JOG(423) 失意の報国、山本五十六
華々しい経歴の陰で、山本五十六はじっと失意をこらえてきた。
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■1.失意■
昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃で大東亜戦争が始まった。帝国海軍は敵戦艦4隻沈没、3隻大破、1隻中破というう大戦果をあげ、アメリカ太平洋艦隊の主力を一挙に撃滅した。
しかし、その直後、連合艦隊司令長官・山本五十六は深く沈んだ様子に見えた、という。華々しい戦果の陰に、日米開戦をなんとか阻止しようという志を果たなかった失意を山本は噛みしめていたのであろう。
真珠湾攻撃の約2ヶ月前、50人を超す各級司令官たちを集めて、「異論もあろうが、私が長官である限りハワイ奇襲作戦は必ずやる」と言い切ったその日、山本は親友・堀悌吉に、こんな手紙を書いている。
個人としての意見と正確に反対の決意を固め其の方向に一途邁進の外なき現在の立場は誠に変なものなり。これも命といふものか。「個人としての意見」とは、海軍次官として、日米開戦を招く三国同盟に命を掛けて反対してきた事を指す。今は、連合艦隊司令長官として、それとは「正確に反対の決意」を固めざるをえなかった。
12月10日にはイギリス東洋艦隊の2隻の戦艦を航空攻撃で沈めた[b]。「これは長官、男爵か元帥かということになって来ますね」と言う部下に、山本はこう答えた。
ブリッジの腕は東洋一と豪語する山本のそんな夢が、叶うはずもなかった。
■2.不本意のロンドン行き■
山本が日本国内はもとより、アメリカや英国、ドイツの政府、海軍上層部に知られるようになったのは、昭和9(1934)年のロンドン海軍軍縮会議予備交渉において、海軍側主席代表として活躍した時であった。しかし、山本の失意はこの時から始まっている。
米・英・日の海軍軍備を5:5:3と取り決めたワシントン条約は、昭和11(1936)年に有効期限が満了することになっていた。その後の新しい軍縮協定への地固めをしよう、というのが、このロンドン予備交渉の趣旨であった。
日本近海で日米艦隊決戦をするとすれば、対米7割が必要というのが海軍内の「艦隊派」の考えで、これはアメリカのある軍事雑誌も同意見を述べていた。
一方、山本は、アメリカ駐在2度の経験から、
と、考えていた。この頃までの海軍ではどんな強硬派でも、アメリカと戦争して本当に勝てると考えるほど勇ましく無知な人物はそういなかった。[1,p55]
したがって、日本側の案は対英米6割というワシントン条約をそのままの形で今後も認めることは到底できず、さりとて無制限の建艦競争に入ったら国力が追いつかない。そこで各国平等の海軍兵力制限を設け、それをできるだけ低い所に引いておきたい、という都合の良いものであった。
山本として「艦隊派」の考えとは溝があり、何度もロンドン行きを辞退したが、結局、ほかに人がいない、という理由で受けざるを得なかったのである。 交渉の場では日本政府は、山本に航空母艦の全廃を主張させている。今後は航空兵力が中心となると考えていた山本にとって、これはまさしく「個人としての意見と正確に反対」のものであった。 ロンドンでの日本海軍側主席代表という立場も、そこでの主張も、山本にとっては不本意なものであった。
■3.鋭い舌鋒■
しかし、日本政府の代表として送り込まれた以上は、その意見を主張しなければならない。
5対3は決して日本に対する脅威にならないはずだとアメリカ側が言うと、山本は、米国の5の勢力が、日本の3の勢力に対して脅威でないというなら、日本の5の勢力が米国の5の勢力に対して脅威になるはずがないではないかと、言い返したりしている。山本の鋭い舌鋒に、アメリカ代表は「ワシントンでは、アメリカが頭から抑えたものを、今度は山本が逆に自分を抑えにかかってきた」と密かに舌を巻いた。
英国は日本の提案に好意的だったが、アメリカは冷淡だった。無制限の建艦競争になれば、国力に勝るアメリカが優位となる。日本を追い込んで、単独でワシントン条約廃棄の通告を出さざるをえないようにすれば、軍縮不成功の責任はすべて日本に負わせることができる。
こういう立場では、山本としても、英国を頼って何とか妥協点を見いだすよう粘るしかなかった。
■4.失意のロンドン交渉■
ロンドン滞在中に、海軍兵学校の同期で親友の堀悌吉が予備役に編入されたという知らせが届いた。艦隊派の策謀で、条約存続派が次々と失脚させられており、その一環であった。山本はすぐに堀に手紙を書いた。
その後も山本は真剣な交渉を続けたのだが、アメリカ代表はクリスマスを口実に帰国すると言い出した。山本は再開の期日を約しておいた方が良いと食い下がったが、アメリカ代表は言葉を濁して、引き揚げてしまった。
その後は日英の非公式な交渉が続き、英国の譲歩案に日本案をかませ、それを英国を介してアメリカに了承させれば、なんとか妥協の道がつくのではないか、という所までこぎ着けた。その案で東京に伺いの電報を打ったが、東京からは「余計なことをするな」と匂わせる返事が届いた。
山本が粘りに粘ったこの3ヶ月が軍縮の最後のチャンスだったが、それが失敗し、世界は無条約・無制限建艦競争の時代に突入するのである。
ロンドン交渉で山本の名は国内外に高まったが、その結果は山本にとって望みとは正反対のものであった。
■5.「何がめでたいか」■
昭和10(1935)年2月に帰国してから、山本はしばらく海軍省内の薄暗い一室に憂鬱な顔をして燻っていた。中将だが、仕事は何もない。何度も郷里の長岡に帰ったり、「俺は海軍やめたら、モナコへ行って、博打打ちになるんだ」などと親しい友人に言ったりしていた。
