JOG(1308) 近藤重蔵~北方防衛を志した英傑
南下するロシアから国を守るために、蝦夷地の開発と防備に命をかけた英傑。
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■1.「大日本惠登呂府(エトロフ)」の標柱
「明後日に択捉(エトロフ)島に渡海する」と近藤重蔵(じゅうぞう)が決断すると、隊の多くの者たちは恐怖に脅えて顔色を変えました。船の漕ぎ手となる20数名のアイヌたちも、身の危険に脅えて、ざわつきます。
寛政10(1798)年7月。一行は根室から船で40キロほど北にある国後(クナシリ)島の最南端に渡り、そこから最北端のアトイヤに着いたところでした。ここから30キロほど東に海を渡ると択捉(エトロフ)島に着きますが、その間の国後海峡は天候が荒れやすく海流も強いので、アイヌたちですら恐れる難所でした。
翌々日、重蔵の一行は3隻の蝦夷舟に分乗して、出航しました。漕ぎだした暁方には凪(な)いでいた海が、途中で怒濤の逆巻く荒海となり、舟は5、6mもの波に木の葉のように奔弄され始めました。一同は船べりを握りしめ、7人のアイヌたちも櫓(ろ)を手放して船底につかまろうとしました。
この時、重蔵は太刀を握って立ち上がり、「命ある限り櫓を放すな。死力を尽くして漕ぐのだ」とアイヌたちを叱咤しました。そして、どっかりと座り込んで、舟の行く手を見つめます。この重蔵の姿が一同を励まし、ついに10時間もかけて荒海を乗り切ることができたのです。
翌日、重蔵は択捉島南端に、この島が日本領土であることを宣言する標柱を立てました。2メートルの木の柱に、「大日本惠登呂府(エトロフ) 寛政十年戊午(つちのえうま)七月 近藤重蔵」以下、アイヌの和人名も含めて一同の名前を書き連ねました。
■2.「井の中の蛙になってはならぬ」
重蔵は幼少の頃から「神童」と呼ばれ、8歳の頃には「孝経」を諳(そら)んじ、17歳の時には同志と共に「白山義学塾」を興して、貧しくて学校に通えない子弟に武術、算術、書道、歴史を教えました。
寛政6(1794)年、24歳にして、幕府の人材登用試験を受け、歴史、文章、政治論述など5科目のすべてにおいて約3百人中トップの成績をとりました。
翌年、重蔵は長崎奉行の部下に抜擢されました。長崎港でオランダ船の検察を行っていましたが、ある日、風のため波が荒く、重蔵の乗った小舟はなかなか進めませんでした。すると、オランダ船から「バッテイラ」と呼ばれる6メートルほどの小舟が迎えに来ました。三角形の帆が巧みに風をしのいでいます。重蔵はバッテイラの船首に腕を組んで座り、心中で呟きました。
重蔵はオランダの商館員たちから、諸外国が鎖国日本に通商を求めつつも、虎視眈眈と領土をねらっていることを聞いて、危機感を深めていきました。ある時、上司の長崎奉行から仕事ぶりを褒められた際に、重蔵はこう聞きました。
長崎奉行は「今は先走って差し出がましいことを言ってはならぬ」とたしなめつつも、「いつか、時期がきたら北方対策にそちを必要とする日が来るやもしれん」と答えました。
■3.幕府、蝦夷地の防衛と開発に乗り出す
寛政10(1798)年、幕閣たちの間には、異国船の出没に危機感を抱き、これ以上手をこまねいて放任しておくわけにはいかないという考えが、大勢を占めるようになっていました。
江戸に戻っていた重蔵は、ひたひたと迫ってくるロシアの南下に危機感を抱き、黙っていることができずに、松前蝦夷地の処置方法と異国境取り締りについての意見書をしたためて、上司に提出しました。担当の業務から外れた「差し出口」であり、かつ身分からも幕政に口を挟むことは許されないことでしたが、時が時だけに、また内容もすぐれていたので、若年寄に受理されました。
幕閣たちの協議も進められて、ついに蝦夷地の防衛と開発に乗り出すことが決定され、180余人からなる大がかりな巡察隊を送り込むことになり、重蔵もその一員に加えられました。
また、最上徳内(とくない)も重蔵の配下に加えられました。農家出身の下級武士ながら、国後、択捉、さらにその先の得撫(ウルップ)島、そして樺太にまで足を伸ばしている当代一流の探検家です。幕府としても、精鋭を選りすぐった派遣隊でした。
