JOG(1290) 大隈重信 ~ 国民の元気と輿論を喚起した最高齢首相
76歳と史上最高齢で首相になった大隈重信は、盛んに国内各地を遊説して、国民の元気と輿論を呼び起こした。
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■1.元気一杯、最年長首相
大正3(1914)年4月、大隈重信は76歳の高齢で2度目の首相に返り咲きました。それまでの首相就任時の最高齢は山縣有朋の2度目で60歳でしたので、それをはるかに超えた新記録でした。現代で言えば、90代で首相就任という感じだったでしょう。
前政権の山本権兵衛内閣が、海軍将校の収賄にまつわるシーメンス事件で倒れた後、元老の山縣らによって推挙されました。大隈は肥前(佐賀県)出身と薩摩長州の藩閥に関係なく、また長年、英国流の二大政党政治を目指して立憲改進党などの政党を率いてきた人物で、国民の人気もありました。
その人気の高さが証明されたのが翌年3月の総選挙で、大隈率いる与党が243議席、総議席数の64%もとりました。前山本内閣を支えていた政友会は184議席から104議席と惨敗です。
大隈の人気の一因は、国内各地を元気一杯に遊説して廻ったことです。たとえば選挙前には3月16日朝に東京を出発して、東海道線で大阪へ、その後北陸本線で金沢を回り、名古屋を経て、19日朝に帰京するという強行軍でした。1日目の沼津駅では1500名、静岡駅では1000名が駅で出迎え、停車中の時間に短い演説をします。
二日目に、大阪に着いて午後1時から1100名を相手に1時間40分の演説をし、午後5時からは大阪の「官民一流の紳士三〇〇余名」相手に約1時間20分にわたる「荘重なる大演説」、その後、自身が設立した早稲田大学の校友会で来会者130名に会い、夜9時40分の夜行列車で金沢に向かう、という濃密なスケジュールです。
これが77歳、しかもかつての暗殺未遂事件で片足を失った人物の行動です。その行動と演説の一つ一つが新聞に報道されて、国民を元気づけていきました。
■2.国民一人ひとりを元気づけた大隈演説
大隈の演説の内容も、聴衆を元気づけるものでした。世界の政治的経済的潮流を述べ、その中で日本を位置づけ、演説している土地の長所美点を挙げて、それをさらに発揮するよう聴衆各人の奮起を促す、というパターンが中心でした。
大隈はさかんに国際社会における日本の役割と文化を論じましたが、そこにも国民への元気づけが溢れています。たとえば、人種的差別意識から日本の台頭を低く評価しようとする欧米人に対し、非白人国のモデルもない中で、模索しながら近代化を達成してきたと、日本人の創造性を高く評価しました。
また武士道精神は国際的に通じると断じ、「正義人道」と「平和」を旨とする武士道は、イギリス紳士の規範と共通するものであり、そうした武士道精神を持っている日本は、世界列強に肩を並べて「東洋の帝国」として「東西文明を調和」し、「正義人道」の実行によって「世界平和に貢献」すべき、と説きます。
さらに「日本の誇りは美しき菊花に見よ」とも言います。菊も梅花や牡丹と同様に中国から伝わったが、日本で発達して菊は「日本固有の花と化し」、「皇室の御紋章」となっていると論じました。外国から学びつつも、それを自らのものとして、さらに美しく発展させるところに、日本の力があるというのです。[伊藤、p592]
そして、ヨーロッパに比べれば、日本の貴族には平民的な謙虚さが見え、かえって「平民に貴族的の権威」を持つ者がおり、この平等さが日本の「社会状態の美しい特異の点である」とします[伊藤、p591]。こういう国民同胞感こそ日本の強みである、という主張は、現代の国際社会でも十分通用する観察です。
大隈のこういうスピーチを聞いて、平民一人ひとりが、自身の所を得て周囲の一隅を照らす人物になろうと元気を得たでしょう。
■3.輿論の重視
大隈のスピーチは単なる人気とりではなく、議会制民主主義を目指す姿勢から出ていました。大隈は健全な議会制民主主義を成立させるためには、選挙民が気分や利益で候補者を選ぶ「世論」ではなく、一人ひとりの国民が世界情勢と国内状況を良く理解した上で、日本の行く末を考え抜いた「輿論(よろん)」を育てることが不可欠と考えていました。
「世論」では人気とりの巧みな政治家に操られる衆愚政治になってしまいます。また国民が自分の利益だけを考えていれば、利益誘導政治となってしまい、公益が遠のいてしまいます。安定し、成熟した民主主義のためには、国民が健全な、深い「輿論」を持つ事が不可欠の前提なのです。
