JOG(1399) 山県有朋 ~ 独立、平和、国際協調を目指して
山県は「軍国主義の邪悪な天才」ではない。明治日本が独立を維持し、国際社会で名誉ある地位を築いた立役者だった。
■転送歓迎■ R06.12.08 ■ 77,128 Copies ■ 8,778,822Views■
過去号閲覧: https://note.com/jog_jp/n/ndeec0de23251
無料メール受信: https://1lejend.com/stepmail/kd.php?no=172776
__________
■■■ 秀吉が出した「惣無事令(そうぶじれい) ■■■
秀吉は朝廷を後ろ盾として、全国の大名に戦いの中止を求める「惣無事令」を出し、全国を平定する際の法的な根拠としました。
薩摩の島津義久が九州北部まで攻め上がると、秀吉は停戦命令を出しましたが、「島津家は頼朝以来の名門である」として、秀吉のような由緒不確かな人間には従いません。そこで秀吉は後陽成天皇の勅命を受けて出兵します。「官軍」の登場は南北朝以来の事です。
信長・秀吉の天下統一の成功の一因は、皇室の権威のもとで国家を統合する、という日本の伝統的な統治パターンに則っていた事です。同時に、後奈良天皇が貧窮の中でも「般若心経」の写経を通じて民の安寧を祈られていた大御心を受けた秀吉の、平和な世を築こうとうとする姿勢に共感した人々も多かったでしょう。
乱世を終わらせるために、秀吉はさらに「検地と刀狩り」を実施しました。・・・
伊勢雅臣『大御宝 日本史を貫く建国の理念』、発売中
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/459409788X/japanontheg01-22/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■1.山県有朋は「軍国主義の邪悪な天才」?
山県有朋は日本の近代史のまさに「悪役」というイメージを持たれています。山県は「近代日本の『軍国主義』を体現する、『邪悪な天才』」とは、共産主義者の日本史学者・ハーバード・ノーマンの山県評だそうです[井上、p9]。
人間的にも司馬遼太郎は『飛ぶが如く』で山県を「模倣者、金銭欲の権化、出世主義者、腹わたの巻き方の複雑な男、陰謀家、陰鬱で無口な国権主義者、国家的規模の迷信家」と書いているとのことです[半藤、p248]。さすがに大文豪の表現には迫力がありますが、どこか憎しみが先走って、平静さを欠いているように思えます。
こうした山県有朋像は、世間一般の共有するところですが、近年は山県の書状などの読解も進み、全く別の山県像が提唱されています。日本政治外交史を専門とされる井上寿一・学習院大学教授の『山県有朋と明治国家』では次のように記されています。
__________
非西欧世界において近代化に成功する最初の国となった日本の出発点に、山県がいたことの歴史的な意味は大きい。・・・山県をとおして日本は、国家的な独立を達成し、対欧米協調外交を自主的に展開したのである。明治国家のユニークな歴史は、山県の名とともに、記憶されつづけるだろう。[井上、p243]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
山県の人間性については、伊藤之雄(ゆきお)・京都大学教授が、こう書かれています。
__________
執筆を進め、山県自身の書状等の史料も読んで、生身の山県の言動を知るにつれ、猜疑心が強くて、少し暗い性格の奥に、新しい山県が見えてきた。それは、「愚直」といえるほど生真面目で、優しさを秘めた人柄である。私は山県の「愚直」な人柄がどんどん好きになっていった。[伊藤、p475]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
戦後の左翼偏向史観から、近年はより学問的な研究者により、今までの人物像の転換が図られつつありますが、山県有朋はその典型的な例となりそうです。本稿では「明治国家のユニークな歴史」を先導した山県の志を、外交と戦争に絞って辿ってみたいと思います。
■2.吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛からの信頼
