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JOG(418) 福島安正・陸軍少佐のユーラシア単騎横断

迫り来るロシアとの戦争に備えるべく、安正は1万4千キロの大偵察旅行を敢行した。


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■1.日本男児の意地■

 明治25(1892)年2月、ユーラシア単騎横断の計画がアメリカの新聞にまで報道されると、福島安正・陸軍少佐は苦笑した。できるだけ隠密に行動しようとしていたのだが、と。ドイツ皇帝・ウィルヘルム2世からも赤鷲三等勲章を授与され、謁見を賜った。出発前からすでに国際的な英雄となっていた。

 2月11日、紀元節の朝10時、日本公使館前に集まった多くの在留邦人が日の丸を振り、万歳を叫ぶなかを安正は騎馬で出発した。

 馬上で安正は一つの決心を固めていた。日本国のためにユーラシア大陸横断という冒険に見せかけた偵察旅行を成功させることはもちろん重要だが、当時の白人優先、ヨーロッパ優越の観念に一矢報いよう。日本男児としての意地であった。

成敗生死、共に天にあり。武運拙くんば、以て屍(かばね)を胡野(こや、異国の野)に曝(さら)さんのみ

 出発の際に詠んだ詩である。

■2.情報将校としての道■

 福島安正は嘉永(1852)年、長野・松本藩士の家に生まれ、大学南校(後の東大)を経て、明治7(1874)年、英語力を買われて陸軍省に採用された。西南戦争では長崎に集結した列強の艦隊の動向を探り、異国の乗組員と酒を酌み交わしながら、特にどこかの国が西郷軍を支援する事はないだろう、という貴重な情報を官軍の征討参軍・山県有朋にもたらした。ここから安正は情報将校としての道を歩み出した。

 明治12(1879)年、安正は約5ヶ月の北支、内蒙古の探索に出発した。天津では苦力(クーリー、出稼ぎ労働者)に化けて、中国語をマスターし、北京では漢方薬売りに扮して紫禁城内に出入りし、清国の政情や軍備状況を調べた。帰国後、64巻にわたる『隣邦兵備略』をまとめて、山県を感動させた。

 その後、朝鮮をめぐって日本と清国の間の緊張が高まると、明治15(1882)年からは、北京の日本公使館付武官として、情報収集を続けた。

 その結果、得られた結論をこうだった。清国の宮廷は宦官の巣窟となり、役人は腐敗して民衆を搾取し、軍備もさして強力ではない。欧州では清国を「眠れる獅子」などと警戒しているが、いまや獅子ではなく豚であり、眠りは醒めることはあるまい、と。こうして完成したのが65巻におよぶ『清国兵制類集』で、これが10年後に、総理・伊藤博文が対清開戦を決意した時に大いに役立った。

■3.「いずれ白人の帝国主義は日本にも及ぶだろう」■

 2年余りの滞在で、清国の調査を終えた安正は東京に戻り、今度は東洋を侵略しつつある西洋列強の調査に取りかかった。手始めはビルマとインドであった。英国軍が激戦の果てに占領したばかりのビルマの首都ラングーンは砲撃で破壊されており、「イギリスの奴、ここでもひどいことをしていやがる」と安正は悲憤を感じた。いずれ白人の帝国主義は日本にも及ぶだろう。その時こそ、日本人が東洋の盟主として、有色人種のために戦わなければならないのだ、その為の偵察旅行だぞ、と安正は決意を新たにした。

 約半年の偵察旅行の結果、安正は次のような結論を得た。

 英国を初めとする欧州列強の東洋蚕食(さんしょく)は、すでに相当エスカレートしており、このままでは中国もインド(のように植民地)化される恐れがある。そうなれば次にくるのは我が国に対する圧力である。そしてロシアは中央アジア侵略の手を、アフガニスタンに伸ばして、英国と衝突しかかっているが、この方面で英国が譲歩するとは思えない(大事なインドを護るため)ので、次にくるのは満洲、朝鮮を経て太平洋に出て、不凍港を入手しようという算段しかありますまい。

 安正はその後のロシアの動きを正確に予測していたのである。この報告も含めて、参謀本部では国防の重要性を訴える献言書を明治天皇に提出した所、天皇も同感で、明治20年3月には「海防に関する詔書」が下され、特に建艦費として宮廷費の1割以上を下賜された。これをきっかけに海軍の増強が進んだ。安正の情報がなければ、日本海海戦での大勝利もあり得なかったかもしれない。

■4.シベリア鉄道■ 

 明治20(1887)年3月、安正はドイツ公使館付武官としてベルリン駐在を命ぜられた。この頃には安正の情報将校としての実績は揺るぎないものになっていた。ベルリン駐在の目的の一つにユーラシア大陸横断計画の下準備があった。

