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JOG(791) 江戸時代の外交官・雨森芳洲

朝鮮との外交を担当した雨森芳洲は、道理と親交に基づく「誠信の交わり」を目指した。


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■1.朝鮮通信使、来る

 正徳元(1711)年10月、朝鮮国王の国使・朝鮮通信使が、対馬、大阪、京を経由して、江戸に着いた。総勢500人近い使節団が大名行列のように練り歩き、なかには馬術の曲芸師や強弓を引く武芸者がいたりして、集まった見物人たちの目を驚かせ、楽しませた。

 朝鮮通信使の目的は、宝永6(1709)年に将軍綱吉が没し、家宣が将軍となったことを祝賀することだった。将軍の代替わりのたびに、こうした大規模な使節団が送り込まれていたのである。

 新将軍の侍講、すなわち師である新井白石が、この朝鮮通信使接遇の采配をふるった。白石は今回の受入れでいくつかの改革案を示していた。華やかな通信使到来の舞台裏では、これがために様々な波風が立っていた。

 当時、対馬藩は幕府から朝鮮との貿易や交際、連絡の一切を任されており、通信使に同行して世話をする役割も担っていた。その中心人物が雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)であった。

 白石と芳洲は、ともに江戸の儒学者・木下順庵(じゅんあん)の許で学んだ兄弟弟子であった。白石の方が11歳年長で、門下の中心人物であった。さらにこの時点で、白石は天下の将軍の侍講であり、かたや芳洲は辺境の小藩の一官僚に過ぎなかった。それにも関わらず、芳洲は通信使接遇に関する白石の改革案に異を唱えたのである。

■2.「大君」か、「日本国王」か

 白石の改革案の一つに、朝鮮国王から将軍に送られる国書の宛名を、従来の「大君殿下」から「日本国王」に変更させようという事があった。

 その狙いは将軍の権威を高めようというところにあったようだが、白石なりの根拠を準備していた。一つは、将軍を外交の場において「日本国王」と呼ぶ前例は、室町時代にもあったという事。さらに天皇は中国の皇帝に相当し、その臣下である将軍を、一段下の国王と呼ぶのは、名分論から言っても問題はないということであった。

 この白石の考えに、芳洲は異を唱えた。まず「大君」という言葉はいろいろな意味で使われ、将軍を指すこともできるが、王といえば意味は一つ、その地の主権者ということである。そして日本国王と言えば日本の主権者という事になり、天皇の尊厳を冒す。

「大君」の称号は、すでに前例となっており、朝鮮側も納得して使っているのに、なぜわざわざこんな問題の多い表現に変えなければならないのか。

 芳洲はこの反論を結ぶにあたって、こう述べている。芳洲の気概がよく窺える。

 幕府の威を恐れて、みずからの安全を計って口をつぐんでしまうとしたら、日頃勉強してきた書物に何の意味があるというのか。たとえ、罰をこうむることがあるとしても、甘んじて受ける覚悟である。[1,p122]

■3.白石の次々とふっかける難題

 白石は芳洲を権力で罰するほどの雅量に欠けた人物ではなかったが、その反論は受け入れなかった。国書の宛名を「日本国王」とするよう求めた文書が朝鮮側に届いたのは、国書も作成され、使節が釜山に向けて出発した後だった。

 朝議では、いまさら国書を書き換える事に反対する声が多数を占めたが、先例もあり、かつ日本国王なら朝鮮国王と同等で、さらに「事急迫に及んで、その要求に応ずるようになったのでは、真に弱を示すものである」との意見が、国王の容れるところとなった。

「事急迫に及んで」とは、武威による脅迫を受けて、という意味であろう。当時は、秀吉が朝鮮に大軍を送った文禄・慶長の役[a]から百年余しか経っておらず、朝鮮側では日本の武威を恐れていた。

 白石は朝鮮を見下していた。自身で次のように記している。

 日本に送られてくる通信使は、日本向けには将軍の襲位祝賀をうたいながら、朝鮮の文献を読んで見ると、敵情探索を名目としている。・・・大体、朝鮮は信義のない国であって、(JOG注:文禄・慶長の役で朝鮮側を助けて出兵した)明が清に攻められた時も一人の援兵も送ろうとはしなかったではないか。[1,p130]