こうして、重蔵は冒頭に述べたように、択捉島まで行き、「大日本惠登呂府(エトロフ)」の標柱を建てたのです。
帰路、重蔵は徳内にこう語りました。
実際に、アイヌたちは松前藩士や商人たちから動物のように扱われ、不十分な手当で荷物運送の人夫として使役されたり、交換物資を不当に誤魔化す悪辣極まる交易方法でだまされており、それがために生活が極度に困窮していました。その実態を重蔵は突きとめ、松前藩のやり方に強い怒りを抱いたのです。これではロシア人が来たら、すぐに靡(なび)いてしまうでしょう。
徳内は報告のために江戸に戻りましたが、重蔵はそのまま道路造りの事業に着手しました。まずは北海道の南端の切っ先、襟裳(えりも)岬は絶壁と渓谷の歩行すら難しい場所で、ここに人馬が通れる約11キロの山道開削に取り組みました。
68人のアイヌたちも、道路を切り開くことが彼ら自身にも有益であることを覚って懸命に働き、2ヶ月ほどで工事を完了しました。重蔵もアイヌたちも、小躍りして難事業の達成を喜び合いました。
■4.択捉島の開発と日本領土としての確保
江戸に戻った徳内の報告から、幕府は重蔵の働きを評価し、寛政11(1799)年、その意見を取り入れて、函館以東の東蝦夷地を松前藩から召し上げて、7年間、直轄地とすることを決めました。
同時に現地で統括を行う組織が設けられ、江戸に呼び戻された重蔵は昇進の上、蝦夷地取締御用を命ぜられました。江戸には20日余り滞在しただけで、再び慌ただしく蝦夷地に向かいました。
重蔵は、蝦夷地の交易で活躍していた高田屋嘉兵衛(かへい)の操る巨船で択捉島に到着しました。嘉兵衛は後にロシア船に拉致され、日露の衝突回避に一役買った人物です。[JOG(1102)]
重蔵は島内の各地を巡検するとともに、持ってきた漁網をアイヌに与えて、使用方法を指導しました。それまでは、棒に釘を打ちつけたヤス程度の漁具しかなかったので、漁網を用いる方法により、川に群がる鱒(マス)や鮭などが大量に獲れるようになりました。
重蔵は、嘉兵衛に命じて17カ所の漁場を開かせ、アイヌたちは、それまでに見られなかったほど、活気づいて働くようになりました。彼は択捉島がいかに魚資源に恵まれた宝の島であるかをつぶさに知りました。
今まで劣悪極まる生活をしていたアイヌたちは、重蔵の施策を喜び感謝しました。択捉島での善政を伝え聞いて、北千島からもアイヌの来島が増えてきました。なかにはロシア人から教化されて十字架を胸につけたアイヌもいましたが、重蔵から日本人の名を貰って、択捉島に住み着きました。重蔵はその男から北千島の様子を聞き出して、詳しく記録にまとめました。
ロシアは得撫(ウルップ)島まで南下していましたが、重蔵の指揮した開拓・開発によって、択捉島は日本領土として確立されていったのです。
■5.「礼文や利尻はおろか、蝦夷地全島が危ない」
その後も、重蔵は江戸に帰っては昇進して、すぐにまた蝦夷地に赴くという慌ただしい日々を続けました。寛政10(1798)年、28歳での最初の択捉島行きから、享和2(1802)年、32歳までの約5年間に合計4回も蝦夷地に赴いたのです。幕府からもその功績を高く評価され、恩賞が与えられました。
その後、重蔵は4年ほど無役とされ、蝦夷地に関する詳細な調査資料などをまとめて、警固の必要性を説きました。この間、文化元(1804)年9月にロシア使節レザノフが来航して通商を求め、それを拒否されて、文化3、4(1806,07)年にその部下が択捉島や利尻島の幕府施設を襲う文化露寇という事件が起きました。
蝦夷地の警備があまりにも手薄で非力であることが露呈されたのです。松前藩だけでは防備不十分であると、蝦夷地全体が幕府直轄とされ、奥羽各藩からの兵を増員して、蝦夷各地の警備に当たらせることにしました。
そういう動きの中で、久しぶりに重蔵も呼び出され、利尻(りしり)島の巡視を命ぜられました。北海道北端の稚内から南西海上40キロの利尻島までの海は大波がうねっていましたが、初めて国後島から択捉島に渡った時に比べれば、比較になりません。
