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JOG(187) 皇太子のヨーロッパ武者修行

 第一次大戦後の欧州を行く裕仁皇太子は何を見、何を感じたか?


■1.大英帝国の最大級の歓迎■

 1921(大正10)年5月9日午前9時、ポーツマス軍港では大英帝国の誇る世界最大最強、威風堂々の大西洋艦隊が、満艦飾で華やかに飾った旗艦「クイーン・エリザベス」以下、うち揃って出迎えていた。やがて21発の皇礼砲が鳴り響く中、裕仁皇太子の御召艦「香取」と随艦「鹿島」が入港し、ポーツマス軍港の桟橋に横付けになった。
 エドワード皇太子が乗艦し、陸軍正装に身を包んだ裕仁皇太子と記念すべき握手を交した。その後、一行は桟橋から宮廷専用列車に乗り込み、午後12時40分、ロンドンのビクトリア駅到着。国王ジョージ五世が御自ら王族関係者、政府閣僚を引き連れて裕仁皇太子を出迎えた。
 馬車でバッキンガム宮殿に向かう。沿道は黒山の人だかりで、市民達は手を振り、帽子をあげ、歓声をあげて同盟国・日本の皇太子を迎えた。
 第一次大戦が終わって3年、飢えと失業が英国全体を覆っていが、第一次大戦で日英同盟のもと、ともに戦ってくれた日本の皇太子を、大英帝国は最大級の歓迎で出迎えたのである。

■2.皇太子「箱入りご教育」の危機感■

 裕仁皇太子のご訪欧は、3月3日から9月3日まで、6ヶ月にわたる旅だった。ロンドン・タイムズは出発日の社説で次のように述べた。
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 3月3日は日本の歴史上最も記念すべき日の一つとなるであろう。裕仁殿下は、きょう横浜からわが国訪問の旅に出られる。日本の皇太子が国外に出られるのはこれが初めてである。これは世界最古の皇室の歴史の中で明治維新にも匹敵する大きな出来事である。
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 史上初の皇太子外遊に対して、日本国内では右翼だけでなく、政治家や言論人の間からも反対論が巻き起こっていた。欧州各国は大戦後まもなくで政情安定せず、英国も長期ストの最中にあり、不測の事態が起こる事も充分予想されたからである。その激しい反対をはね返して、外遊実現にまでこぎつけたのは、元老・山県有朋、松方正義、西園寺公望の3人の元老、それに原敬首相の執念であった。
 これら人々は裕仁皇太子の教育問題について、深刻な問題意識を持っていたのである。たとえば山県が皇太子に拝謁した際、「御返詞なく、何も御下問なく、あたかも石地蔵の如き御態」であったとして、「箱入りご教育」が問題だと指摘した。原首相も、皇太子教育の状況については、「真に憂慮し居る次第」だと山県に語っていた。
 大正天皇のご病気で、松方などはすでに成年式を迎えた皇太子による摂政就任を考えていたが、これでは日本の前途はどうなるのだろうか、と危機感は深刻だった。その元老達が考えたのが、史上初の皇太子外遊というアイデアだった。
 外遊によって各国王室と交流し、また著名な政治家や軍人達との会話を経験することとなる。ちょうど大戦後の欧州では戦勝国、敗戦国の消長やデモクラシー思想の拡大などを目の当たりにできるまたとない機会である。
 しかし20歳過ぎたばかりの「石地蔵」のような「箱入り」皇太子をいきなり国際政治の檜舞台に登場させて、実践教育させようとは、さすがに白刃のもとをかいくぐって明治維新をなしとげた山県らの大胆さであった。