 翌1888年、安正はロシアが東洋進出のためにシベリア鉄道建設を企画しつつある、という情報を得た。この鉄道の軍事的な意味は明らかだった。今までのロシアは欧州の兵力を極東に運ぶ効率的な手段を持っていなかった。海路では非常な時間と費用がかかり、また列強の領海を通過せねばならないので、英国などから干渉される恐れがあった。しかし、自国の大陸内を鉄道で運ぶなら、誰も口出しできない。極東侵略のための兵力も物資も、効率的に送り込むことができるのである。

 1891(明治24)年1月、安正はユーラシア大陸横断の計画を立て、参謀本部に旅行申請を提出した。ちょうどこの月に、ロシア政府はシベリア鉄道の建設を正式に宣言した。

 それから間もなく、ロシア政府から日本政府に、ウラジオストクにおけるシベリア鉄道起工式に皇太子ニコライを派遣するので、その序でに日本を訪問させたい、という通報があった。

 このニコライは大津で警護の巡査に斬りつけられて負傷し、一時は日露開戦かと、日本中をおののかせる事件が起きた。大津事件である[a]。参謀本部からの計画認可がおりたのは、この後であった。

 このニコライは3年後にロシア皇帝となって日清戦争後の三国干渉を主導し、日露戦争敗北後のポーツマス会議[b]では「一握りの土地も一ルーブルの金も日本に与えてはならない」と指示して、日本を窮地に追い込んだ。そして明石大佐[c]が莫大な資金で援助した革命派によって殺害され、最後のロシア皇帝となってしまう。日本との因縁浅からぬ人物であった。

■5.独立を失った国々■

 こうして1893(明治26)年の紀元節にベルリンを出発した安正は、3日目に旧ポーランド領に入る。かつての強国ポーランドは18世紀にドイツ(プロイセン)、ロシア、オーストリアに分割されていた。

淋しき里に出たれば、
ここは何処と尋ねしに、
聞くも哀れや、その昔、
亡ぼされたるポーランド

 明治時代の歌人・落合直文の作であるが、「福島少佐のシベリア横断の歌」として愛唱された。国を失ったポーランドへの同情が、後にシベリアに流刑となったポーランド人革命家たちの孤児765名を救出する大きな動機となったのかもしれない。[d,e]

 ワルシャワを経て、2月の後半はリトワニア、ラトビア、エストニアのバルト3国を通過する。かつては独立国として繁栄していたが、今はロシア領となっていた。今も弾圧に耐えながら、地下で独立運動が続けられている。安正は、日露間に戦端が開かれたら、これらの独立革命家を支援、扇動して、帝政ロシアを西から攪乱する手もあるな、と考えた。後に明石元二郎大佐が、この戦略を実行して大きな成果を上げる。[c]

■6.ペテルブルグにて■

 3月24日、安正はロシアの首都ペテルブルクに入った。42日間で1850キロ、日本で言えば鹿児島-仙台間を走破したのである。ロシア側は安正の動きをつかんでいたと見えて、市の南門の10キロ手前で騎兵将校が出迎え、騎兵学校の貴賓室に案内され、賓客として扱われた。

 広大な大陸に育ったロシア人ですら、ユーラシア大陸の単騎横断などという大行軍を成し遂げた騎兵はいない。その勇壮なる企てに、彼らは感激したのである。

 安正はここで半月ほど過ごして、情報収集にあたった。ロシア陸軍の総兵力、編成が明らかになった。それは日本の14倍という規模であった。さすがにロシア陸軍の華とされる騎兵隊は、軍紀粛正で訓練に熱心な精鋭ぞろいであった。日露戦争では、この騎兵に苦しめられることになる。

 しかし、歩兵や砲兵の練度はムラがあり、ロシア王朝の頽廃に影響されてか、軍紀も弛緩し、皇帝への忠誠心にも疑問があった。

 3月30日、安正は皇帝アレクサンドル3世への拝謁を仰せつかった。皇帝は安正のユーラシア横断に非常な興味を抱いていた。「少佐は何語を話すのか?」とまず聞かれたが、「ドイツ語でもフランス語でも、英語、ロシア語でも、陛下のお宜しい方で結構でございます」と答えた。そこでフランス語の会話となったが、安正が中国語も出来ると知ると、皇帝は驚いて、語学談義に花が咲いた。

■7.「西はヨーロッパ、東はアジア」■

 4月9日、ペテルブルクを出発し、720キロを16日間で走破して、4月23日にモスクワ着。モスクワではシベリア鉄道に関する情報を集めた。東西両端から建設工事を始め、現在の未完成の線路は約7千キロ。今まで工事スピードは年間700キロなので、あと10年、1904年には完成するだろうと安正は予測した。実際の開通は、安正の予測通り、1904年、日露戦争開戦の年であった。