山県有朋は天保9(1838)年、長州藩の下級武士の家に生まれました。母は山県が数え5歳の時に亡くなり、厳格な祖母に育てられました。23歳の時に父が、その4年後に祖母が亡くなっており、肉親としては5歳年上で嫁に出た姉のみでした。寂しい少年・青年時代を過ごしたことが、少し暗い性格を形成したと言われています。
20歳にして、吉田松陰の松下村塾に入塾しました。しかし、数ヶ月後には松陰は野山獄に入れられ、翌年には江戸に送られてしまうので、最も遅い松陰門下生でした。それでも松陰は山県には「気」すなわち「大きな目的のために自らを恐れない気力」があると見ており、また山県も松陰を生涯、尊敬し続けました。
25歳にして、高杉晋作が創設した奇兵隊に参加し、軍監として実質的な実権を与えられました。高杉は山県を信頼し、自分に万一のことがあったら、後を託そうと考えていました。
26歳にして、下関戦争で外国艦隊相手に応戦。28歳、第2次長州征伐で幕府と戦い、30歳にして官軍参謀として越後を平定。この頃、西郷隆盛に心酔し、長州出身者の中で、西郷と心を通わせることのできる唯一の人物となりました。
その西郷に頼み込んで、明治2(1869)年から約1年間の欧米視察を行い、明治3年から翌年にかけての廃藩置県では、維新政権から遠ざかっていた西郷を政府に引き出す役割を演じました。
吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛との関係を見ると、山県は愚直に、一心に自らの使命に取組み、信頼を得たようです。この姿勢を生涯貫いて、近代日本の屋台骨を支え続けたのでしょう。
■3.朝鮮を永世中立国とする構想
明治7(1874)年、山県は35歳にして陸軍省の長官である陸軍卿に就任、翌年には政府の最高位である参議となりました。その後、西南戦争の指揮をとり、活躍。それから内務卿、陸軍参謀本部長など要職を歴任しました。
明治23(1890)年11月、山県は首相として、議会で施政方針演説を行いました。そこで外交・安全保障政策の基本方針で、「主権線」「利益線」論を展開しました。この利益線は、いかにも帝国主義的な対外膨張の野心を現しているようで、これが「アジア太平洋戦争に到る対外膨張の歴史的起源」であるかのように、戦後歴史学では唱えられてきました。
しかし、山県の方針は、それとは全く違う内容でした。1884年、日本と協力して朝鮮の近代化を図ろうとした金玉均のクーデター、甲申政変が清国軍の介入で失敗し、その後、日清両国が朝鮮から軍隊を引き揚げ、朝鮮に手を出さないように取り決めた天津条約が結ばれていました。山県は、これを一歩進めて、朝鮮を永世中立国としようと構想したのです。
朝鮮は、当時、南下しつつあるロシア、宗主国としての地位を守ろうとする清国、清国での権益を守ろうとする英国、半島を他国に支配されたら安全保障の危機を迎える日本と、各国の思惑が入り乱れる国際政治上の焦点でした。
山県はここを日清両国に英国を引き入れての協調路線で、朝鮮を中立国としようと考えたのです。ロシアにとっても、朝鮮をどこか一国が支配するよりも、中立国の方が望ましいのは言うまでもありません。この構想は各国が理解し、容認するところとなりました。もし、この構想が実現していたら、極東は安定し、その後の日清戦争も日露戦争も韓国併合もなかったでしょう。
しかし、この構想を実現するための最大の課題が、朝鮮自身に中立国化を目指す意思と能力があるか、どうかでした。そこで山県は日清で協力して朝鮮の内政改革を進める、という案を作りました。
そこに起こったのが、1894(明治27)年、政府や外国勢力に反対する大規模な農民の暴動(甲午農民戦争、東学党の乱)でした。乱を抑えるために、朝鮮は清に出兵を求め、清は「属国を保護する」という理由で出兵しました。これに対抗して日本も出兵したため、ついに日清戦争となったのです。
■4.義和団事件での8カ国連合軍の一員として
日清戦争後の大きな国際的事件として、1899(明治32)年に義和団事件が起こりました。清国の民衆の攘夷運動で、清国政府はこれに乗じて、欧米に宣戦布告までしました。北京に駐在する4千名以上の各国外交官、居留民、護衛兵、キリスト教徒たちを救出するため、地理的に最も近い日本の出兵が期待されました。英国からは4回にわたって出兵要請がなされました。