その年の暮れ、航空本部長に就任。かつては航空本部の技術部長を3年務め、この間、海軍の航空は飛躍的な発展を遂げたと言われている。山本が技術部長時代に発案して、開発に着手し、航空本部長となってから量産に入ったのが、長距離陸上攻撃機「96式陸攻」だった。
昭和12(1937)年8月、日華事変の初頭に、96式陸攻の大編隊が台北と高雄から暴風雨の東シナ海を渡って、中国の広徳・杭州の両飛行場を爆し、壊滅的な打撃を与えた。往復2千キロの渡洋爆撃は、世界の航空専門家を驚かせた。これで日本の航空技術は世界の最高水準に到達したと言わた。山本は陸軍の始めた日華事変そのものは苦々しく思っていたが、96式陸攻の活躍には、会心の笑みを浮かべたろう。「航空本部長なら、いつまででもやってみたい」と語っていたが、これもわずか一年で海軍次官への転出を命ぜら た。「おめでとう」という人々に、「何がめでたいか。折角今まで、日本の航空を育てようと一生懸命やってきたのに」と本気で怒った。
■6.「至誠一貫俗論を排し」■
昭和11(1936)年12月、海軍次官に就任し、ここから広田、林、近衛(一次)、平沼の4内閣での2年9ヶ月に及ぶ苦闘が始まる。林内閣で米内光政が海軍大臣として登場するが、その担ぎ出しを最も強く主張したのが山本であった。
以後、米内海相、山本次官、井上成美軍務局長のトリオで、陸軍の主張するドイツ、イタリアとの三国同盟を阻止しつづけるのだが、その苦闘ぶりは弊誌407号に述べた。[c] 陸軍に操られた右翼がよく脅迫状を送ったり、海軍省に押しかけてきた。山本は休日には友人宅に潜伏して、麻雀をしたりして過ごした。
この頃の山本は暗殺を覚悟していたらしく、次のような遺書をしたたて、海軍省次官室の金庫に納めていた。
三国同盟という「俗論を排し」、「君国百年の計」を思えば、自らの栄誉や生命など、論ずるに足らない、という覚悟である。
昭和14(1939)年8月、独ソの突然の不可侵条約締結で、三国同盟問題は棚上げとなり、平沼内閣は倒れた。米内が海軍大臣を辞めると、山本も次官を辞めて、連合艦隊司令長官に転出した。山本を後任の海軍大臣に、という声もかなりあったが、米内は「山本を無理に持ってくると、殺される恐れがあるからね」と答えた。
米内は昭和15(1940)年1月から首相となり、この間は三国同盟論も下火となるが、その後に第二次近衛内閣が成立すると、わずか2ヶ月余りで三国同盟が成立し、日本は戦争への道を一気に走り始めた。
■7.「長門」の艦上で討ち死にするだろう■
同盟調印から2週間後、山本は非常な決心の様子でこう語っている。¥
東京の空襲もソヴィエトの侵略も、山本にはお見通しであった。
昭和16(1941)年秋、日米の対立が決定的になりつつある最中に、第三次近衛内閣から東条内閣に替わった。この時に米内光政らが中心となって、山本を海軍大臣に担ぎ出そうとした。
もしこれが実現していたら、12月の開戦は少なくとも先に延ばされ、山本が腰抜けとか、親英米とか言われて時を稼いでいるうちに、ドイツの退勢があきらかとなって、日本はヒットラーのバスには乗らなかったろう、とも言われている。
おそらく、それは山本の本意でもあったに違いない。しかし、東条内閣の海相となった嶋田繁太郎は、自分の地位を脅かされるのを嫌ったのか、「連合艦隊司令長官には、山本以外には人がいない」との一点張りでついに承知しなかった。
こうして、連合艦隊司令長官は2年までという海軍の不文律にも関わらず、山本はその職に留まり、「個人としての意見と正確に反対の決意を固め」て、真珠湾攻撃を敢行したのである。
そして、その結果、山本が正確に予見したとおり、自らも昭和18年4月、ソロモン群島方面での最前線視察のために空路移動中、敵機に襲われて戦死し、東京も空襲で丸焼けになった。
■8.「苦しいこともあるだろう」■
山本の残した言葉に次のようなものがある。
日本海軍主席代表、航空本部長、海軍次官、連合艦隊司令長官という華々しい経歴の裏で、山本はこの言葉通り、苦しいこと、言いたいこと、不満なこと、腹の立つこと、泣きたいことを、じっとこらえて、失意の人生を生き抜いてきたのである。
許されることなら、モナコあたりで博打に打ち込んでいたかもしれない。あるいは、飛行機屋としてひたむきな日々を送っていたかもしれない。そういう生き方を許さなかったのは、山本自身の報国の志であった。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a.JOG(168) 日米開戦のシナリオ・ライター対独参戦のために、日本を追いつめて真珠湾を攻撃させようというシナリオの原作者が見つかった。
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b. JOG(270) もう一つの開戦 ~ マレー沖海戦での英国艦隊撃滅 大東亜戦争開戦劈頭、英国の不沈艦に日本海軍航空部隊が襲いかかった。
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c. JOG(407) 米内光政(上) ~ 日独伊三国同盟の阻止日本を三国同盟という戦争へのバスに乗せては ならない、と海相・米内は戦った。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 阿川弘之『山本五十六 上、下』★★★、新潮文庫、S48
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「失意の報国、山本五十六」に寄せられたおたより
「海風」さんより
■ 編集長・伊勢雅臣より
「責任と忍耐」を持って、国を支えていく人物が一人でも多く、求められています。
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