■3.船内の特訓■

 出航してまもなく、皇太子は高級士官たちと午餐会で席をともにした。殿下のフランス語教師を担当していた山本信次郎大佐は、誰かがチューチューと音をたててスープを吸い、ナイフやスプーンを皿にぶつけてカチカチ鳴らしているのに、我が耳を疑った。とんだ不作法な人もいるものだ、と眉をひそめて見回すと、それはなんと皇太子であった。
 宮中では今まで何を教えていたのか、これでは外国王室や貴顕の前に恥をさらしに行くようなものではないか。山本は決心し、フランス語の時間にテーブルマナーを教え、また食事のたびに細かな注意を与えた。
 船中では運動不足を補うために、デッキゴルフや柔道をした。宮中では、お相手が力をセーブして、皇太子がかならず勝つと決まっていたが、山本や他の随員は、フェアプレー精神で正々堂々と勝負をつけ、そこから自らの技術のほどを自覚して、向上心を持つ事が大切だと考えたようだ。以来、皇太子はなかなか彼らに勝てなかった。柔道でも遠慮なく、ドシン、ドシン、と投げつけられた。しかし、炎熱の甲板上の柔道では、最後には皇太子がスタミナ勝ちした。
 若手側近ら一同が、皇太子の居間に行き、「殿下のご奮励を促し、明治大帝の偉業を能くご継承あらんことを」と訴えたこともあった。これから檜舞台に立つ皇太子を思って、御訪欧に付きそう供奉員たちも必死だったのである。供奉員の一人はこう語る。
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 殿下はいつも供奉員の申し上げることに耳を傾けられた。たび重なる遠慮のない直言も頭にとめられ、いちいち実行なさるご態度には感銘のほかなかった。
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■4.玉音朗々満堂を圧し■

 バッキンガム宮殿での晩餐会の席上、ジョージ5世の歓迎の辞のあと、居並ぶ王族や名士たち百人以上の前で、いよいよ皇太子は草稿も持たずに演説を始めた。後方の席では供奉員たちがかたずを飲んで見守っている。
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 日英両国同盟国間に存する親交関係は善く時勢の試練に堪えて陛下が只今の御言葉の如く、今後も世界の平和を維持する要素として、永く持続せられることは予の最も満足する所であります。、、、
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 皇太子の大音声が響き渡ると、大宴会場は愕然として静まりかえった。「玉音朗々満堂を圧し、抑揚あり、頓挫あり、御態度また悠揚、真に涙を催すほど感激して拝聴したり」と「香取」艦長漢那大佐は回想している。船中で繰り返し練習した成果が見事に発揮されたのだった。「デーリー・テレグラフ」紙は次のような最大級の賛辞を送った。
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 殿下は実に大なる魅力と謙譲な御態度とを備えられ、その御人格は此の(演説の行われた)古代建築物、古雅な歓迎の式、及び歓迎施設の華麗さと相俟って、実に美しい対照であった。
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 またロイド・ジョージ首相との会見では、首相の健康を案じて「単に首相一身の為のみならず、又は単に英国一国の為のみならず、世界全体の為充分自重せられんことを希望する」と述べられ、感激した首相はかたく皇太子の手を握りしめた。一人一人に謙虚に、かつ誠意をもって対する皇太子の姿勢には、英国紳士達も驚きを隠せなかった。

■5.アソール公から学んだ模範■

 ロンドンに1週間滞在した後、皇太子一行はスコットランドきっての名門貴族アソール公の居城に迎えられた。その最後の夜、歓迎会の後の舞踏会は皇太子に格別の思い出を残した。
 会が進むと、だんだんと平服のいかにも田舎者といった風情の男女が舞踏室に入ってきて、ついには100人以上にもなった。公が「これからスコットランドの舞踏をお目にかけましょう」と言って、勲章をつけた正装のアソール公が、普段着の村のおかみさんと、夜会服の公夫人は百姓の老爺と組んで踊り出した。これらは皇太子の滞在中、家事の助けのために一時的に集まってきた近所の住人たちであった。その時の様子を、供奉員の一人はこう記録している。
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 この時の気分の如きは、主従まったく一家族となって、主従といふやうな対立の気分が全くなく、一同相和して主人の賓客を御歓待申し上げんとする誠意が各人の顔に輝いていた。
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 この時の光景に、皇太子は貴族や皇族のあるべき姿を見つけられたようだ。次のように感嘆された。
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 貴族富豪が、アソール公のように簡易生活をして、公共の為に全力を傾ければ、所謂ボルシェビキ(JOG注:マルクス主義派の労働運動)などの勃興は起こるものではない。アソール公その人及びその生活は、貴族の模範である。
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■6.「戦争というものは実にひどいものだ」■