しかし、英露対立の狭間で、日本が突出したり、どちらか一方に肩入れするような態度に出れば、国際的な猜疑を呼びます。この点で、ちょうど第2次政権を担っていた山県は極めて慎重でした。英露のどちらにも与せず、しかも両国が容認する規模で出兵を行うべきと考えました。
日本軍は八カ国連合軍2万の半分を占める兵員を派遣しました。しかも日本軍は綱紀厳正で、各国連合軍から称賛される行動をとりました。この日本軍の戦いぶりを見て、英公使マクドナルドは、後に日本こそが同盟国にふさわしいと、日英同盟締結を強力に推し進めたのです。これは山県の国際協調外交の成果でした。
■5.日英同盟締結の原動力
ロシアはその後、義和団事件の際に占領した満洲から撤兵せず、さらには朝鮮にまで触手を伸ばしました。この時の首相は桂太郎で、第2次山県内閣での陸相として義和団の乱に対応した人物です。
ロシアの南下に対しては、二つの外交選択肢がありました。一つは当のロシアと協商関係を結ぶ日露協商路線。もう一つはイギリスと連携してロシアに対抗する日英同盟路線でした。前者は伊藤博文が、後者は国際政治の勢力均衡を重視する山県が推していました。
山県は日露協商路線に正面から反対することはなく、伊藤はロシアに赴いて、対露接触を試みました。同時に山県は、桂首相に日英同盟交渉を急がせました。結果的に、伊藤の対露接近がイギリスを刺激して、日英同盟の進展を促しました。これも山県の狙いだったのかも知れません。
イギリスも日本が同盟国にふさわしいか、値踏みしていたでしょう。その際には日本の指導者の力量を見なければなりません。イギリスは、首相になったばかりの桂太郎よりも、その背後にいる山県に目をつけたはずです。そして山県の国際協調路線と勢力均衡論は、イギリスにとっても好ましいものと感じられたでしょう。
当時、世界の大帝国であったイギリスが、伝統的な「名誉ある孤立」政策を大転換して同盟を結び、しかもその相手が非白人国であり、国際社会に登場して間もない日本であった事は、世界史の奇跡とも言うべき出来事でした。それを成し遂げた原動力の一つに、山県の存在があったのです。[JOG(1215)]
■6.日露戦争での短期勝利に貢献
日露開戦に際しても、山県は外交交渉による開戦回避をぎりぎりまで追求しました。しかし、開戦決定となれば、軍人らしく誰よりも積極的に戦争を推進します。山県は参謀総長の任について、戦争指導の最高責任者となりました。
日露戦争勝利のきっかけは、1904年(明治37)年12月5日の二〇三高地占領によって、旅順港内に引っ込んだ旅順艦隊を撃滅できたことです。この件に関しても、山県は11月9日にいち早く、参謀総長として大山巌満洲軍総司令官に電信で203高地占領を暗に促していました。現地がその方針に転換したのは11月26日でした。
早期講和の面でも、山県は開戦後7ヶ月で、和平の斡旋国を探すようにと、外交当局の注意を促しています。井上教授は日露戦争での山県の功績を次のように総括しています。
__________
日露戦争が短期間で勝利に終わったのは、山県の戦争指導の大枠が守られたからである。二〇三高地の占領と日本海海戦の勝利は、山県に講和を急がせた。譲歩をしてでも戦争を終結させる。日露の国力の比較から出てきた山県の政治的な判断だった。山県が和平の斡旋を期待した国は、アメリカとなった。
一九〇五(明治三八)年九月、アメリカのポーツマスで講和条約が結ばれる。日露戦争は山県に大きな達成感をもたらした。幕末維新期以来、山県が一貫して抱きつづけた日本の国家的な独立の危機が解消したからである。[井上、p129]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■7.第一次大戦参加決定のずさんさ
日露戦争の後の外交問題は、第一次大戦への参加をどうするか、でした。1914(大正3)年8月6日、大隈重信首相は緊急会議を開き、英国政府の依頼を受けて、ドイツの租借地となっていた中国の膠州湾攻撃を決定しました。この頃、山県は元老の筆頭となっていましたが、大正期に政党政治が強まってくると、影響力を弱めていました。この決定も、翌日に知らされ、驚いたのでした。
山県は大隈首相と加藤高明外相に、こう語っています。(現代語訳、伊勢)
__________
山県 この重大事を決定するのは、まず対中政策の決定がなければならない。対中政策について、内閣の決定はどうか?
