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JOG(1264) 河合栄治郎 ~ 日本の「根っこ」に根ざした自由民主主義者

戦前、左翼全体主義と右翼全体主義の両方と闘った河合栄治郎が訴えた理想とは。


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■1.左翼か、リベラルか

 よく「保守 対 リベラル」というように、左派や革新派をリベラルと呼んでいます。しかし、よく考えてみれば、これはおかしな話で、保守党と目される自民党の英語名には"Liberal Democratic Party”というように、リベラルがすでに入っています。

 一方、現在リベラルと呼ばれる政党の本性は左翼なのではないでしょうか。「リベラル政党」の代表格であったかつての民主党の菅直人党首は、学生時代に過激派学生運動のリーダーでした。よく学生デモを扇動しながらも、4列目くらいにいて警官隊と乱闘となると途端に姿を消していたそうです。政治家になってからもその思想や人格は変わったようには見えません[JOG(708)]。

 その後、民主党の流れを継いで立憲民主党を立ち上げた枝野幸男議員は「殺人や強盗や窃盗や盗聴を行った革マル派活動家」が浸透している労働組合から800万円の献金を受け取っています。[JOG(1057)]

 その後、共産党との共闘を模索して、昨年11月の衆院選に惨敗。枝野代表は引責辞任をしましたが、共闘の旗はまだ降ろされていません。こうしてみると立憲民主党は左翼そのものであり、「リベラル」と呼ぶのは単なるカモフラージュです。

 アメリカでも左翼を「リベラル」と誤魔化すのが一般的です。両者の違いを明らかにしたYouTube動画「左翼 vs リベラル」[PragerU]が18百万回以上も視聴されています。この番組では左翼とリベラルの違いを6つの点で説明していますが、最も簡明な違いは、言論の自由についてでしょう。

 真のリベラルは「私は君の意見には反対だが、君がそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉を大切にしてきました。リベラルが言論の自由を護ろうとするのに対して、左翼は敵対する意見をすべてヘイトスピーチとして弾圧します。

■2.河合栄治郎が長生きしていれば

 実は、我が日本にもリベラルの本家とも言うべき存在で、戦前に左右両翼の全体主義と闘った人がいました。東京帝国大学経済学部教授・河合栄治郎です。河合の弟子や孫弟子、ひ孫弟子たちも、戦後の左翼思想、マスコミに果敢に闘ってきました。そのごく一部を挙げれば:

・猪木正道(いのき まさみち) 1914-2012、京都大学名誉教授、防衛大学校校長、「日本政治学界の大御所的存在で、安全保障問題の論客」(Wikipedia)

・関嘉彦(せき よしひこ) 1912-2006、東京都立大学名誉教授、1960年、民社党結成に参加、同党の思想面の重鎮となる。

・土屋清(つちや きよし) 1910-1987、産経新聞社専務取締役の後、経済評論家として政府の各種審議会委員として影響を与えた。

・高坂正堯(こうさか まさたか) 1934-1996、京都大学教授で、日本の国際政治学に多大な影響を与えた。猪木正道の弟子で、河合栄治郎の孫弟子にあたる。中西寛・京都大学教授(国際政治学)、中西輝政・京都大学名誉教授(歴史学)などひ孫弟子も活躍しています。

・田久保忠衛(たくぼ ただえ) 1933- 土屋清の弟子。杏林大学客員教授、日本会議会長。

 河合は戦前にはマルクス主義と闘い、戦中には右翼全体主義と闘い、その過程での無理な研究が祟って、昭和19(1944)年2月に病没します。河合がもっと長生きをしていれば、「日本のインテリは、三十年も早くマルキシズムの幻想から自由になっていたであろう」と、渡部昇一氏は惜しんでいました。[湯浅、3926]

全体主義と闘った男 河合栄治郎 (産経NF文庫) - 湯浅 博

■3.なぜ自由が大切なのか?