 英国を後にした皇太子一行は、フランスからベルギーを廻られた。第一次大戦の激戦地イーペルは、ポントゥス陸軍少将の案内で見学した。ここはかつては有名な海水浴場でホテルが林立していたが、いまやまともなホテルは一軒もなく、海岸には砲台、観測所、鉄条網の残骸が残り、また砂浜には無数の弾片、小銃弾が散乱して、激戦の後を物語っていた。
 ここにイギリス、フランス、ベルギーの連合軍とドイツ軍が双方100万もの兵を投入して、3度もの争奪戦が行われたのである。イギリス軍は30万、ドイツ軍は20万の死傷者を出した。
 ベルギー軍が窮余の一策として実施したダムの決壊現場では、ポントゥス陸軍少将が当時の苦戦を語るうちに、そこが彼の子息の戦死した場所に近かったということもあって、説明半ばに涙が止まらず、その様子を見た一同もまた涙を流した。皇太子も思わず涙ぐみ、「戦争というものは実にひどいものだ」と吐露された。

■7.原敬首相の感激■

 皇太子一行は、その後、ローマでイタリア国王、ローマ法王などと会見した後、7月18日ナポリを発し、9月3日に横浜に戻った。横浜からお召し列車で東京に向かう。東京駅までの沿線は人、人、人であふれ、万歳の声が絶えることがなかった。
 東京駅では、出迎えた駐日イギリス大使エリオットに対して、皇太子は「今度、英国皇太子が来日されることに内定しましたが、私が貴国の皇太子に歓迎された様に、私も非常な誠意を以てお迎えするつもりで居る」と述べられ、次いでフランスのアンリー代理大使には「貴国が戦後の回復の一日も速やかなること希望する旨を、ぜひ大統領閣下にお伝えを願いたい」と伝えられた。
 両国大使に即興でこのような挨拶をされる皇太子の自信あふれた態度に、原首相以下は感激を隠せなかった。「石地蔵」のようだった「箱入り」皇太子の何という成長ぶりであろう。

■8.尊敬より親愛に■

 ちょうどこの頃、普及しつつあった活動写真会社が、皇太子訪欧の様子をニュース映画としてつぶさに報道していた。政党政治の成長を背景として、報道も以前には想像できなかったほど、自由に許された。全国ではのべ2千万人が見たという大変な人気であった。国民は、我が皇太子に対する欧州各国の下にも置かぬもてなしを目の当たりにして、改めて世界の一等国の仲間入りをしたことを実感した。
 帰国の夜、高輪御所には20万人を超す国民が集まり、御所では正門を開けて、裏門から抜けさせた。民衆の万歳三唱に、皇太子はたびたび階上に上がって、挨拶を繰り返された。こうした光景は明治天皇や大正天皇の時代にはなかったことである。
 皇太子はまた、外遊報道にあたって大きな役割を果たした新聞社16社の記者を接見し、「新聞の事業たるや各国国運の進展、ならびに世界文明の発達に重大なる責務を有する」と語られた。皇族がマスコミに直接語りかけるのも、これが初めてだった。
 犬養毅は「皇室と申せばあたかも神様を仰ぐがごとく尊敬していた」が、「親愛を欠く嫌いがあった」、しかし「ご帰朝とともに国民の皇室に対する感情は一変して尊敬より親愛になる事と思ふ」と記した。

■9.生成発展する伝統■

 わが国はこの後、大恐慌、共産主義勢力の伸張など国際社会の荒波の中で多難な時代を迎え、ついには大東亜戦争敗戦に至るが、昭和天皇が国民に直接ラジオで呼びかけられた玉音放送、および、全国各地を廻られ、復興に向けて励まされた御巡幸が、わが国史上最大の国難を乗り切る上での大きな力となった[a,b]。玉音報道や全国御巡幸に見られる国民に直接語りかけ、共に歩もうとする姿勢は、この欧州外遊によって形成されたものである。
 皇太子の将来を心配し、国内の大反対を押し切って、御訪欧を決断した元老や原首相の執念、そして船内で特訓を行った供奉員の必死の努力が、皇太子の成長を促し、その皇太子が国民と共に新しい皇室と国民との関係を形成していったのである。
 伝統は墨守されるだけでは、時代から取り残されて枯死してしまう。時代の進展に対応すべく、代々の国民のたゆみない努力と叡智によって、新たな生命力を与えられて成長していくべきものである。皇太子の欧州外遊は、皇室伝統がわが国の長い歴史の中で何度もその生命力を蘇らせた、その一幕と言える。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(100) 鈴木貫太郎(上)
 いかに国内統一を維持したまま、終戦を実現するか。
JOG(101) 鈴木貫太郎(下)
 終戦の聖断を引き出した老宰相。
b. JOG(136) 復興への3万3千キロ
 「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」占領軍の声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

