JOG(1318) 最上徳内 ~ 蝦夷地開発と防備の先導者
最上徳内は25年間に千島列島や樺太を9回も探検し、ロシアの南下に備えた開発と防備を唱えた。
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■1.「オロシア人だ!」
砂浜に座るアイヌの男女に混じって、後の方でかしこまっている三人の男たちの姿が最上徳内(もがみ・とくない)の目に止まった。
「オロシア人だ!」
徳内は、胸の内で叫びました。天明6(1786)年5月、択捉(エトロフ)島の北端の海岸でのことです。北海道本島から東北にカムチャッカ半島までに伸びる千島列島で、最南端の国後(クナシリ)島のすぐ北にある島です。徳内は幕府役人として、初めて択捉島に上陸したのです。
国後島のアイヌから、択捉島にロシア人が住んでいると聞きました。徳内はこれをロシア本国から使わされた密偵ではないか、と疑い、逆に彼らの国情を探ってやろうと考えました。そこでアイヌの漕ぎ手を励ましながら、国後島から激浪渦巻く海峡を渡り、さらに択捉島の海岸伝いに東北端に辿り着いたのでした。
3人のうち2人は茶褐色の髪で、色白の顔が赤く雪焼けしています。赤ら顔から天狗のような高くて大きな鼻が突き出ていました。紅色の燕尾のような服をはおり、黒いズボンを履いています。もう1人は召使いのようで、黒い髪を後ろで結んで背中に長く垂らしていました。
徳内が何歩か進むと、3人も歩み寄り、脱帽して黙礼をしました。徳内も黙礼を返します。これが歴史上、初めて幕吏とロシア人が接触した瞬間でした。
■2.「なに! 択捉より先に19も島があるのか・・・」
その夜、アイヌとロシア人3人も交えて酒宴が開かれました。アイヌとロシア人はそれぞれの民族の唄と踊りを披露します。徳内も負けじと馬子節を唄いました。
翌日、徳内は3人に飯を振る舞い、ここまでの道中で学んだばかりのアイヌ語で語りかけました。3人の主人はイジョヨと言い、32歳の青年でした。イジョヨも片言のアイヌ語で答えます。
彼らは択捉島より一つ北の得撫(うるっぷ)島にラッコの毛皮を獲りに来たのですが、船が嵐で難破し、泳いでここに辿り着いたと言います。徳内が千島列島の島々を尋ねると、イジョヨは草屋の外に出て、地面の上に棒きれで地図を書き始めました。そして、島の一つ一つのアイヌ語名とロシア語名を説明します。
「なに! 択捉より先に19も島があるのか・・・」と徳内は驚きました。ロシアは20年も前から探検と測量を進め、それによると、国後島が北から第20島、色丹島が第21島、そして蝦夷(北海道本島)が第22島だと言うのです。徳内は、イジュヨの得意気な顔を眺めながら、遅れをとったことに唇を噛み、胸の内でつぶやきました。
この後、徳内は千島列島の向こうにあるカムチャッカを目指し、択捉島の一つ先の得撫島に上陸しましたが、すでに7月下旬。夏が終わる前に、帰還の途につかなければなりませんでした。
■3.幕府の北方探検隊への参加
最上徳内は宝暦5年(1755)に出羽国(山形県村山市)楯岡の郷村で、半農半商の家に生まれました。7、8歳頃から学問に憧れましたが、貧しい家で塾に通えません。そこで同年配の子供たちから話を聞き、書物を読んで貰うだけで、読み書き・算術を会得しました。10数歳の頃には親が作った煙草を売り歩きましたが、必ず漢籍や算術の本を懐にしていました。
26歳になると弟妹も成長していたので、江戸に出て学問を志しました。26歳の江戸出府は、当時としても晩学です。29歳で縁を得て、本多利明の塾に入門しました。入門と言っても下僕として雑用を務めながら、師の講説に聴き入るのです。本多利明は北夷斎と自称し、南下するロシアに備えて蝦夷地を開拓すべしと唱えていました。
当時はロシアの艦船が千島海域を遊弋(ゆうよく)し、さらには三陸沖合や房総沖合まで南下する姿が見られていました。幕府が内密の調査をしたところ、松前藩が蝦夷地で商売を任せている商人たちが、ロシアとの密貿易をしていることまで判明しました。
そこで老中・田沼意次の指示により探検隊が組織され、一隊は北海道の西海岸を北上して樺太方面へ、もう一隊は東海岸から千島列島へと、二手に分かれて派遣されることになりました。