 5月6日、モスクワを出発し、7月9日、ウラル山脈の頂上に到達、かねて聞いていた「頂上の碑」を発見した。高さ3メートルほどの石碑に、「西はヨーロッパ、東はアジア」とロシア語で記されていた。安正は空に向かって大声で叫んだ。

 思えば欧州に勤務すること5年有半。この間、夢にも見た懐かしい故郷の空、これからがアジアの空だぞ。

 ここからがいよいよシベリアである。帝政ロシアはシベリア開発のために多くの労働力を必要とし、犯罪者や政治犯を多いときには年間2百万人も送り込んでいた。

 貧しいシベリアではコレラが流行しており、安正が通過する町々では広場に死体の山が築かれ、「死の町」のような静かさに覆われていた。

■8.「ロシアは、必ずこの外蒙を手中に収めるであろう」■

 安正は夏の間に一気にシベリアを横断し、9月24日、日本人として初めてアルタイ山脈を越えて、外蒙に入った。かつて草原を支配した蒙古民族も、今は清国の支配下にあるが、眠れるが如き清国政府はかかる辺境には無関心で、国防の配慮も乏しい。帝政ロシアの経済的、軍事的影響が強まっていた。

 東進するロシアは、必ずこの外蒙を手中に収めるであろう、と安正は考えた。(実際に20年後の辛亥革命で清朝が崩壊すると、ロシアは外蒙を勢力下に収めている。) その次は満洲、朝鮮、そして我が日本である。寒さの厳しい高原を、馬の背にゆられながら、安正は祖国の行方を案じていた。

 約2ヶ月かかって外蒙を横断すると、安正は再び北上してロシア領に入り、バイカル湖畔にたどり着いた。シベリア鉄道の工事が、まだここまでは達していなかった事が確認できた。

 1893(明治26)年の元旦を、安正はバイカル湖畔から東へ110キロの町で迎えた。零下30度の寒さで風邪を引き、ホテルで3日間の寝正月を決め込んだ。

 2月11日の紀元節。ベルリンを出発してちょうど1年が経過した。安正は今までの旅が無事であった事を神に感謝した。しかし、この日、安正は馬から氷上に転落し、頭部に深い傷を負った。5日間、農家で療養した後、また東に向かい、3月20日、氷結しているアムール河を渡って、満洲に入った。

 4月18日、吉林の手前で、この地方の風土病にかかり、18日間も田舎の宿で昏睡状態が続いた。祖国まであと千キロあまりのところまで来たのに、こんな満洲の田舎で果てるのか、と無念に思った。しかし、なんとか元気を回復し、5月7日にようやく出発。

■9.「おう、海が見えるぞ!」■

 6月1日、満洲と朝鮮を隔てる険しい山を越えると、安正は思わず、声を上げた。「おう、海が見えるぞ!」 前方遠くに見える青い海、日本海である。安正の両眼から涙が滴り落ちた。

祖国、、、あの青い海の向こうに祖国があり、皇居のある東京もあるのだ、、、陛下、臣安正は今、祖国を望む地点まで帰ってきましたぞ。

 そこからは再びロシア領に入り、6月12日、安正はついにウラジオストクに到着した。ちょうど1年4ヶ月で1万4千キロを踏破し、見事に任務を遂行したのである。

 大勢の日本人が万歳で出迎えた。到着の知らせは国内外に伝わり、世界中の新聞が世紀の壮挙と大きく報道した。

 安正はウラジオストクから3頭の愛馬とともに、東京丸で日本に向かった。6月29日午後、横浜港に着くと、児玉源太郎陸軍次官や家族が出迎えていた。さらに安正を驚かせたのは、明治天皇から差し遣わされた侍従が「天皇陛下より賜る」といって、暖かいねぎらいの言葉とともに勲三等旭日重光章を授与した事だった。

 7月7日には皇居で明治天皇に御陪食を賜った。乗馬を好まれる陛下は、安正が3頭の馬を東京まで連れ帰った事を聞かれると、「それはよいことをした。安正はまことの騎兵将校じゃ」と喜ばれた。明治天皇のご沙汰で、3頭の馬は上野動物園で余生を送ることとなった。

 この11年後に日露戦争が始まった。安正は児玉源太郎・総参謀長のもとで、情報収集・背後工作を続けた。日露戦争は薄氷を踏むような勝利だっただけに、安正のもたらした情報がなければ、戦局はどう転んだか分からない。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
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■参考■

(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け) 

1. 豊田穣『福島安正 情報将校の先駆―ユーラシア大陸単騎横断』★★★、H5、講談社

© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.


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