  1. 波多野勝、「裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記」★★★、草思社、H10

  2. レナード・モズレー、「天皇ヒロヒト」★★、角川文庫、S58

  3. 児島襄、「天皇 第1巻」★★★、文藝春秋、S49

//////////// おたより ////////////
■「皇太子のヨーロッパ武者修行」について
「今日のよき日に」 鈴木京子さんより

 今日のお便りも、初めて知ったことで、しみじみと読ませていただきました。実は、今日4月29日は、私の誕生日でもあるのです。そして、本当に、めずらしく今日は雨がふっています。いつも、天長節(私には、みどりの日よりこの言い方のほうがなじみがあるので)は、天気がいいのですが、新しい時代の幕開けを、竜神様が浄めてくださっているのかもしれませんね。
 私は、歴史のことはほとんどわからないのですが、ただ一つ、戦争に負けた時、天皇陛下が、すべての責任は自分にあるといって、命を投げ出してくださったということだけは、深く心に残っています。そして、自我欲望のない高貴な心を持っている方を、日本の象徴として、国民が国を愛し、国を守り、そして和の心で生きてゆこうという意識が高まるといいなと思います。
 誰もが世界の平和を願っていると思いますが、それを実現するには、まず私達の心の中を平和にしなければならないと思います。正義の名のもとに戦うという愚かさがくり返されるのも、私達の潜在意識の中に、怒りや暴力性が潜んでいるからであり、それに気づき、それを正してゆく人が増えることで、平和が実現してゆくのではないかと私は思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 しみじみとしたお便りありがとうございました。昭和天皇の「祈り」をお偲びしたいと思います。

■坂田さん(鹿児島在住、31歳)より
 李登輝前総統の訪日査証が認可され、李前総統をはじめ先の大東亜戦争を経験する台湾人の中にも多くの愛日家の方がいらっしゃるとおもいますが、そのような方々にこれ以上の恥をさらさずにすみ、ほっとしています。
 李登輝氏は愛日家であり、まさに日本精神を継承する紛れもない本物の人物であり、このような高尚な人物を中国の威圧に屈して入国させえないというようなことがあっては、日本の独立国家としての尊厳も無くなってしまいます。教科書問題、李登輝氏訪日問題でゆれる今こそ、何が問題で、どういった歴史があったのかを知ることにより、外圧にびくともしない日本国民の正しい歴史認識と価値観を持てるチャンスであると思います。
 私個人としては、今後日本の歩むべき外交の一つとして、台湾は一国家としての同盟国であり、アジアの平和のためにも民主的な国家である日本と台湾は不可欠な存在となると確信しています。台湾に関する正しい歴史認識を多くの日本人が持てば、中国の恫喝にびくつく親中派政治家などこき下ろされる時代がくるでしょう。
 政治家、警察、公務員のレベルが三流である原因は、国民一人一人が自国の歴史に無知である上に、先人の歴史を学び高い価値観を持とうという意識があまりに低いことだと思います。このあまりに低い意識を変えるためにも、この素晴らしい講座を多くの人に紹介していこうと思っています。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 過分な御言葉ありがとうございました。新しい教科書の検定合格、李登輝前総統来日、皇太子妃殿下のご懐妊と、おめでたい事が続きます。そして今日は昭和天皇ご生誕百年です。それを記念して昭和天皇が御生涯で最も印象に残る思い出だったという欧州外遊とその意義をふりかえってみました。

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まぐ:27,988 カプ:1,888 Melma!:1,882 Pub:1,015 Macky!:859 
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