」と戦争宣伝に使っていた。
すでに予備役に入っていた本間は、終戦後すぐに占領軍から出頭命令を受けた。「バターン死の行進」という言葉もその時、初めて聞いた。そしてその「裁判」のためにマニラに運ばれた。弁護団のコーダー大尉らは、本間の人柄について妻に法廷で証言させ、米国世論の緩和を狙っていたのである。
コーダー大尉は富士子に本間からの手紙を見せた。そこには懐かしい筆跡で、「私は今更未練が出るし、御身も私の死刑宣告の場面に列席したくもなかろう」と来訪をとめていた。しかし、その手紙を読み終えると、富士子はきっぱりと答えた。
■2.「カーネル(大佐)ホンマは諸国の武官の中で抜群だ」
本間は二度も英国駐在を経験した陸軍きっての国際派だった。身長1メートル76センチの長身で、体格も良い本間はイギリス人に交じってもひけをとらない、と富士子はひそかに誇りに思っていた。
本間はイギリスの軍人たちと親交を結び、陸軍情報部のダウネイ極東課長は「識見、判断、語学力など、カーネル(大佐)ホンマは諸国の武官の中で抜群だ」と言っていた。
富士子の方もそんな本間の妻として、三十歳前にも関わらず、「日本陸軍を代表する夫にふさわしい妻でなければならぬ」と、英語力の不足など意に介さず、気さくにイギリス婦人たちの間に入っていき、「ミセス・ホンマは十分に信頼できる、心の温かい人」と評価されていた。
と言って、本間はイギリスべったりの人間ではなかった。インド駐在も3年間経験し、多くの独立の志士とも語り合った。その中には後のネール首相もいた。香港、シンガポール、マレーシアなどイギリスの植民地に関しても、「いつまでもこんなことが許されるはずはない。これらの国は近い将来、必ず独立して自国の旗を立てるようになる」と語っていた。
■3.「教育家か学者にでもなった方がよかった」
本間の英国駐在時代の部下は「本間さんは軍人として立派な能力を発揮した人だが、何か他の職業……教育家か学者にでもなった方がよかったのではないかと思います。あの純粋な、思いやりの深い人が、軍閥時代に軍人であったことは、痛ましい」と語っている。
大変に涙もろい性格で、あわれな子供を主人公にした映画などを見ると、ハンカチに顔をあてて、とめどもなく涙を流した。戦場でも有能な指揮官ぶりを発揮したが、慰霊祭で弔辞を読む際には、いつも涙で声をつまらせ立往生した。
また部下思いで、演習で疲れ切った新兵たちの間に入っては、ねぎらいや励ましの言葉をかけ、若い将校たちが家に訪ねてくると、どんな時間でも一家をあげて歓迎した。本間は酒を飲まないが、勧め上手で、青年将校たちは大いに飲み食いし、歌い踊った。
その一方で、本間は親分・子分的な関係は一切、作らなかった。陸軍内の皇道派、統制派のどちらにも属さなかった。「軍人勅諭」に詠われた「政治に拘(かかわら)す只々(ただ)一途に己(おの)か本分の忠節を守り」を文字通りに生きた人物であった。二二六事件に際しても、第一報が入った時から反乱軍に対し「討伐すべし」という厳然たる態度をとった。
昭和13(1938)年7月、中将に昇進した本間は、第27師団長に任ぜられ、支那事変を戦うこととなった。その前にドイツを仲介とした和平工作、トラウトマン工作に失敗していたこともあり、本間は蒋介石を追い詰めず、今こそ和平工作を進めるべきだと説いたが、賛同者はほとんどいなかった。
中国奥地に逃げる蒋介石を追うという任務を与えられると、それがいかに自己の信念に反していようと、全力をあげてその任務を完遂するのが、本間の軍人としての生き様だった。そして、立派な軍功をあげた。それは中国との和平をさらに遠ざけたのである。
■4.「神に向かって語ろうとしていたような気がします」
本間のこういう性格を、米軍の6人の弁護団はすぐに見抜いた。弁護団長のスキーン少佐は、「本間将軍は極悪非道なモンスターだと聞かされ、そう信じていたが、今では彼の人格を心から尊敬しています。将軍に罪はない。彼の潔白を証明するため、われわれはできるだけの努力をします」と言って、朝から晩まで資料集めや現地調査をした。
富士子が証言台に立ったのは、弁護側証人出廷の最終日、2月7日だった。夏帯姿の富士子は一歩一歩踏みしめるように、しっかりした足どりで証人台へ進んだ。質問は、大東亜戦争勃発に対する本間の批判、東条英機との確執、三度試みて失敗した支那事変終結工作、米英両国に対する本間の見解と続いた。はじめは震えていた富士子の声も、やがて一語一語力がこもった。
富士子は被告席の夫も、裁判官も、弁護団にも目を向けず、高い窓を見上げながら証言を続けた。そこには南国の青く澄みきった空が見えた。後に富士子は、この時のことを思い出して、「裁判官や検事にわかってもらおうというより、神に向かって、本間がどんな人間かを語ろうとしていたような気がします」と述べている。[1, 5617]
■5.「わたくしは今もなお本間雅晴の妻であることを誇りに思っております」
最後に、「あなたの目にうつる本間中将はどのような男性か、それを述べて下さい」と聞かれた。
毅然と言い放った富士子の言葉が英語に翻訳されて伝えられると、法廷のあちこちからすすり泣きの声が起こった。検事の中にも、ハンカチで目を拭う人がいた。
富士子の証言の初めからハンカチに顔を埋めていた本間は、この頃には肩を震わせて嗚咽していた。
