JOG(988) 昭憲皇太后とEmpress Shoken Fund
100年以上も世界の福祉に貢献し続けている国際赤十字の「昭憲皇太后基金」を生み出した精神とは。
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■1."Empress Shoken”のTシャツ
その写真には、10数人の黒人青年たちが笑顔で賞状らしきものを胸の前に掲げて映っている。揃いの白いTシャツには、王冠とドレスをまとった女性の写真がプリントされている。その写真の下には"Empress Shoken"との文字が見える。明治天皇のお后であった昭憲皇太后である。(明治天皇御存命中は「皇后」であるが、以下、「皇太后」に統一する)[1, p19]
ここは南太平洋のバヌアツ。ニューギニアから南東に3千キロ離れた所にあり、合計面積では新潟県ほどの83の島に、約24万人の人々が住んでいる。
青年たちが手にしているのは、救急法、災害対策、人道支援のあり方などを教える「いのちの教育」の修了証書である。バヌアツでは貧しくて教育も受けられず、勤め先も限られているので、学校にも行かず仕事もしない若者が多かった。その結果、麻薬や酒の誘惑に負け、犯罪に手を染めるケースも少なくない。
「いのちの教育」は、台風や洪水の頻発するこの国で、若者に災害救助などを教え、社会に役立つ存在になることで、若者自身を立ち直らせようというプロジェクトである。合計で216名の青年が受講した。「赤十字の活動に参加することで、他人を助けることができるし、そのことで自分をコントロールできるようになった」と一人の青年は語る。
かつてのマリファナ常習犯が警官になった、という例もある。また自発的にお年寄りを助けるボランティア活動を始めた若者たちもいる。彼らが活動時に着るユニフォームが、この昭憲皇太后のTシャツなのである。このプロジェクトは2011年に"Empress Shoken Fund”(昭憲皇太后基金)から約4百万円の助成を得て実行されたものだった。[1]
■2."The Empress Shoken Fund (昭憲皇太后基金)”
この基金は、昭憲皇太后が明治45(1912)年に国際赤十字に下賜した10万円(現在価値で約3億5千万円)をもとに創設され、その利子を用いて、現在までに、戦時中の昭和19(1944)年を除いて100余年に渡って、世界161カ国以上に総額約11億円が分配されてきた。
発足後も皇室や日本政府、明治神宮などが寄付を続け、現在では基金総額は18億円以上となっている。助成プロジェクトの選定結果は、毎年4月11日、昭憲皇太后のご命日に、スイスのジュネーブに本部をおく赤十字国際委員会から発表される。
イギリスの文学者ワエリクス・バウマンは著書『日本の少女』の中で、次のように述べている。
今回は、昭憲皇太后がどのようなお考えで、こうした努力をされたのか辿ってみよう。
■3.「世界人類に向け、人種や国境を越えて福祉に寄与すべき」
国際赤十字の活動は、当初は戦時に傷ついた将兵を敵味方に関わりなく手当てする事を目的としていたが、それをさらに災害救援や感染症対策など「平時救護事業」に大きく広げたのが、昭憲皇太后の思召しだった。
1912(明治45)年、アメリカ・ワシントンDCで開かれた第9回赤十字国際会議で、基金設立の提議文を読み上げた日本代表は、その冒頭で、昭憲皇太后から次のような思召しがあったことを紹介した
世界各国の委員は深い感銘を受け、その大御心を永遠に記念するために「昭憲皇太后基金」と名付けた。時の米国大統領タフトは皇后に感謝の電報を送り、その中で「皇后陛下は、この慈愛にして崇高なご行為によって、赤十字が世界人類に向け、人種や国境を越えて福祉に寄与すべきであることをさとされた」と述べた。[2, p230]
ここに赤十字は、「世界人類に向け、人種や国境を越えて福祉に寄与すべき」国際団体として、大きな一歩を踏み出したのである。昭憲皇太后は次の御歌を詠まれている。
「親睦の和」を世界が結んだ一例は、東日本大震災の際に示された。日本赤十字社社長、国際赤十字・赤新月社(JOG注:イスラム諸国では宗教的理由から「十字」のかわりに「新月」を使う)連盟会長の近衛忠輝はこう語る。
