JOG(448)大原孫三郎と児島虎次郎 ~ 大原美術館にかけた夢
日本で最初の常設美術館が倉敷に作られたのは何故か?
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■1.倉敷の街を護った大原美術館■
昭和7(1932)年、満洲事変の真相調査のため国際連盟から派遣されたリットン調査団の一部の団員が倉敷の大原美術館を訪れた。団員はそこにエル・グレコ、モネ、ルノワールの絵画やロダンの銅像をはじめとする数々の世界的な名品が並んでいるのに仰天した。
このことから、日本の地方都市クラシキの名が米国でも知られるようになり、大東亜戦争中も、米軍はこれらの美術品を焼いてはならない、と倉敷を爆撃目標からはずした、という。
この大原美術館は、昭和5(1930)年、倉敷紡績の社長・大原孫三郎によって設立された。しかし、西洋絵画を常設展示するような美術館が全国にまだ一つもない時代に、地方の小都市に作って、軌道に乗るはずもなかった。「みんなに勉強させてやろうと思うたのに、今日もだれも来んなぁ」と孫三郎自身がぼやくほどだった。
孫三郎は、これ以外にも、孤児院、農業研究所、社会問題研究所、労働科学研究所、倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)など、多くの社会事業を立ち上げたが、「わしのはじめた事業でいちばん重荷になるのは美術館じゃ」と晩年に漏らしていた。
そもそも孫三郎は、東洋の書画骨董の目利きではあったが、西洋美術については何の関心も知識もなかった。それがどうした機縁で、このような一流の名画を集めた美術館を創設したのだろうか。
■2.「自分は勉強しない代わりに、他人に勉強して貰う」■
大原孫三郎は、明治13(1880)年、岡山県倉敷市の大地主で倉敷紡績(クラボウ)を営む大原孝四郎の三男として生まれた。長男、次男が亡くなったので、跡継ぎとして育てられた。明治30(1897)年、広い世間を知りたいと、上京して東京専門学校(現・早稲田大学)に入学したが、悪友たちに取り巻かれ、放蕩の限りを尽くして、高利貸しに1万5千円もの借金を作ってしまう。総理大臣の年俸が1万円の頃である。
父・孝四朗の命を受けて、長姉の夫・原邦三郎が孫三郎を倉敷に連れ帰り、高利貸したちとの談判をするが、その最中に脳溢血で倒れ、そのまま世を去ってしまう。
自責の念に駆られた孫三郎は、倉敷にとどまり、倉敷とともに生きようと決心した。義兄への供養はそれしかなかった。
倉敷に戻った孫三郎の最初の仕事が、義兄の残したマッチ会社の整理と、父の始めていた苦学生に奨学金を給付する会を軌道に乗せる事だった。
また働く若者のために、夜間の商業補習校の設立を図った。校長となる孫三郎自身が23歳と若すぎるため、県当局は認可を渋ったが、檜垣直右(なおすけ)県知事は「教育への熱情に年齢は関係なし」として認可を与えた。小学校の校舎を借りての授業では、孫三郎自身も教壇に立ち、福沢諭吉の『学問のすゝめ』や二宮尊徳の『報徳記』を教科書に修身を教えた。
さらに社会各層の人々が勉強する機会を作ろうと、新渡戸稲造、徳富蘇峰など一流の知識人を自費で招き、講演会を始めた。孫三郎はそれから24年間にわたり、76回の講演会を続けることになる。「自分は勉強しない代わりに、他人に勉強して貰う」というのが、孫三郎の口癖だった。
■3.児島虎次郎との出会い■
明治35(1902)年の夏、小柄な若者が奨学金貸与を希望して、大原邸を訪ねてきた。倉敷の北西25キロの下原村(現・成羽町)の出身で、東京美術学校に学ぶ児島虎次郎である。孫三郎よりは一歳年下だった。きちんとした身なり、率直な口ぶりで、東京郊外の風景画など3点を見せながら、自己紹介をした。父・孝四郎とともに面接した孫三郎は、よい印象を持ち、奨学金を支給することとした。
児島は明治40年、26歳にして、東京美術学校研究科在学中の身分で、勧業博覧会美術展に2点出品した。全国の若手から大家までが競う中で、児島の一点が一等賞に入り、もう一点は会場に来られた皇后陛下のお気に召し、宮内省買い上げとなった。
しかし孫三郎が買ったのは、児島の才能よりも、素朴でまじめな人柄であった。昼も夜も黙々と勉強を続け、しかも議論となれば、堂々と意見を述べる。そんな児島を見込んで、ヨーロッパに5年間、留学させた。孫三郎は、理想を抱いて勉強する男が好きだった。そして、一度、その男を信じたら、どこまでも面倒を見る、というのが、彼の流儀だった。
