JOG(38) 欧米から見た日本の開国-吉田松陰
ペリーの船に乗り込んで海外渡航を目指した吉田松陰の事件は、スティーヴンソンをして「英雄的な一国民」と感嘆させた。
■1.日本開国のニュース■
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私が日本に来る一二年も前のことである。日本では当時ペリイ提督が神奈川にやってきて、将軍の太平の眠りを覚ましてゐた。私はといへば、生れ故郷のリョンの八五五に住み、国立高等中学の四年で気楽な青年であった。フランスやイギリスでは、帝国日本が鎖国を解いてヨオロッパに開国したといふニュースが、大変な評判となってゐた。新聞には、熱っぽい賛辞が並んだ。といふのも此の高貴な国は、一六世紀にフランシスコ・ザビエルの手紙に熱っぽく紹介されてからといふもの、ヨオロッパ、就中(なかんづく)ローマにおいては忘れ去られたことがなかったからである。[1]
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開国後、最初に日本に派遣されてきたカトリック宣教師の一人エメ・ヴィリヨン神父の回想である。当時の日本の開国が、欧米諸国で大きなニュースとなっていた様が窺われる。その矢先に、欧米人の胸に強く日本人の特性を印象づける事件が起こった。
■2.密航を企てた日本の青年■
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さて、或る日の夕方のことであった。判事を勤める兄が裁判所から帰宅すると、例によって兄は「センチュリイ」といふ新聞を読んでゐた。そして突然「ほおっ」といふ声をあげたのである。
「何とも面白い記事があるよ。--アメリカのフリーゲート艦ミシシッピイ号が江戸湾に到着した。と或る日の夕方、きりっとした身なりの貴高き風貌の日本の青年が、ちっぽけな小舟を漕いで、同艦に乗り込んで来た。アメリカで勉学をしたい、船に乗せて連れて行ってほしい、これはたっての願ひである、といふことを、青年は非常に丁寧に懇願した。--提督はこの勇敢なる青年の懇請をけって、頑固に反対し、断固として拒絶するのである。青年は、もしも陸に送り帰されると、将軍の迫害追及の手がどこまでも延びてきて、生命の危険すらあると述べた。かかる立派な申し出にたいし、アメリカの提督は、強情にも、この申し出に応じようとはしなかった。本当に残念なことである。その青年が出国したところで、厳重な鎖国下の専制政治に傷がつくこともあるまいに云々と、新聞は非難してゐると言ふ。
父もそれを受けて、同じく提督の硬直ぶりを非難した。「この規則一点張りの馬鹿さ加減こそ度しがたいものだ。いかにもアメリカ人のやりさうなことだ」。私もそれに付け加へて青年らしい意見を言った。「実際アメリカの士官たちが馬鹿なんだ。 気の毒なのはこの青年。あとで余り厳しく罰せられなければよいが--」。その当時、名前こそ新聞には出てゐなかったが、この青年こそほかならぬ吉田松陰だったのである。[1]
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吉田松陰と同行者金子重之助の、死を賭しても欧米諸国の知識を学ぼうと、ペリーの船に乗り込んだ事件がヨーロッパでも大きく報道されていたのである。この事件を当時の欧米人の目から、追ってみよう。
■3.ペリーの共鳴■
ペリー提督と士官達は、ヴィリヨン神父が思ったほど、頑迷ではなかった。松陰の勇気ある行動に共鳴していたのだが、日本との外交関係を考えて、残念ながらその願いを拒否せざるをえなかったのである。「ペリー日本遠征記」の著者ホークスは次のように事件を描写している。[2]
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港には高いうねりがあったので、(松陰達は)かなり苦労をして旗艦へたどり着いたが、階梯に足をかけ舷門まで上るがはやいか、小舟は、偶然か、あるいは、わざとそうさせたのか、船艦から漂って離れていった。
甲板までやってくると、士官は二人の来たことを提督に通告した。提督は通訳をさし向けて話し合わせ、この時ならぬ訪問の目的を知った。彼らの目的は、合衆国へ連れて行ってもらって、国内を旅行し、世界を見たいという希望を満足させることだと、率直に告白した。彼等は陸で士官たちに会い、その一人に手紙を渡したあの二人の男だと認められた。
小舟でやってきたため、ひどく疲労してみえた。立派な地位の日本の紳士だとは分かったが、着物は旅でだいぶくたびれていた。・・・彼等は教養を身につけており、流暢に、また、見た眼に優雅に標準的な漢文を書いた。動作は礼儀正しく、非常に洗練されていた。
提督は来艦の目的を知ると、日本人をアメリカへ同行させたいのはやまやまであるが、受けいれるわけにいかないことを残念に思うと伝えた。彼等が幕府から許可を得るまでは--艦隊はまだしばらく下田港に停泊するから、許可を得る機会は十分にあるであろうから--提督は二人を拒絶せざるを得ないと語った。
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送り返された松陰は、いさぎよく幕府に自首し、囚われの身になる。ペリーは、「その犯行をいかに些細なものと考えているかを日本の役人に印象づけようと注意深く努力をして、その犯行に対して服すべき刑罰を軽くしてほしいと願った。」
■4.英雄的な一国民■
ホークスは、この事件から受けた日本人の印象を次のように語っている。[2]
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この事件は、厳しい国法を犯し、知識をふやすために生命まで賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、興味深いことであった。日本人は確かに探究好きな国民で、道徳的・知的能力を増大させる機会は、これを進んで迎えたものである。この不幸な二人の行動は、同国人に特有のものだと信じられる。また、日本人の激しい好奇心をこれほどよく示すものは他にはあり得ない。・・・ 日本人のこの気質を考えると、その興味ある国の将来には、何と夢にあふれた広野が、さらに付言すれば、何と希望に満ちた期待が開けていることか!
