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JOG(368)大野耐一 ~ トヨタ生産方式の創造

8倍以上の生産性を持つ米国にいかに追いつくか、大野耐一の闘いはそこから始まった。


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■1.失われなかった10年■

 トヨタ自動車の(平成15年)九月連結中間決算は、中間期として初めて八兆円を超えた。純利益は一兆円に迫る勢いだ。この十年間で、トヨタの世界販売は一・五倍、総資産は二倍、営業利益は五倍になったという。日本中が「失われた十年」にうちひしがれている間も、トヨタは世界中で業容を拡大し、資産を増やしていたわけだ。(中略)

 トヨタの手法は民間だけでなく公的機関にも広がり始めた。トヨタで育った人材は、中部国際空港の平野幸久社長や郵政公社の高橋俊裕副総裁など引っ張りだこで、現実にトヨタ方式を実践し効果を生み出している。 中部国際空港では、無駄な施設を作らず、設備も低廉なものにするなどして、建設費を一千億円以上節約した。郵政公社でも、トヨタ方式を活用し四百項目以上のムリ、ムダ、ムラを切る努力をしている。[1]

 日本経済を牽引し、なおかつ公共部門にまで貢献を拡げるトヨタは、まさしく豊田左吉が残した「産業報国の実を挙ぐべし」という「豊田綱領」を着実に実践している。このトヨタ方式とは、正式にはトヨタ生産方式と呼ばれ、世界中の製造業に広がりつつある。自動織機を発明した豊田左吉と、その長男で自動車事業を興した豊田喜一郎[a]の思想の上に、これを集大成したのが大野耐一である。

■2.三年でアメリカに追いつかねばならない■

 昭和20年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送によって、終戦が告げられると、軍の要請で軍用トラックばかりつくっていたトヨタの従業員は「苦しかった戦争がようやく終わった」という解放感と共に、「これから先、いったいどうなるのだろうか」という不安感を抱いた。
 
 翌16日の昼過ぎ、豊田喜一郎社長は課長以上の全員を集めて、こう決意を示した。

 日本の自動車産業は三年間でアメリカに追いつけなかったら、生き残っていくことはできないだろう。もし、GHQ(占領軍司令部)の許可がおりて乗用車生産ができるようになったら、トヨタはなんとしてでも三年でアメリカに追いつかねばならない。

 機械工場の課長職だった大野耐一は、これを聞いて「もっともだが、現実的にはとても不可能だ」と思った。大野は当時の気持ちをこう語る。 

 当時アメリカの工業生産性は日本の8倍以上もありました。ですから、それを3年で追いつけと言っても、日本の能力からいって絶対に追いつけるわけがなかった。しかし一方では社長のいうように、3年間でなんとか追いつかなかったら、日本の自動車産業は本当にやっていけないだろう。どうせ3年でつぶれるなら、いっそ思い切って好きなようにやってみようと思いました。[2,p72] それなら、どうするのか。

 工場の生産性で8倍から10倍も上回る米国のやり方を真似してやっていたのではトヨタ、ひいては日本の自動車産業は絶対ダメだと思っていました。終戦当時すでに頭の中では米国流のやり方とは異なった、今日のトヨタ生産方式の原型に近いことを考えていました。ですから、その当時トヨタが私のやりかたをやって潰れるならば、日産や他のメーカーもつぶれるに決まっている。と同時に私のやり方でトヨタがうまく成功すれば、日本の自動車メーカーもみんな助かるのではないかと思いました。[2,p267]