見込みある若者を欧米への留学に送り出すのも、孫三郎の「他人に勉強して貰う」方法の一つだった。大正年間に24人を送り出した。自ら設立した社会問題研究所の大内兵衛ら6人、労働科学研究所の2人、中央病院の5人など、学者・研究者が中心だったが、画家の児島や、音楽研究家、牧師などもいた。留学資金の多くは、孫三郎が工面した。
■4.児島、再度の渡欧■
明治41(1908)年に渡欧した児島虎次郎は、翌年ベルギーのゲント美術アカデミーに入学した。明治45年(1912)年に首席で卒業し、大正と改元した同年11月に帰国した。
孫三郎は、児島に画家にふさわしい環境を、と、倉敷の北、酒津にある大原家の別荘に住まわせ、母屋から離れた所にアトリエを作らせた。生活のために絵を描き続ける画家はその生命を失ってしまうと孫三郎は考え、「絵を売ることはない。好む仕事だけに打ち込むように」と、生活の一切の面倒を見た。
この恵まれた環境で、児島は一点、また一点と作品を仕上げていった。しかし、孫三郎はそれらを見て、率直に言った。「少しも進境がないようだが。」
ここには仲間がいないし、刺激もない。孫三郎は、児島が内に籠もる激しいものをもてあましている、と受け止めた。「どうだね。もう一度ヨーロッパへ勉強にいかんか」と誘うと、児島は顔を紅潮させて「ありがとうございます」と答えた。
再度の渡欧の前に、児島は個人で初めて東京美術学校を会場にして個展を開いた。美校きっての秀才が、ヨーロッパ留学をはさんで10年間ひそかに描き続けた油彩65点を展示するというので話題となり、3日間で25百人もの来場者があった。大阪でも中央公会堂で個展を開催したが、今度はその倍もの客があった。
大正8年6月、児島は2度目のヨーロッパ留学に出発した。
■5.「絵を買い集めたい」■
児島は欧州で師や友人と会い、美術館や美術商を廻り、時間を惜しんで制作に励んだ。児島の絵はパリでも高い評価を得て、グランバレー・サロン展覧会場では、デシャネル大統領から賞賛され、握手を求められた。またフランス画壇を代表するサロン・ソシエテ・ナショナルの正会員にも推された。
やっと一人前の画家に仲間入りできた、という自信と共に、今度こそ日本で腰を落ち着けて、心静かに制作に従事したい、という気持ちが湧いてきた。そして、今、ヨーロッパでやるべき事は、自分が勉強するだけでなく、日本の画家たちの勉強のために、これはと思う名品を日本に持ち帰る事だ、と児島は考えた。孫三郎が周囲の人々の勉強のために尽くしている姿から、影響を受けたのかも知れない。
児島は「絵を買い集めたい」と手紙を出したが、孫三郎は返事も書かなかった。児島を送り出したのは、あくまで本人の進境を期待した為である。それが「絵の収集」とは、、、
しかし、児島はあきらめずに繰り返し手紙を書き、また人づてに口添えも頼んだ。その熱意に、孫三郎は考え直した。日本の画家仲間たちのために本場の絵を持ち帰って「刺激」を与え、向上の機会を提供する、それは一種の友情であり、教育でもある。児島の熱意は、孫三郎自身の教育への熱情に通ずるものである。「エヲカッテヨシ カネオクル」という孫三郎からの電報が届いた。
■6.「日本の絵描きのために」■
児島は画商に依頼するだけでなく、自分で画家のアトリエへも出かけた。少しでも安く、一枚でも多くの作品を買いたいという事だけでなく、画家は最良の絵に愛着を抱いて、手放さずに自分のアトリエに置いておくことが多いからである。
児島はパリ郊外に住むモネを訪ねた。当時モネは79歳。すでに一流画家として雲の上の存在だった。しかし白内障でほとんど視力は失われ、キャンバスに顔をくっつけるようにして描いていた。モネは、日本の浮世絵の大胆な構図や色彩を愛し、自宅の庭に日本式庭園をつくる親日家としても有名だった。
児島は、「日本の絵描きのために是非作品を譲って欲しい」と熱心に頼んだ。その熱心さに心動かされたのだろう。モネは「今は大作に取りかかっている。1ヵ月したらまた来なさい。」といって絵を譲る約束をしてくれた。1ヶ月後、児島が再訪すると、モネは日本の絵描きのためにと、「睡蓮」をはじめ数点用意してくれていた。児島は、その中から「睡蓮」を選んだ。[b]
こうして児島が持ち帰った25点を中心に、大正10(1921)年の春休みの3日間、倉敷女子小学校の2教室を借りて展示会が開かれた。西洋画家の名作を集めた日本ではじめての展示会という事で、画家や画学生を中心に全国から見学者が訪れ、会場内は押すな押すなの混雑となった。
それを見た孫三郎が児島に要った。「もう一度絵を買いに行って下さらんか」
■7.「グレコ買え、金送る」■