 白石は、大坂の客館に入った使節を日本側の使者が訪問する際、通信使が階の下まで降りて出迎えるよう要求したり、また国書中に先の将軍・家光の名の一字「光」が入っているので書き換えを要求するなど、朝鮮側に難題をふっかけた。

 白石のこうした態度は、通信使を対馬で出迎え、その後、使節団に常時同行して接遇にあたっていた芳洲を悩ませた。

■4.朝鮮通信使たちとの親交

 しかし、芳洲のまごころのこもった応対は朝鮮使節一行に感謝された。長い旅の間中、使節団の一人一人と芳洲の間で、漢詩のやりとりが続いた。現代日本語で紹介すると:

 立派な学者が僻地に住んで惜しいことだ。
 君の才能に優るものはない。
 客を応接し礼をつかさどって、儀に欠けるところなし

 芳洲は白石の改革案に悩まされながらも、礼の失するところのないよう苦労していることを通信使の一行はよく見ていた。

 また、一行の中には詩文を作ることを任務とする製述官までいて、芳洲とは特に親しく交わり、こんな一編を残している。

 酒をくみ、かにをつまんで実にいい気分。
 夜寒にろうそくの火がゆれている。
 君の宿は禅庵の近くだって。
 明日になったらまた一杯やろう。

 当時の朝鮮は儒学をもって国教とし、通信使の中心である正使、副使、従事官らは、みな儒学の国家試験である科挙で選抜された文人官僚である。自らの作詩の能力を誇り、また出会う人物も詩文の能力で評価していた。若い頃から木下順庵のもとで、詩文を学んでいた芳洲は、この面でも評価されたのである。

 一方、白石は木下順庵一門で詩文の面でも抜きんでた存在であった。そして通信使一行は「文禄・慶長の役の恨みを文事によって雪辱しようとしている」と受けとめ、それならこちらも文事で立ち向かって屈服させてやろう、という意気込みだった。

 白石の改革案で通信使一行はさんざん悩まされたが、白石の漢詩の素晴らしさは通信使たちの認める所となり、通信使たちは彼の詩集を持ち帰って、その名声を伝えた。

■5.朝鮮語とハングルの学習

 芳洲が通信使一行と親交を結べたのは、その誠実な人柄と詩文の能力だけでなく、朝鮮語を話せたという点も大きかった。

 通信使一行の一人は漢詩で「芳洲は日本でも傑出した人物である。しかも言葉が我々と同じなのだから」と詠み、注をつけて「芳洲は韓語に通じていて、年とった訳官もおよばない」と評しているほどである。

 朝鮮との外交、貿易を担当していた対馬藩は、釜山に4、5百名の人員を要する在外公館兼商館を持っていた。芳洲は35歳の時から数年間、そこに駐在した経験を持っていた。

 朝鮮との文書のやりとりは漢文であり、また漢文の筆談で交渉もできたが、宴席などでは、やはり朝鮮語でないと打ち解けた会話はできない。

 そこで芳洲は朝鮮語の勉強を始めるのである。当時は、朝鮮語の教科書も辞書もなかった。そこで朝鮮語の学習書を作りながら、学習した。合計16冊の教科書を作り、そのうちの一冊は、明治初年に外国語学校での教科書の原型ともなっている。

 またハングルで書かれた小説を自ら書き写して、ハングルを覚えた。朝鮮の知識人は幼い頃から漢文を学び、ハングルは女子供、下層階級が使うもの、という通念があった。しかし、芳洲は、朝鮮には輸入された漢文文明の基底に民族固有の文化があり、それを深く理解するには、朝鮮語とハングルを学ばなければならない、と考えた。

 国と国との交際を担当する外交官は、相手国の文化を深く理解する必要がある、という近代的な考え方を芳洲は持っていた。

 同時に、相手国の文化を良く知るには、まずは自国の文化、歴史伝統を深く理解していなければならない。白石の「日本国王」という称号を国体論から堂々と批判したように、芳洲は日本の国柄についても、深い学識を持っていた。

 その学識があったればこそ、中国の自国のみを文明国とする中華思想に関しても「国の貴きと卑しきは、君子小人の多きと少なきと、風俗の良し悪しにこそよるべき」と否定していたのである。