■3.「作りすぎはダメだ。」■

 昭和24(1949)年、戦後のインフレ対策の結果、日本経済は深刻な不況に陥り、モノがさっぱり売れなくなって倒産する企業が続出した。

トヨタもその頃には月産千台まで作れるようになっていたが、せっかく作った車が売れずに、資金が回収できず、倒産寸前にまで追い込まれた。

 工場で売れない在庫のヤマに囲まれて、その時私がつくづく痛感したのは「ともかく、作り過ぎは会社をつぶすことになる。作り過ぎは罪悪だ」ということでした。売れないものをいくら作ってみても在庫のヤマを作るだけで、最終的には売れ残ってスクラップにすることになる。それよりも、「売れるモノを、売れる時に、売れるだけ作る」ことがいかに大切かを本当に身にしみて感じました。[2,p80]

エンジンはエンジン工場で、トランスミッションはトランスミッション工場で、と部品毎にモノが作られ、それらが組立工場へ送られる。エンジン工場の現場の作業者は、たくさん作れば能率が上がるだろうと、組立工場の必要量など構わずにモノを作り、工場のあちこちに在庫のヤマが積み上がっていた。

 豊田喜一郎は、戦前から組立ラインが必要とする時に、ちょうど間に合うように部品が届く、というのが理想だと説き、それを「ジャスト・イン・タイム」という和製英語で表現していた。

 大野もこの考えに従って、作業者たちに「作りすぎはダメだ。必要なモノを必要な時に、必要なだけしか作ってはいかん」と命じた。また組立工場からモノを取りに来ても、「お前たち、さっき持っていったばかりではないか。余分にもっていっても作り過ぎるだけだからダメだ」と、絶対に余分なモノを渡さなかった。作れるだけ作るのが生産性向上への道だと信じ込んでいた職人気質の作業者や監督者たちは大野に強く反発した。

 当時現場の強い反対と抵抗を承知でやりましたから、現場の気性のあらい職人たちに「いつ叩き殺されても仕方がない」くらいの覚悟はもっていました。私は今でも現場に入る時に帽子をかぶりません。後ろからハンマーでぶん殴られるのだったら、帽子をかぶってたって同じことなんです。「やれるものならやってみろ」という覚悟がなければ、本当に現場を改革する仕事なんてできなかった。それでもし失敗したら、腹を切って死んだっていいとさえ思っていました。[2,p251]

 大野の先祖は戦国時代からの武家で、祖父は幕末に勤王の志士として活躍した人物である。

■4.スーパーマーケット方式のひらめき■

 なんとか「必要なモノを必要な時に、必要なだけ作る」ための仕組みができないものか、と考えていた大野は、産業視察団として訪米した友人からスーパーマーケットの話を聞いて「これだ!」と思った。

 アメリカのスーパーでは、棚に商品が並んでいて、顧客は必要なモノを自分でとり、店は売れた分だけ棚に補充する。大野はここから「かんばん」方式を考案した。たとえば、車種別にいくつかのエンジンを並べておき、組立工場は必要な分だけ持っていく。

 エンジンの一個一個に「かんばん」と呼ぶ棚札をつけておき、引き取られた分だけ、かんばんが外されて、それでエンジン工場に製造が指示される。これなら、かんばんの枚数で中間在庫も抑えることができる。

 大野は昭和31(1956)年に訪米して、自動車メーカーの工場を見て回った。ひょっとしたら彼らがすでにスーパーマーケット方式をやっているのではないか、と心配していたが、どこもやっていなかったので、内心ホッとした。

 GMやフォードの工場の横には、巨大な在庫センターがあり、膨大な完成車が売れるのを待っていた。生産ラインは部品在庫のヤマで分断されており、モノがスムーズに流れていなかった。これではいくら巨大なマーケットを誇る米国もいつかは行き詰まるのではないか、という予感を持った。

 また作業者は巨大な組立ラインで、機械の一部として働いているのに過ぎない。本当に人間らしく、自分たちの知恵を出して働いていない。トヨタの作業者たちが知恵を出し合って、トヨタ生産方式を実現していけば、きっと米国を追い抜くことができるという確信が漠然とながら湧いてきた。