 リベラル、自由主義はなぜ「自由」を尊ぶのか、その理由が分かれば、自由主義者が左右の全体主義と闘う理由が分かります。

 河合は「あらゆる成員の人格の成長を図る社会が理想の社会である」と考えました。[松井、2074] 「人格の成長」とは哲学的な表現ですが、人間がそれぞれの心根を耕し、それぞれの個性を伸ばして処を得て互いに支え合って生きている姿、と考えれば、直観的に理解しやすいでしょう。それこそが人間として最も幸福な生き方です。

 そういう生き方を目指すには、一人ひとりが自分の頭で考え、自分の心で感じて、それぞれなりの志を自分の人生の中で追求していかなければなりません。そのためにこそ「自由」が必要なのです。ヒトラーや毛沢東のような独裁者に操縦されて動くロボットでは、人間らしい生き方はできないのです。

 そのような人間らしい生き方ができるよう、河合は「教養」を重視します。その「教養」とは趣味や見栄の雑学ではなくて、自分自身を成長させるための学問です。河合のロングセラー『学生に与(あた)う』は、単なる「教養のすすめ」ではなく、学生のための「人格の成長」の道しるべとして書かれました。

 このように自分自身の頭で考える国民が主体的に選んだ代表者が話し合いを通じて、政治を行っていくことが議会制民主主義であり、また事業を行って経済を発展させていくことが市場経済なのです。政治と経済の両面において、自分で考え、自分の志を追求する国民の存在が想定されているのです。

■4.マルクス主義者との戦い

 河合は東京帝国大学経済学部助教授だった大正11(1922)年から3年近い英国留学に出ますが、その頃が日本におけるマルクス主義の開花期でした。出発の年には日本共産党が設立され、東京帝大でも招聘学者のE・レーデラーがマルクス経済学を教えていました。さらに大内兵衛(おおうち ひょうえ)が本場のマルクス経済学を持ち帰りました。

 マルクス主義は、天下の知識人があっという間に魅せられてしまう強力な磁場を広げていた。彼ら(JOG注: 河合の弟子たち)はかつての「経済哲学の助手」から、「戦闘的マルキシストの助教授」に変身していた[湯浅、1940]

 河合はマルクス主義者たちが、立場を異にする学者に向かって罵詈雑言を投げかける様を見て、自ら論争を挑んでいきました。河合にとって、自由な議論とは、お互いの人格を尊重し、高め合うものでなければなりません。その言論・学問の価値を護るためにも、罵詈雑言によって敵を貶めようというマルクス主義者たちの姿勢を、見過ごすことはできなかったのです。

 河合のマルクス主義批判は、深い研究に基づいていました。マルクスの原書に、びっしりと赤線を引き、読了した日付が4度もついていることから、じっくり読み返していることが判ります。[湯浅、1396]

 昭和7(1932)年には実際にソ連を訪問し、「模範工場」ばかりを見せられましたが、それですら設備、労働者の食堂、娯楽施設でも日本と比べても格段に落ちるものであることを観察しています。[湯浅、2452] 日本のマルクス主義者が、ソ連の宣伝に乗せられて、空想の中で美化していた態度とは、学問的な深さがまるで違うのです。

 しかし、河合はマルクス主義の書物を禁じるような思想統制には反対でした。学生は自らマルクス主義を学び、自分自身でその過ちに気がつくようにしてこそ、自ら正しい方向を判断して歩んでいける人材に育っていくと考えたのです。

 そして貧困など社会問題を解決していくには、マルクス主義の唱える暴力革命ではなく、議会制民主主義による自由な議論を通じて、社会を徐々に良くしていく英国型社会主義こそ採るべき道であるとしました。

 昭和6(1931)年に出版した『社会政策原理』は、小泉信三の『共産主義批判の常識』と並ぶマルクス主義批判の啓蒙書の双璧でした。弟子の一人、関嘉彦は高校時代にこの本を読んで、それまでのマルクス主義への傾斜を改め、戦後に台頭する左巻きの進歩的文化人と対決する中心的人物となりました。[湯浅、2274]

■5.右翼全体主義との戦い

 当時の東京帝大経済学部は、右翼全体主義的な土方成美(ひじかた せいび)、左翼全体主義の大内兵衛、それに自由主義の河合が三つ巴(どもえ)の勢力となっていました。そして、河合が前門の虎であるマルクス主義と闘っている隙に、右翼全体主義が後門の狼として勢力を伸ばしてきたのです。