翌日の地元の新聞はいっせいに、富士子への好意に満ちた記事を大きく掲載した。フィリピンの反日感情がきわめて強い時代に、異例の扱いだった。紙面に並べられた二葉の写真、胸を張って証言台に立つ富士子と、ハンカチに顔を埋めて泣く本間の写真は、泣き虫将軍と健気なる妻という夫婦の性格を端的に物語っていた。
■6."I shall return"(私は戻ってくる)
2月9日、弁護団の論述が始められた。オットー大尉は、ある検察側証人の「幅50フィート、長さ75フィートの倉庫に6千人が閉じ込められた」という証言に対して、人間が一人で立つには1平方フィートを必要とするから、3,750平方フィートに6千人が閉じ込められたことなどが、あり得ないことは、簡単な算術で分かる、などと、次々と証言の虚偽を暴いた。
コーダー大尉は「裁判官諸官も、もし被告と同じ境遇にあったなら、被告と全く同じことをやったであろう」と指摘した。最後に立ったスキーン少佐は30分の弁論で「弁護団は全員深く被告を信ずる。できればみな証人台に立って訊問を受けたいくらいである」と、無罪を主張した。
一方、ミーキ検事長は長時間をかけて捕虜に対する残虐行為を述べ、被告はすべてを知ってやらせたものであり、ことごとく被告の責任である、「ゆえに死刑を求刑する」と結んだ。
5人の裁判官、検事、弁護士まで、すべてマッカーサーの部下であった。「裁判長ドノバン少将の憎悪に充ちた顔、これで公正な裁判の不可能が分かる」と本間は日記に書いている。それでも弁護団が、ここまで本間を信じたのは、その人格力のゆえだろう。しかし、検事や裁判官には、なんとしても本間を有罪にしなければならない事情があった。
マッカーサーはバターン半島の要塞に籠っていたが、本間中将率いる日本軍の攻撃に、捕えられる恐れがあった。フィリピン戦線は大東亜戦争での米陸軍と日本陸軍との最初の戦闘であった。その劈頭の戦いで米軍司令官が捕えられでもしたら、米国の威信は地に落ち、米国民全体への士気に影響すると、ルーズベルト大統領は恐れ、マッカーサーにバターンからの脱出を命じた。
マッカーサーは魚雷艇で脱出した。有り体に言えば、部下を置き去りにした敵前逃亡であった。マッカーサーは自身の名声を保つために、"I shall return"(私は戻ってくる)との芝居がかったセリフを残したが、その心中ではなんとしてもこの恥辱は注がなければならない、と決心していたようだ。本間を被告とするこの裁判は、マッカーサーの復讐心を満たすためのものだった。
■7.最後の面談
9日の夜、富士子は本間との最後の面談を許された。ウイリアム憲兵大尉は「時間は30分」とぶっきら棒に言い残し、部屋から出て行った。二人は共に楽しく過ごしたロンドン時代を語り合った。30分はとうに過ぎ、やがてたっぷり2時間がたった頃、大尉が歌を歌いながら戻ってきた。「つい、飲みすぎて」と戸口の憲兵に声をかけた。
富士子を婦人宿舎に送り届けた後、ウィリアムはさらに酒を煽り、泣き声でわめいた。
2月11日、銃殺刑の判決が下った。判決の承認をマッカーサーに求めるために、裁判の膨大な記録が、3月初めに東京に送られた。
3月11日、富士子はマッカーサーとの会見を許された。マッカーサーは「生活に不自由なことがあれば、何でも援助したい」と申し出たが、富士子は丁重に礼を述べて辞退した。翌日の新聞は、次のような富士子の談話を載せている。
■8.「榮ゆく御国の末を疑はず」
銃殺刑の執行は4月2日の晩だった。夕食に本間はビールを所望し、ビーフステーキとサンドウィッチを食べた。コーヒーを飲んだあと、手洗いに立って「米軍のビールとコーヒーはすべて返上してきたぞ」と冗談まで口にした。
刑場では、「大元帥陛下万歳、大日本帝国万歳」と三唱した後、日本の方角に向かって最敬礼した。米兵が黒い頭巾をかぶせようとすると、「目隠しはよしてくれ」と頼んだが、許されなかった。本間の脈をとった軍医は、最後まで72と平常通りであることに驚いた。死刑執行官の「用意!」の声に続いて、本間は黒い頭巾の中から、「さあ、来い」と気迫の籠った声を出した。
本間が富士子に送った手紙の中には、次の辞世の一首が含まれていた。
「榮ゆく御国の末を疑わず」の信念は、弁護してくれた日本人証人たちに送った感謝の手紙にも表れている。
確かに経済的には新しい日本が生まれた。しかし、本間と富士子が示した気骨を我々は受け継いでいるかと自問すれば、まだ「混迷時代を濾過した」とは、とても言えない状況に胸が痛む。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』、育鵬社、H28
アマゾン「日本史一般」カテゴリー1位 総合61位(H28/9/13調べ)
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■伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』に寄せられたアマゾン・カスタマー・レビュー
■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 角田房子『いっさい夢にござ候 - 本間雅晴中将伝』★★★、中公文庫、H27
2.今日出海『悲劇の将軍―山下奉文・本間雅晴』★★、中公文庫、S63