■4.皇室による「窮民救恤(きゅうじつ)」
そもそも近代日本における社会福祉は皇室が先導された。明治政府による公的救済活動はまだ限られていたため、その空白を埋めたのが皇室の活動だった。
明治天皇は践祚後わずか2年半の明治2年8月に「窮民救恤(きゅうじつ)の詔」を発せられ、維新の戦乱で家を焼かれ、生業を失い、またその年の冷夏による不作で困窮する国民を助けられることを宣言された。宮廷費7万5千石から1万2千石を節約して、その救恤にあてられたのだった。
明治10(1877)年からの西南戦争では、佐賀藩出身の佐野常民(つねたみ)が欧州留学で学んだ赤十字活動を実践しようと、皇室の許可を得て「博愛社」を設置し、九州と大阪で臨時病院を設置して救護活動を行った。
博愛社は明治16(1883)年以降は、皇室から毎年3百円の御手元金を下賜されて基本的な活動資金とした。明治20(1887)年、両陛下は博愛社を皇室の保護のもとに運営されるご意思を示され、名称を「日本赤十字社」と改め、万国赤十字社本部に加入することが決まった。
以後、両陛下から毎年下賜金があり、また明治23(1890)年には病院建設用地として東京府内の1万5千坪を下賜された。現在の日本赤十字社医療センタ-である。
当時は欧米と同様、戦時の傷病兵を救護する事だけを行っていたが、明治21(1888)年7月の福島県磐梯山(ばんだいさん)の噴火では多くの死傷者が出て、昭憲皇太后は日本赤十字社に命じて、救護班を被災地に向かわせ、多額の金銭的援助もされた。これを契機に日本赤十字社の社則に「天災救護施」が加えられた。
その後、明治24(1891)年、14万2千余戸が全壊した濃尾地震、明治29(1896)年、2万2千人の死者が出た三陸大津波など、大規模災害が続き、日本赤十字社が災害救助にあたった。皇太后は大小様々な天災の都度、救恤として御下賜金を送られ、明治期全体では合計265件にも及んでいる。
また、その頃から海外の窮民にも救恤が行われていた。明治35(1902)年、カリブ海の仏領マルティニータ島でのプレー火山の大噴火、明治41(1908)年、イタリアのシシリー島を襲ったメッシーナ地震にも、巨額の救恤金を送られている。「人種や国境を越えて福祉に寄与すべき」は、すでに実践されていたのである。
■5.包帯製作とお見舞い
皇太后は明治20(1887)年の東京慈恵医院開院の際に、病院事業奨励の令旨をくだされ、その中で、天平年間に聖武天皇の皇后であった光明皇后が、貧しくて治療を受けることのできない民のために施薬院を設けた逸事に言及し、「祖宗の遺志」を継ぐべきことを念願されている。明治時代の社会福祉への取り組みは、そのまま1千年以上も続く皇室伝統の実践であった。
皇太后の窮民への仁慈は御下賜金だけには留まらなかった。明治10(1877)年の西南戦争では、お手づからガーゼを作られ、大阪と戦地の病院に送られた。明治27(1894)年の日清戦争では、包帯の製作をされた。宮中の一室に製作所を設けられ、近侍の女官たちとともに、看護婦さながらに白衣を召されて包帯製作に励まれた。
明治37(1904)、38年の日露戦争でも包帯製作に勤しまれ、皇太子妃殿下(大正天皇のお后、貞明皇后[a,b])とともに、包帯12巻入りの缶を200缶も戦地に送られた。兵士の中には、その包帯を使わずに持ち帰って家宝にした者もいた。
日清戦争さなかの明治28(1895)年3月、皇太后は明治天皇が大本営をかまえられた広島にお出ましになり、広島陸軍病院と呉の海軍病院を慰問された。
これらの病院は開戦後、にわか仕立てで作られた掘っ立て小屋のような建物で、関係者はこのような粗末な場所に皇太后がお越しにになるのは恐れ多いと辞退したが、皇太后は「患者慰問のために来たのですから、どんなに建物が見苦しくても見舞いに行きます」と押しきられた。
各病室では患者それぞれに病状をお聞きになり、御言葉を賜った。起き上がって姿勢を正そうとする兵士たちには、「起きるに及ばず。大事にせよ」と仰った。今日の両陛下の被災者御慰問そのままの光景である。また戦争で手や足を失った兵士には、義手や義足を下賜された。その御仁慈は手足を失った敵兵にも及んだ。