 河合はソ連訪問の後、ドイツを訪問して、ナチスが勢力を伸ばしつつある様を見聞し、ドイツにおけるマルクス主義者が国内を分裂させ、それを克復しようとしてヒトラー支持が広まった、として「マルクス主義はヒトラーを成功せしめた」[湯浅、3869]と見てとりました。

 議会制民主主義で社会を良くしていくには、まずは国家共同体が信頼感で結ばれていなければなりません。「天皇制」を敵視し、「資本家階級」を攻撃する戦闘的なマルクス主義から早急に社会を護ろうとすると、それに負けずに攻撃的な右翼全体主義が生まれます。しかし、左にしろ右にしろ思想言論の自由を圧殺する全体主義では、自由な「人格の成長」はできません。

 河合は昭和7(1932)年の五・一五事件、昭和11(1936)年の二・二六事件に対し、「軍人が武器を使って自分たちの意思を国民に押しつけるのは議会制民主主義の否定である」と、真っ正面から軍部を批判しました。そのために命を落とすかもしれないと、残された家族の生活や子どもたちの将来について、夫人と相談しています。

 昭和13(1938)年には、『ファッシズム批判』以下4冊の著作が発禁となり、翌年には休職処分、さらに「安寧秩序を乱す」執筆者として起訴されました。裁判では河合は一歩も引かずに、自己の思想を訴えました。一審ではその正当性に共感した裁判官により無罪となりましたが、その後、控訴され、昭和18(1943)年には有罪として罰金300円(現在価値では100万円ほどか)が確定しました。

 こうした戦いの合間の壮絶な研究・執筆は、河合の寿命を縮めました。なにしろ、300ページを超す大著『学生に与う』は公判開始を待つ20日間に、毎日17時間も使って書かれたものです。その書き出しは緊迫感に満ちています。

 学生諸君、われわれの祖国日本はいま、非常な難局に立っている。この難局がいかなるものなるかは、諸君が新聞雑誌を瞥見(べっけん)してさえ、感知することができるであろう。まことに、わが歴史あって以来の未曾有(みぞう)の難局である。[河合、p10]

■6.河合なき後の占領軍の言論弾圧と左翼学者たちの復権

 今日、戦前のファシズムがいかにひどいものであったかを糾弾する声がよく聞こえますが、実は米軍占領下の自由抑圧のほうがはるかに徹底的なものでした。

 言論弾圧といっても、河合は著書4冊の発禁、大学は休職、裁判にも掛けられましたが、刑罰は罰金300円でした。

 それに比して、占領下では20万人以上が裁判なしに公職追放され、8千点近い書籍の焚書、新聞・雑誌・図書・ラジオ放送の事前検閲、月4百万通の私信と350万通の電信の検閲、2万5千通の電話盗聴を行っていました[JOG(98)]。河合が存命であったら、このひどい言論思想弾圧にも抗議に立ち上がったでしょう。

 実は、終戦後まもなく連合軍総司令部から一人の米国人が河合を訪ねてきて、病没したと聞いて悄然と立ち去ったと伝えられています。河合は戦前にハーバード大学での講義も計画されたことがあり、アメリカでも名は通っていました。河合が生きていたら、占領政策にも敢然ともの申して、これほどひどい言論統制にブレーキがかかった可能性があります。

 大学などで多くの教授たちが公職追放で去った後、空き家に入ってきた中には多数のマルクス主義者たちがいました。そういう人々が戦後の思想界を左巻きに歪めていったのです。この意味でも、河合がもっと長生きしていれば、「日本のインテリは、三十年も早くマルキシズムの幻想から自由になっていたであろう」という渡部昇一氏の指摘は頷(うなづ)けます。

■7.日本の「根っこ」」に根ざした自由民主主義へ

 河合は右翼全体主義と闘いましたが、本人は「天皇を戴く自由主義」者でした[湯浅、3858]。日本の皇室に関して、次のように主張しています。

 天皇は臣民を民草と宣(のたま)わせられた。草の伸びるがごとくに、臣民の人格成長を叡慮(えいりょ)せられたのである。しかもこの臣民かの臣民という特定の臣民ではない。数千万の臣民が一様に天皇の叡慮の対象であった。これに対して臣民たるもの誰か感謝し感激しないものがあろう。