加藤外相 対中政策については、現在検討中です。
山県 日本は日英同盟を外交の基軸にしてきたので、日英同盟の条文および精神により、英国のために尽くすのは当然のことだが、ドイツもまた我が親交国たることを忘れてはならない。[井上、p161]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ドイツが大戦で敗れるにしても、今までの親交を手のひら返しして、弱みにつけこんで植民地を奪い取るようなことをしたら、永く恨みを遺す。したがって、「日英同盟の義務により、やむなく武力を用いる」とドイツに対しても他の列国にも理解して貰わねばならない、と山県は説きました。
対中政策については、日本政府は混乱していました。1911年から翌年にかけての辛亥革命で、清国は滅亡し、中華民国が誕生して、袁世凱(えんせいがい)が大総統となりましたが、いまだ国としては治まっていませんでした。
そんな中で、膠州湾を奪ったとしても、いずれ中国に返還しなければならない。その時に、袁世凱政権を支えているイギリスなどが再租借する恐れがある。それでは日本国民がなんと思うか。それよりも欧州列強がアジアに目を向ける余裕のないときに、袁世凱を支援して、日中の信頼関係を改善する好機ではないか、と山県は説きます。
しかし、山県の説は大隈政権に受け入れられず、ドイツへの宣戦布告を決定する御前会議を、山県は欠席しました。
■8.山県が影響力を無くした頃から日本外交は迷走を始めた
大隈内閣は、大正4(1915)年1月、袁世凱政権に21ヵ条要求をつきつけて、国際的問題を引き起こしてしまいました。21ヵ条のうち、本当に重要なのは日露戦争の結果、ロシアから継承した南満洲の租借地の期限延長でした。それに付随して、第5号として政治・財政・軍事顧問への日本人の採用を求める項目を、あとで落としてもいいようにと、「希望」としてつけていました。
山県は「中国の信頼を得るように」との意見書を出していましたが、大隈内閣はそれを全く黙殺して、この失敗をしたのです。山県は「満蒙に関する条件だけなら列国は日本に文句を言わなかったろうが、列国の異議は第五号に集中している」と批判しました。
かくて日本の外交は、山県有朋が影響力を無くしていった頃から、迷走を始めます。同時に大国として勃興してきたアメリカとの対立が激化していきました。
以上のように、山県のなした国際外交を事実に即して見れば、「近代日本の『軍国主義』を体現する『邪悪な天才』」などとはとても言えないことが分かります。井上寿一教授や伊藤之雄教授のような、あくまでも史実に即した精確な歴史研究が登場しつつあることを有り難く思います。
(文責 伊勢雅臣)
■おたより
■昭和天皇の欧州歴訪を強くすすめた山県有朋(和明さん)
以前、山県有朋のことで、昭和天皇の欧州歴訪を強くすすめたことを知りました。その頃から山県は国際情勢に深く関心をよせ、外国の新聞記事を側近に翻訳させ、山県の下で仕事をすれば留学3年と言われた由。
■伊勢雅臣より
山県も、明治2(1869)年という早い時期から約1年間の欧米視察を行い、国際情勢を学びました。日本が近代世界の荒波の中で、独立を失わずにやっていくには、まずは国際情勢を知らなければならない、という思いでしょう。
昭和天皇の人格形成にも、欧州歴訪は大きな効果をもちました。
JOG(187) 皇太子のヨーロッパ武者修行 第一次大戦後の欧州を行く裕仁皇太子は何を見、何を感じたか?
(読み物) http://jog-memo.seesaa.net/article/500036393.html
(動画) https://youtu.be/CQec-sw9A_g
■リンク■
・JOG(1215) 日本外交史上の最高傑作「日英同盟」に学ぶ
岡崎久彦氏「明治の人というのは、どうしてここまで国際情勢を理解する能力があったのだろうか」
https://note.com/jog_jp/n/n2631f5f7a52f
・JOG(222) コロネル・シバ ~ 1900年北京での多国籍軍司令官
義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍の中心となった柴五郎中佐と日本軍将兵の奮戦。(動画+読み物)
https://note.com/jog_jp/n/nc9ea294b3fc0
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
・井上寿一『山県有朋と明治国家』★★、NHKブックス、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4140911700/japanontheg01-22/
・伊藤之雄『山県有朋 愚直な権力者の生涯』★★★、文春新書、H21
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4166606840/japanontheg01-22/
・半藤一利『山県有朋』★、ちくま文庫、H21
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4480426663/japanontheg01-22/
■伊勢雅臣より
読者からのご意見をお待ちします。本号の内容に関係なくとも結構です。本誌への返信、ise.masaomi@gmail.com へのメール、あるいは以下のブログのコメント欄に記入ください。
http://blog.jog-net.jp/