その上で、各政党は自らの政策を有権者に訴え、「輿論」に最も合致した政権が選ばれます。こうして国民の「輿論」が政治を動かしていくのです。
明治15(1882)年に大隈が東京専門学校(早稲田大学の前身)を設立したのも、この考えからでした。東京帝国大学のようにドイツ法学を中心として官僚を育成するのとは別に、英国流の政治経済学を中心として、将来の立憲政治を担う指導的人材と輿論を生み出す国民の育成を目的としていました。
この目的は十二分に達成され、大正4(1915)年には早稲田大学の卒業生は約1万人にも達しており、その年の選挙では大隈の与党の300名の候補者中、60名が早稲田出身者の予定とされていました。
大隈は他の私学の設立にも熱心に力を貸しました。早稲田と並ぶ慶應義塾は福澤諭吉の創設ですが、大隈と福澤は出会った途端に、たちまち「百年の知己」のように「懇意」になったといいます。二人とも国民の活力とそれを支える学問の大切さについて、意気投合したでしょう。その後、大隈は慶應大学を行政との橋渡しの面で支援しています。
のちに新島襄が「同志社大学」を創立しようとした際にも、大隈は寄付金集めに尽力し、感謝されています。さらに日本で初めての女子高等教育機関である日本女子大学校(現・日本女子大学)が明治33(1900)年に創立されるに際して設立者総代となり、千円(現在の1500万円ほど)を寄付しています。
英国のオックスフォード、ケンブリッジ、米国のハーバード、イエールなどの名門大学はみな私立です。人材育成や学問研究では、官に頼るだけではなく、民間が主体的に取り組むことが大切だと、大隈は考えていました。そこで多様な考えが発展し、多彩な人物が育成されて、輿論が深まっていくのです。
■4.理想を堂々と語る雄弁家を育てる
今日まで政治家やジャーナリストを多数輩出している早稲田大学雄弁会は、明治35(1902)年に設立され、大隈自身が初代会長を務めました。その設立趣意には、こう書かれています。
大隈は、青年が変革に向けて活動するためには「輿論を喚起」する「雄弁家」にならなければいけないとし、さらにそうした「雄弁家」になるためには理想が必要であると論じています。「理想無き雄弁は価値無き雄弁」で、「一場の駄弁」にすぎないとまで言います。
青年たちが理想に向かって、輿論に訴え、国家国民を動かしていく、それが大隈の考える「雄弁家」でした。そういえば、私の知人友人にも早稲田出身者がたくさんいますが、仕事にしろ学問にしろ、堂々と自分の考えを述べる人が多い、と実感しています。大隈の「雄弁家」の理想は、現代においても学風として早稲田大学に染みついていると言えるでしょう。
■5.建設的な野党精神
佐賀出身の大隈は長い生涯の相当の期間を薩長の勢力には加わらず、思想信条を共有する人々とともに、野党として議会、あるいは講演会や新聞を通じて「雄弁」を振るいました。それは今日の一部野党のように、政府の揚げ足とりをするのではなく、良い所はよい、悪いところはこうすべき、と堂々の政策論争を挑んだものでした。
大正11(1922)年に、大隈が亡くなった時にも、東京日日新聞は、これまで元老の山県・松方などでも何事か行おうとしても大隈から非難されはしないかと考え、その用心と方法を考えたが、この大きな「警鐘」がなくなったので、わがままにふるまう者が出てこないか、と国民が直感していると報じています。[伊藤、11,327]
こういう「警鐘」の存在こそが、民主主義を独裁主義よりも優れたものとします。「もりかけ」のような些末な問題で与党の足を引っ張るだけの野党では、与党の長期政権化と、言い掛かりを避けるための秘密主義を招きます。与党に緊張感を与え、その政策をより良くする「警鐘」にはなりえません。それでは独裁主義よりも効率が悪いだけの民主主義になってしまいます。
大隈は自党の勢力を伸ばすための政府の揚げ足とりはしませんでした。たとえば、日清戦争の後に、露独仏からの三国干渉に屈して、遼東半島を清国に返還した際には、伊藤博文内閣の責任を追及する声が盛んに起こりましたが、大隈はそうした声には一切、与しませんでした。
後ろ向きの責任追及の動きでは国民の憤りを煽ることによって、たとえ一時的に自分への支持を拡大しても、日本のためにならないと判断したようです[伊藤、p380]。たしかに、三国干渉はロシアの極東侵略を狙う帝国主義から発した外発的なもので、日本政府の外交努力で防げるようなものではありませんでした。