■6.皇室の率先垂範が国民を動かした
「社会福祉の精神を日本の社会に根付かせた」と冒頭のバウマンは語ったが、皇太后は国民に直接語りかける事でも、その役割を果たされた。
皇太后は明治35(1902)年10月21日、日本赤十字社第11回総会に行啓し、御言葉を述べられた。会場は皇后陛下を間近にうかがおうとする人々で超満員だった。出席した英国公使夫人メアリー・フレイザーは、皇太后が「いかに人心を惹きつけられるか」を目の当たりにしたとして、こう書き留めている。
「現代的」というのは、それまでの歴代皇后は内裏(だいり)に引きこもって、人目には触れずに生活されていたからである。昭憲皇太后は皇后として初めて洋服を着られ、このように多数の国民の前で御言葉を述べられたのであった。[1, p140]
前述のメッシーナ地震に際しては、両陛下はイタリア政府に金1万円を寄贈されたが、民間でも「伊国震災義捐(ぎえん)金」が集められ、寄付金の総額は7万1700円に達した。皇室の率先垂範が「社会福祉の精神を日本の社会に根付かせた」一例である。
■7.「一つ屋根の大家族のように」
日本が早急な近代化を通じて、欧米諸国と伍してやっていくための明治天皇の努力がいかに世界から称賛されたかは、拙著『世界が称賛する 国際派日本人』[c]で述べたが、社会福祉の分野で発展を実現してその一翼を担おう、というお志を皇太后は持たれていたようだ。そのため、欧米から戻った公使婦人や女子留学生を召しては、欧米の状況を熱心に聞かれた。
史上初めて洋服を着られ、外国人を謁見し、大勢の集まる集会でスピーチをする、などは、その努力の一環である。そして、その努力と、天性の慈愛と聡明さが、欧州の王室にも負けない気品を生み出した。英国公使のマクドナルドは、皇太后に拝謁するたびにこんな感想を語った。
明治20年前後に宮内省顧問として欧州式の宮廷儀式導入を助けたドイツ貴族のオットマール・フォン・モールは、皇太后の「思いやりのある人柄、おのずとにじみ出る心のあたたかさ、それにけだかい考え方」を称えて、皇后を「宮中のたましい」と呼んだ。
アメリカの新聞「クリスチャン・ヘラルド』紙の論説委員であるクロブッシュは、皇后が明治40(1907)年にノーベル賞候補者に推薦されていたことを明らかにした、と当時の新聞は伝えている[2, p29]。これは赤十字国際会議で、基金設立の発議を行う5年前である。皇太后の社会福祉への取り組みはすでに欧米でも高く評価されていたのである。
昭憲皇太后は皇室の伝統的な国民への仁慈を基盤として「社会福祉の精神を日本の社会に根付かせ」、さらに「昭憲皇太后基金」として「世界人類に向け、人種や国境を越えて福祉に寄与すべき」を示された。
それは神武天皇の「一つ屋根の大家族のように仲良く暮らそう」という理想[d, p260]がグローバルに広がった道であった。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a.
b.
c. 伊勢雅臣『世界が賞賛する 国際派日本人』、育鵬社、H28
d. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 今泉宜子『明治日本のナイチンゲールたち 世界を救い続ける赤十字「昭憲皇太后基金」の100年』★★★、扶桑社 、H26
2. 明治神宮『昭憲皇太后さま』★★★、鹿島出版会、H12
■おたより■
■編集長・伊勢雅臣より
たしかにシナ、朝鮮に比べれば、日本の近代化は大変なスピードで進展しましたが、それには皇室が牽引された、という面があるのでしょうね。
著書第3弾『世界が称賛する 日本の経営』の編集作業を進めています。今回は、開国後わずか半世紀で日本を世界五大国の一つに成長させ、戦後の奇跡の復興と、高度成長をもたらした先人たちの足跡を辿り、その「日本の経営」のパワーの源を探ります。これを思い出せば、日本経済も日本企業もかつての活力を取り戻せます。2月28日に発売となります。ご期待ください。
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