 いわんや御一代の天皇がかくあらせられたのでなく、歴代を通じ万世を経て、常にそうであった。[河合、p280]

 初代神武天皇は民を「大御宝」と呼ばれ、その安寧を実現することを目指して即位されました。その祈りは歴代天皇に引き継がれています。河合の理想とする「人格成長」は、我が国の建国目的そのものであり、歴代天皇が祈られてきた理想なのです。

 天皇は臣民の成長を図られ給い、臣民は天皇に対し忠ならんことを願う。かくて日本において天皇は元首であらせられるのみならず、国民の自然に流露する感情の中枢にあらせられ、しかも臣民の感情は高められて崇敬の感情となる。君臣のかくのごとき関係、これを我が国体の精華という。[河合、p280]

 河合の自由主義は、英国輸入の舶来品ではなく、我が国の歴史伝統に根ざしたものでした。その意味では、マルクス主義は言うに及ばず、天皇を絶対君主であるかのように見なした右翼全体主義も我が国の歴史伝統からは逸脱したものなのです。

 中国、ロシア、北朝鮮などの全体主義国家が無法に振る舞い、アメリカでもリベラリズムの衣をかぶった左翼が跋扈(ばっこ)している現代世界において、日本国民は、河合の言う「我が国体の精華」に根ざした自由民主主義を再発見する必要があると考えます。

(文責:伊勢雅臣)

■おたより

■「異論はあって当然」があるべき社会(Naokiさん)

勉強不足の私はメルマガで初めて「河合栄治郎」を知りました。
「河合栄治郎」は「本物の大人」だ…というのが読後の感動と共に心に湧き上がってきた印象です。

「人は皆、違う」ものだと言われ、頭では分かっているモノの、私を含めた人間は「違い」を「争い」の種にする愚かさを持っています。

「違い」があって当たり前で、それぞれがそれぞれの志に従って伸びていけばよい…と河合栄治郎に改めて教えてもらった気持ちがします。

コロナ禍やウクライナについての報道に辟易させられていた原因も腑に落ちました。メディアが全体主義の雰囲気を作ろうとしているのだと気付いたからです。

「右翼も左翼もすべてイデオロギーであり、全体主義化すると国民全体を誤らせる」という歴史的教訓を河合栄治郎は伝えてくれています。

異論はあって当然で、自論と異論の差を検討し、より良い社会を創ろうとするのが自由主義に基づく民主主義のあるべき姿だろうと分かりました。

日本には天皇陛下・皇室の存在があり、国民に一体感をもたらしてくださいます。逆説的ですが、マルクスの目指す社会の理想を最もよく体現しているのが「君民一体」「君民共治」の日本なのかもしれません。

残念ながら、GHQの思考統制の後遺症もあり、日本人が日本の国柄に感謝の念を抱けずにいるように感じます。河合栄治郎のような先人に学んでこそ、失われた30年に代表される閉塞感からの脱却には必要不可欠だと確信しました。

伊勢様のメルマガから、「日本の中にいる自分」について考える機会をいただいています。いつもありがとうございます。

■伊勢雅臣より

 見せかけの「多様性」を主張しつつ、異論はすべてヘイトだと断罪する風潮が広がる中で、真の多様性をお花畑のように生かす社会の共通の土壌が必要ですね。皇室をいただく我が国の幸せを感じます。

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■リンク■

・JOG(98) 忘れさせられた事
 戦後、占領軍によって日本史上最大の言論検閲が行われた。
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■参考■

(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

・PragerU「左翼 vs リベラル」

・河合栄治郎『新版 学生に与う教養』★★★、現代教養文庫ライブラリー(Kindle版)

・松井慎一郎『河合栄治郎 戦闘的自由主義者の真実』★★、中公新書(Kindle版)、H21

・湯浅博『全体主義と闘った男 河合栄治郎』★★★、産経新聞出版(Kindle版)、H31


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