対外強硬論に加担しなかった大隈は、清国に勝ってのぼせ上がっている国民に、列強と比べた日本の国力の実情を理解させようとしました。日本が当時の世界の一等国と比べれば、軍備、学術、経済などでも、はるかに「後進の国」であると論じました。
ただし、この論だけだと国民をいたずらに悲観的にさせるので、いまやイギリス、ロシア、ドイツはみな日本を味方につけようとしている「外交の好時期」であるとし、いずれの国とも結ばずに「厳正中立」を守り、「正義」の行動を取るべき、と主張しています。現実を直視しながらも、理想を忘れない大隈らしい「雄弁」です。
■6.異質なものの調和を通じた進歩
大隈の目指す「雄弁」は、政党どうしの勢力争いの手段ではなく、輿論を喚起する言論をぶつけて、より良い政策を生み出していくことを目的としていました。だからこそ、ライバルであった伊藤博文が三国干渉で窮地にあったときに、援護射撃もしたのです。
そのかわりに大隈が意見を異とする時には、「元老の山県・松方などでも何事か行おうとしても大隈から非難されはしないか」と用心するまでに、なっていたのです。
大隈のこのような姿勢を、伊藤之雄・京都大学名誉教授は伝記『大隈重信』の中で次のように評しています。
英国流の二大政党政治を理想としたのも、この考えでしょう。そして両党の政治家が「雄弁」によって、それぞれの考えを表明し、それを国民が投票によって選択して「輿論」が形成されていく。こうして、よりよき政策が追求され、政治と国民の見識も深まっていきます。
また大隈が私立大学を重視したのも、官立大学と対抗するためではありません。官立大学は官僚、教師などを育てるには有用ですが、多様な思想学問を追求したり、多彩な政治家や実業家、ジャーナリストなどを育てるには私立大学の方が適しています。官立と私立が互いの長所を発揮してこそ、一国としてバランスのとれた学問が発達し、人材が育ちます。
大学教育だけではなく、大隈は明治44(1911)年4月には月刊誌『新日本』を創刊しました。今後、外国思潮との接触はますます急激になるので、精確な「世界的知識」を養うとともに、「国民としての自覚」を持ち、何事に触れても決して惑わない「根柢」を養うことが必要である、との考えでした。
外国思想にかぶれて日本の良さを見失うことなく、逆に日本の良さにこだわって外国思想を排するのではなく、日本と外国の異質な思想文化を調和させながら、より良い文化文明を築いていこうという、バランスのとれた考え方です。
■7.大隈の生き方
大正11(1922)年1月17日の大隈の葬儀は、「国民葬」で行われました。服装や身分を問わず参列できるというので、「〔労働者の〕半纏(はんてん)着も礼装の人も遠慮無用」と報じられました。
霊柩車が早稲田の大隈邸から日比谷公園を経由して護国寺まで走りましたが、その沿道に集まった人々は100余万人で、約150万人といわれた明治天皇の御大葬以来の人出であったと報じられています。
上下2巻、合計800ページを超える大隈の伝記を執筆された伊藤教授は、その思いをあとがきで、こう記されています。
こういう「強靭な精神力に裏打ちされた楽天的な性格」と「向上心を失わずに誠実に生きている庶民に対し、心の底からやさしさ」、この大隈の生き方に多くの国民も心から共感し、国民葬に駆けつけたのではないか、と考えます。
大隈が喚起した元気と輿論とは、現代日本人が直面している様々な課題を乗り越えていくためにも不可欠のものです。
(文責:伊勢雅臣)
■おたより
■伊勢雅臣より
私も70年代に国立大学に入り、授業料は月1000円。友達と「1時間あたり20円くらいで、そんな値段の授業だよな~」と冗談を言っていた記憶があります。
しかし、今思えば、私立には行けない家庭の子供でも大学に行ける、ということは、平等な国民を作るためにも、意義ある制度でした。
月1000円で大学教育を受けられた国の恩に報いなければなりません。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・伊藤之雄『大隈重信(上下合本)』★★、中公新書(Kindle版)、R02
・早稲田大学雄弁会
・歴史人物学習館「大隈重信」
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