利明はこの絶好の機会に、根回しをして探検隊に加わりましたが、急病となり、兼ねて見込んでいた徳内を代役として潜り込ませました。測量棒を持つという軽い役目でしたが、日本国のために、という使命感を抱いていた徳内は、勇んで参加しました。天明5(1785)年、徳内31歳の時です。
そして、翌年には、上述のようにただ一人、択捉島にまで渡り、ロシア人から直接、千島列島南下の状況を聞き出した徳内は、一躍、北方探検の雄として全国に名を轟かせたのです。
■4.ロシアの南下を隠す松前藩
ロシアがウラル山脈を越えて、シベリアに進出したのは1578年、日本ではまだ戦国時代でした。以来、ロマノフ王朝は東へ東へと領土を拡張し、5代目ピョートル大帝の1697(元禄10)年、アトラソフがカムチャッカ半島を探検し、ロシア領との標識を建てました。彼はこの半島の南方に「ニッポン」という国があるのを知っていて、「日本近し!」と叫んだといいます。
そして、そこに漂着していた伝兵衛を首都ペテルブルグに伴い、ピョートル大帝に日本事情を話させました。大帝は将来の日本との接触に備え、日本語学校まで開設させます。こうした経緯で千島・樺太探検が盛んに行われ、日本進出はロマノフ王朝の伝統的政策になっていたのです。
一方、幕府は松前藩に蝦夷地を藩領として任せきり、また松前藩はロシア南下を幕府に報告もせず、むしろ責任回避のために事実を隠そうとしていたのです。
そればかりか、松前藩は幕府から蝦夷地の統治を任されて80年以上にもなるのに、生活基盤として道路を作るわけでもなく、アイヌに農業や漁業も教えず、ただ、アイヌとの交易で利益を貪っていました。
それも不法、非人道的な搾取まで行っていました。寛政4(1792)年、樺太探検を命ぜられた徳内は、現地で松前藩がアイヌを仲立ちとして、大陸のアムール河沿いに住む山丹人との抜け荷(密貿易)をしていることを知りました。
山丹人は清朝から下賜された錦の官服や青玉(ガラス玉の一種)を樺太に持ち込み、それをアイヌの毛皮と交換します。松前藩はアイヌの持ってきた錦や青玉を、麦や稗や粟などの穀物と交換します。食料の足りないアイヌは、なんとしてでも錦や青玉を手に入れなければなりませんが、毛皮が十分に獲れない時は、山丹人に借りを作ります。
その利息が法外で、翌年、支払うことができないと、アイヌの青年たちが人質として、大陸に連れ去られていくのです。徳内も、樺太で奴隷として売られたアイヌの青年と出会い、義憤に駆られています。
■5.蝦夷地防衛の基盤は、アイヌへの仁政
徳内は、蝦夷地をロシアから守るためにも、まずはアイヌに仁政を施し、彼らが喜んで幕府の統治に従うことが不可欠だと考えました。ロシアの手が千島列島や樺太から北海道本島にまで伸びた時に、アイヌがロシアの統治を歓迎して力を貸したら、いくら幕府が武力を投入しても、蝦夷地は維持できません。
そのためにも、松前藩のようなアイヌ搾取の統治ではなく、蝦夷地に道路や畑を開いて、豊かな経済を築くことが、アイヌを引き留め、また日本国全体を豊かにする道だと考えていました。
特に徳内は、アイヌは和人と同種、同族だと思っていました。この点は現代のDNA分析からも正しいことが判明しています[JOG(1295)]。その同族が、異人によって支配されていくことには我慢がなりませんでした。[乾、p205]
アイヌへの仁政の手始めとして、徳内は寛政3(1791)年、北海道東南部、根室半島と釧路のなかほどにある厚岸(あっけし)に滞在していた際に、交易に使われている升(ます)や秤(はかり)を正しいものにさせました。
さらに、アイヌの老人や子供には飯を振る舞い、貧窮の者には手当を与えたところ、彼らは唄を唄い、踊りを舞って、大喜びでした。それだけのことをしても、なおかつ千両余りもの剰余が得られました。蝦夷の大地は、それほど豊かなのです。
■6.近藤重蔵との意気投合
寛政10(1798)年、異国船の近海への出没に幕府も危機感を募らせ、蝦夷地の開発と防衛に乗り出すことを決定して、180余名からなる巡察隊を送り込むこととなりました。その意見書を提出した近藤重蔵から、徳内は指名されて配下に加わりました。重蔵は徳内に補佐されて、択捉島まで行き、「大日本惠登呂府(エトロフ)」の標柱を建てたのです。[JOG(1308)]