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吉田松陰のような人物を生みだした国民に、素直な驚きを寄せているのである。同じ事は、次の「宝島」の作者・文豪ロバート・ルイス・スティーヴンソンの言葉にも窺われる。
スティーヴンソンは明治11~12年頃、英国に出張中の正木退蔵(13歳の時に松陰に師事した)から、松陰の話を聞いて感銘を受け、英国でも広く知られるべき人物だとして、"Yoshida Trajiro" という文章を遺している。その文章は次のような一節で結ばれている。[3]
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一言付け加えておかねばならない。これは英雄的な一個人の話であるとともに、ある英雄的な一国民の話だということを見損じないでほしいと願うからである。吉田のことを脳裏に刻み込むだけでは十分ではない。あの平侍のことも、日下部のことも、また、熱心さのあまり計画を漏らした長州の18歳の少年ノムラ(野村和作)のことも忘れてはならない。このような広大な志を抱いた人々と同時代に生きてきたことは、歓ばしいことである。
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■5.決死の密航の目的■
しかしホークスが吉田松陰の行動を「激しい知識欲」から来たものだと捉えたのは、正しくない。ハインリッヒ・デュモリン上智大学名誉教授は、その動機を次のように記している。[1,p24]
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ペリイの率ゐるアメリカの遠征艦隊が、強いて日本を開国させようとして、日本の鎖国の扉を初めて叩くのが、ちょうどその頃であった。従って志士たちの国土防衛の努力は、今や新たな意義を帯び、未来の漠然とした不安といったものでは決してなく、現今の焦眉の問題となった。松陰はアメリカの艦隊を浦賀で初めて眼のあたりにして、外国の軍事的優勢について、認識を大いに新たにしたのである。
直ちに松陰には、外国の兵制を根本から研究することが、不可避の急務と感じられた。外国旅行の計画は、早くも、機が熟したのである。江戸の著名な兵学者である佐久間象山も、松陰を励ました。国家の急務といふ観点からすれば、幕府の海外渡航の禁令など、取るに足らないものと映じてゐたのである。
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シナのアヘン戦争敗北の情報はただちに日本に伝えられ、欧米帝国主義の実態は十二分に認識されていた。自ら兵学家であった松陰は、国家の独立を維持するためには、何よりも欧米の軍事力に追いつかなければならないと考えた。決死の密航は、そのためのものだったのである。
■6.明治日本を生みだした精神■
幕府に自首した吉田松陰は、郷里の萩に送られ、やがて蟄居の身ながら、近隣の子弟の教育を始める。有名な松下村塾である。
ここから、桂小五郎(後の木戸孝允、幕末維新の功労者、文部卿・内務卿・参議)、高杉晋作(奇兵隊総督)、山県狂介(有朋、日露戦争時の参謀総長、陸軍大将・元帥)、伊藤利介(博文、首相、憲法制定に参与)など、文字通り、維新を断行し、明治の日本を作った人々が輩出した。
日本が近代世界史に登場したその直後に敢行された吉田松陰の密航事件は、スティーヴンソンをして「英雄的な一国民」と感嘆させたのだが、それはやがて現実となって、世界史の奇跡と呼ばれる明治日本の躍進をもたらしたのである。
[参考]
吉田松陰-明治維新の精神的起源、ハインリッヒ・デュモリン、 東中野修道編訳、南窓社、S63
ペリー日本遠征記、ホークス、吉田松陰全集、別巻、S49
吉田寅次郎、スティヴンソン、吉田松陰全集、別巻、S49
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