■6.芳洲の怒り

 しかし、外交とは友好だけではない、という事も、芳洲はよく心得ていた。享保4(1719)年、将軍吉宗の襲位を慶賀する朝鮮通信使がやってきた。一行が対馬に着いた時、この時の製述官が藩主への拝礼を拒否した。

 当時、対馬藩主は貿易の便宜のために、形式的に朝鮮国王に臣下の礼をとっていた。倭寇の取り締まりと貿易の統制を行うという役割で歳賜米も支給されていた。

 製述官曰く、対馬藩主は朝鮮国王に臣従する地方官であり、自分は中央官で同格だから、藩主に拝礼することを拒否する、と。訳官は恐れて通訳することをためらったが、芳洲は朝鮮語を理解するので、憤然として言った。

 両国が友誼を結んで以来、この礼が慣習である。突然これを廃するとは、我々をあなどるものではないか。

 芳洲は怒気甚だしく、日本語で責め立てた。こういう場合は、いくら相手国の言葉ができても、自国語で主張して、通訳させるのが、対等な議論をするための筋である。

 形式上、対馬藩主が朝鮮国王に臣従しているからと言って、朝鮮国内の礼法を持ち出して、外交の場で主張するのは妥当ではない。礼法は各国それぞれに異なるもので、外交の場ではそれが食い違う事も多い。そうした紛争を避けるために、「前例」が重んじられるのであって、突然、自国内の「理」をもって慣習を破ることを、芳洲は非としたのである。

 この場は藩主が出席せずに宴をとりおこなう事で収まったが、気まずいものとなった。しかし、二人は長い道中で、徐々に親交を深めていき、ついには冗談も言い合うような仲になる。

 主張すべきは主張するからこそ、心からの親交も実現する。その親交がまた率直な議論を可能にする。そのような外交の機微を、芳洲は心得ていた。

■7.筋を通す

 芳洲の外交官としての非凡なセンスを窺わせる一件がある。31歳で対馬藩の外務次官ともいうべき役職に任命された時、幕府が慶長銀から元禄銀へと銀の品位を落とした。生糸、朝鮮人参などの輸入に対して、代金は銀で支払っていたので、当然、慶長銀と元禄銀の交換比率が問題となった。

 銀の含有量の比率は125%だったが、朝鮮側は自ら「吹き分け」を行って銀の含有比率を出したとして、129%だと主張した。対馬藩は、朝鮮の吹き分けは下手だからとして125%を譲らなかったが、朝鮮側は納得しない。論争の間、貿易量は激減していた。

 翌年、朝鮮側は127%なら良いと言ってきた。対馬藩でもこのまま貿易が激減していたのでは困ると、妥協しようとした。これでは100両ごとに、2両の損を日本側がかぶることになる。

 芳洲は、このような理の通らない妥協には絶対反対だった。換算率などは銀の含有量を測定して定めるべき事で、交渉で決めるべきことではない。こんな前例を作ったら、朝鮮側が今後、貿易断絶をちらつかせて、無理難題をふっかけてくる恐れがある。妥協として朝鮮側に利をとらせるなら、別に筋の通る手段で行うべきだ、と芳洲は主張した。

 結局、藩は貿易断絶を恐れて127%で妥協した。芳洲は就任後20日足らずで「解職願い」を出した。しかし、芳洲ほどの人物は余人をもって替える事ができず、藩はそれを受理しなかった。

■8.誠信の交わり

 芳洲は61歳の時に、対馬藩主に対朝鮮外交の心得を説いた『交隣提醒』を著した。そこでは多くの外交紛争の事例を挙げた上で、最後に互いに「欺かず争わず」の「誠信の交わり」を説いている。

「争わず」とは対立点について妥協して、とにかく丸く収めようとすることではないだろう。主張すべきは主張して、互いの理解に至った後で生まれる本当の友好である。

 こういう「誠信の交わり」を実現するためには、相手への文化的理解と、筋の通った合理的主張が両輪となる。300年近くも前に、このような近代的な外交を説く人物が我が国にはいたのである。

 現代の近隣諸国は、従軍慰安婦[b,c]やら、南京大虐殺[d,e]やらで日本を欺き争う前時代的謀略外交を展開しているが、我が国はあくまで事実と道理に基づいた主張をしていくという姿勢が求められる。それが真の「誠信の交わり」に至る道である。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 上垣外 憲一『雨森芳洲―元禄享保の国際人』 ★★、中公新書、H1

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