利尻島では、警護の会津藩士たちが島の要所要所に分散して粗末な小屋に住んでいるだけでした。全島を検分して、利尻山に登った時は、珍しく晴れ渡っていて、北に礼文(れぶん)島、東に宗谷半島が紺青の日本海の彼方にうっすらと見えました。前年、この海域で日本の貨物船がロシア艦に襲われたのです。重蔵は思いました。
■6.西蝦夷の奥地探検
重蔵は利尻島からの帰路、西蝦夷の奥地を探索することにしました。今後百年の蝦夷地開拓と警護の対策を立てるためには、放置されている奥地を調査する必要があると考えたのです。
重蔵は従者1名とアイヌ数名を従えて、利尻島対岸の宗谷を河口としている天塩川沿いに南南東に遡っていきました。原生林が繁茂して道もなく、方向を見失わないよう、川岸の岩石や樹木に掴まりながら、歩を進めました。 250キロほど遡ると、現在の旭川のある上川盆地に着きます。そこから東は北見山地で大雪山や十勝岳が聳えています。すでに9月の下旬で風雨に見舞われると寒さで生きた心地がしませんでした。
重蔵は、そこから南西に流れる石狩川をアイヌが作った舟で下ろうとしました。アイヌたちは石狩川の急流を舟で行くことは危険だと尻込みしましたが、一徹な重蔵は耳を貸しません。
石狩川の急流に、舟は右に左にと大きく揺れ、今にも岩に激突するかと思うと、櫂を持つアイヌたちは必死で舟を操ります。現在の旭川市から20キロ近く下った神居古潭(カムイコタン)は両岸の奇岩が迫り、細く曲がりくねった急流です。ここで舟が転覆し、皆が投げ出されましたが、一同はなんとか九死に一生を得ました。
こうした苦難に耐えて、一行は石狩川の河口に辿り着き、さらに札幌の大原野を探索しながら、小樽に出ました。総距離700キロもの探検旅行でした。
この奥地探索により、蝦夷地支配の中心地としては現在の箱館では南方に偏りすぎ、統轄地としては石狩川下流の札幌か小樽が適していること、そこを拠点として全島の防備と開発を進めることが最も効果的であるという確信を重蔵は抱きました。
重蔵が12月に江戸に戻ると、重蔵は蝦夷地探検の英傑として迎えられ、西蝦夷地を奥深く探索したことは、すでに将軍徳川家斉(いえなり)の耳にも入っていました。家斉は蝦夷地の防備と開発に関心を持っており、重蔵を江戸城中に呼び出して、話を詳しく聞きました。重蔵は探検の様子や地勢の説明とともに、札幌の重要性についても力説しました。
■7.「エゾを守れ、オロシャが来るぞ!」
∂その功により、書物奉行(現在で言えば国会図書館長)に抜擢され、そこで幕府の文書を管理しながら、著述に精励します。しかし10年の後、書物を収めている文庫蔵の改修につき、老中に説明した際に、言うことを聞かずに退出しようとする老中に、「しばらく」と両手をひろげて遮るという無礼を働いてしまい、その結果、大阪弓奉行という閑職に左遷されてしまいます。 一方、ロシアの南下は、しばらく小康状態を保っていました。幕府としても、費用のかさむ蝦夷地の防備と開発への熱意を失い、松前藩からの工作もあって東西蝦夷地を返還しようとする動きが聞こえてきました。
重蔵は深い失望と怒りから酒色に溺れ、職務も怠りがちとなり、結局、幕府からお役御免とされてしまいます。
江戸に戻った重蔵にさらなる不運が襲います。留守中の屋敷の管理を任せていた町人がその屋敷を奪おうとし、怒った息子の富蔵がその町人を斬り殺してしまいます。勢い余ってその妻までも殺害した富蔵は罪人として八丈島に遠島、重蔵は管理責任を問われ、琵琶湖西岸の大溝藩にお預けとなります。
諦観した重蔵は、大溝藩では周囲の者に学問を教えたり、地方の薬草に関する著書を纏めるなど穏やかな晩年を過ごしました。文政12(1829)年、同地で没。享年59歳。息を引き取る際に「エゾを守れ、オロシャが来るぞ!」と叫んだと伝えられています[3623]。墓は琵琶湖を眺望できる高台に作られ、北方に向かっています。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・久保田暁一『北方探検の英傑 近藤重蔵とその息子』★★★、PHP文庫(Kindle版)
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