徳内と重蔵は、アイヌを搾取するだけの松前藩から蝦夷地を取り上げ、幕府直轄の統治により開発と防備を進めるべきだ、という考えで意気投合しました。
徳内の報告書や重蔵の建白書により、翌年、東蝦夷が幕府直轄とされました。重蔵は蝦夷地取締御用に任命されて、択捉島で17カ所の漁場を開かせ、漁網を用いた漁獲方法を指導して、アイヌたちを喜ばせました。後にロシアとの国境交渉で、択捉島以南を日本領と取り決めることができたのは、こうした開発実績があったからです。
以降、幕府は択捉・国後の両島に津軽藩・南部藩の藩士500名ずつを派遣させ、防衛警備にあたらせました。
■7.ロシア船の襲撃
文化4(1807)年3月には、西蝦夷も取り上げられ、蝦夷地全域が幕府直轄領となりました。これに伴い、徳内は箱館奉行支配調役並に取り立てられ、樺太奥地の調査を命じられました。
そこに伝えられたのが文化露寇です。数年前に来航したレザノフの通商要求を幕府が断ったため、その報復としてレザノフの部下が前年9月に樺太の松前藩居留地を襲撃した事件です。現地では船を焼かれて連絡手段がなくなり、翌年4月にようやく幕府に報告が届きました。
翌月には択捉島の幕府施設も襲われ、食料や武器などが略奪されました。江戸市中でも様々な風評が飛び交い、鍛冶屋は慌てて鎧兜を作り、古着屋は陣羽織を売り出すなど、騒然たる有様でした。
徳内は樺太探検の命を取り消され、シャリに駐屯する津軽藩兵100名の指揮官を命ぜられました。シャリは現在の斜里町、知床半島の北側付け根にあたり、千島と樺太を両にらみできる重要拠点です。敵側から見ても、蝦夷地への橋頭堡として狙われる可能性がある場所です。いざ、ロシア軍艦が襲ってきたら、地理にも敵情にも明るい徳内が適任、とされたのです。
文化5(1808)年2月には、樺太詰めを命じられました。ロシアが再び来寇した場合、あるいは昨年、一昨年の襲撃の詫びを入れくる場合と、硬軟両様の対応が必要となるので、かねてから対露策の意見具申をしていた徳内が適材とされたのでした。
なお、この時に樺太奥地の状況を調査するために、間宮林蔵と松田伝十郎が派遣されています。間宮林蔵は、樺太が大陸の半島ではなく、分離した島であることを確認し、この調査が後の国境画定交渉で役立ちました。[JOG(302)]
■8.「百年の後は蝦夷地一円悉く本邦の如くにならむ」
徳内は天明5(1785)年、31歳での最初の国後・択捉島への渡航から、文化7(1810)年、56歳時の樺太からの帰還まで、25年にわたって、合計9回も蝦夷地を探検しました。
徳内の功績はなんと言っても、松前藩のアイヌ収奪とロシア南下隠蔽による危機を天下に明らかにした事でしょう。幕府が松前藩の領地を取り上げて直轄領としたのは、幕府としても大きな変革でした。徳内の活動によって、北辺の危機的状況が明かされなかったら、幕府も泰平の眠りを決め込んでいたかも知れません。そうなれば、今の北海道はどうなっていたことか。
幕府が任命した初代の蝦夷奉行・羽太正養(はぶとまさやす)は、その著書『休明光記』に、海防と仁政によるアイヌ心服を達しうるなら、以下のようになるだろうと述べています。
まさしく徳内の年来の主張が、幕府の蝦夷地統治の責任者の口から出されています。
蝦夷地はその後、一旦は松前藩の執拗な根回しで返還されますが、日露和親条約による函館開港後は蝦夷地のほぼ全域が箱館奉行の管轄下に入り、維新後は明治2年に北海道開拓使が設置され、急速な開発が進められました。
現在の北海道が、羽太正養・蝦夷奉行が予言した通り、「蝦夷地一円悉く本邦の如くに」なり、「新たに一国湧出たる」ようになったのは、まさに最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵など、北方開発と防備を先導した人々のお陰なのです。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・島谷良吉『最上徳内』★★、吉川弘文館、H01
・乾浩『北冥の白虹―小説・最上徳内』★★★、H15
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