翌大正11年5月、児島は三度目の欧州訪問に出発した。フランスに着いくと、妻宛に次のような手紙を出した。
また大原様の特別なる加護を受けたる事を感謝すればするほどに、今回の旅行は非常なる責任と義務を要すべきことにて、とても一通りの力にては勤まり申さずと存じ居り候。ただ天命の導きによりこの重命を全うすべく誓い申し居り候。
絵の購入については、児島は今度も孫三郎からすべて任されていた。ちょうどパリの画廊でエル・グレコの「受胎告知」が売りに出されているのを見つけた。途方もない値段だったが、どうしても日本へ持ち帰りたいと考えた児島は、孫三郎に「グレコ買いたし、ご検討のほどを」と、写真を添えて手紙を送った。孫三郎からは「グレコ買え、金送る」との返事が来た。
当時ヨーロッパは、第一次世界大戦直後で大変な不況にあえいでいた。その不況が、やがて日本にもやってくるであろうと予見した孫三郎は、円の強い今が名画収集がチャンスと考え、決断した。現在、このエル・グレコの「受胎告知」が日本にあることは奇跡であるとさえ言われている。[b]
他のめぼしいものについても、児島は孫三郎に照会したが、返電は決まって「カエ」であった。
■8.児島の情熱■
帰国後の児島には、画業以外にも情熱を燃やす仕事が待っていた。一つは、皇太子殿下の倉敷行幸が予定されており、大原邸の直前、倉敷川にかかる小さな橋を石橋に架け替えることになった。孫三郎が費用を出し、児島が石橋の彫刻のデザインを担当した。皇室尊崇の念の篤い児島はこの仕事に打ち込んだ。
また、体の弱い孫三郎の夫人のために、住みやすい家屋を新築することになり、児島は理想的な日本家屋をつくるべきだと、提案し、特別に焼いた屋根瓦の美しく輝く「緑御殿」と呼ばれる邸宅を完成させた。
大正14(1925)年3月、児島は明治神宮の聖徳記念絵画館に納める絵を描くことを受諾した。これは明治天皇の御生涯を洋画家・日本画家各40人に、合計80点の絵画として描かせるもので、そのハイライトとなる「対露宣戦御前会議」の絵を担当する、というものだった。
児島は皇居に日参して、当時の御座所をスケッチした。真夏でもフロックコート姿のまま、冬は暖房も入らぬままで、スケッチを続けた。さらに自分のアトリエの近くに御座所と同じ建物を再現し、家具や装飾品もすべて模造した。御前会議の出席者11人のうち、生存者には会って話を聞き、故人は遺族から話を聞いた上で、全員の胸像まで作らせた。
しかし、この仕事で精根尽き果てたのか、児島は昭和4(1929)年3月、47歳にして急逝してしまう。絵は友人の吉田苞により昭和9(1934)年に完成され、絵画館に納められた。
■9.「金を散ずることにおいて成功した人物」■
児島の霊を慰める道はただ一つであった。彼の描いた絵と、買い求めた絵を常設展示する美術館を作ることである。厳しい不況の下で、倉敷紡績も初めての大幅赤字が予想されていた。しかし、孫三郎は社内外の反対を押し切って、建設を進めた。
昭和5(1930)年11月5日、ギリシャ神殿風の大きな建物が完成し、開館式が行われた。館長以下、職員は3人だけ。11月25日から一般公開が行われ、初日こそ百人を超す入場者があったが、あとは数人という日々が続いた。
この閑散とした美術館に、世界的な名画があると聞き、リットン調査団員が立ち寄ったのが、この翌々年のことである。
やがてこの美術館が倉敷の街を戦火から護り、現在では毎年40万人近い入館者を迎える名所となった。さらに美術館周辺は、白壁に川辺の柳並木が映える「倉敷美観地区」として発展し、年間3百万人もの観光客が訪れている。
孫三郎が作った大原社会問題研究所で、研究を続け、留学もさせて貰ったマルクス経済学者・大内兵衛は、孫三郎について、こう評価している。
孫三郎が儲けた金は、児島の夢を通じて大原美術館として結実し、今も日本国民の精神的財産となっている。
(文責:伊勢雅臣)
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
『わしの眼は十年先が見える:孫三郎の生涯』★★、新潮文庫、H9
2. 大原美術館ホームページ
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■「大原孫三郎と児島虎次郎 」に寄せられたおたより
■ 編集長・伊勢雅臣より
倉敷を訪れる子供たちには、ぜひ大原孫三郎の生き方を教えてあげて欲しいものです。
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