■5.「問題があれば、ラインを止めよ」■

 しかし必要な部品しか引き取らないのは良いが、もしそれが不良品であったら、組立ラインが停まってしまう。ひとつの車が1万点の部品から構成されているとすると、各部品の不良率が一日に0.01件のレベルでも、組立ラインとしては一日に100回もラインが停まってしまう。だから、ジャスト・イン・タイムの供給を実現しようとしたら、限りなく不良ゼロに近づけなければならない。

 米国では統計的品質管理をやっているので、不良もある程度の確率で発生するのは仕方ないと考える。だから不良が発生しても組立ラインを止めなくていいように、ラインの横に膨大な部品在庫を持つのである。しかし、ここで大野は、かつて教わった豊田左吉の「自働化」から考えていった。

 豊田左吉の発明した自「働」織機は、縦糸や横糸が一本でも切れたら、機械がすぐに止まるという画期的な仕組みになっていた。これで一本の糸が切れたまま、機械が布を織り続けて、大量に不良品が出る、という問題を防ぐ。そこから糸が切れないように改善をしていく。このように異常停止の機能のついた機械を、「自働」機械と呼んだ。 
 
 大野はこれを組立ラインに応用した。あちこちにストップ・ボタンをつけておいて、作業者がミスをしたり、不良を発見したら、すぐにライン全体を止めさせるようにした。

 それで、(問題を解決していくことによって、ラインを)止められんようなことを考えいかにゃいかん。だから昔やり始めた頃なんかは、元町工場の組立も、くたびれたのなら止めなさい。そうしたら組長なり班長なりが、なんでこの作業者にはくたびれるような仕事をさせるか。悪い品物が付けてあったから作業者が止める。どうやったら悪い部品を付けられんようにしていくか、そうして最後には、(問題がなくなって)止めたくても止められんようなことを考えにゃいかんぞ、ということを口をすっぱくして言ったもんだ。[3,p137] 

 問題があれば、ラインを止めさせる。そしてその問題を一つずつ作業者も含め皆で知恵を出し合って、解決していく。その結果、不良や事故や故障というムダを徹底的になくして、生産性を上げていく。自働化とは、一人一人に知恵に絞らせるための仕掛けでもあった。

■6.石油ショック下でも増益■

 大野はこうしてトヨタ生産方式を徐々に完成させ、昭和44(1969)年には生産調査部を設置して、協力企業にまで拡げ始めた。協力会社からの部品供給も100%良品をジャスト・イン・タイムに行わせることによって、ムダの排除と原価低減を進めていったのである。

 昭和48(1973)年10月、第4次中東戦争の勃発を契機に、石油価格が高騰し、日本経済は深刻な不況に陥った。それまでは高度経済成長を続け、自動車も飛ぶように売れていたのが、ガソリンの価格が2倍に跳ね上がったことで、翌49年5月の国内販売台数は対前年同月の41%減と落ち込んだ。

 しかしトヨタでは、大野が作り上げていた「売れるモノを、売れる時に、売れるだけ作る」仕組みをフルに活用して、他社に先駆けて1月には減産に踏み切った。そして3月には在庫調整を終え、4月からは他社が減産に四苦八苦しているのを横目に、一転して増産に転じたのである。

 昭和48年度の決算発表では、自動車各社が軒並み減益に落ち込んだのに対して、トヨタ一社のみ増益となった。マスコミは「こんな異常事態で増益決算とは信じられない。トヨタには何か特別の経営の秘密でもあるのではないか」と一斉に注目した。そこで脚光を浴びたのが、大野が30年近くもかけて営々と築いてきたトヨタ生産方式であった。

■7.海を越えたトヨタ生産方式■

 昭和60(1985)年、トヨタはGMとの合弁企業NUMMI(New United Moter Manufacturing Incorporated)を設立した。カリフォルニア州にあるGMのフリーモント工場の人員や設備を受け継ぎ、トヨタが生産技術や製造を主導して、蘇らせようというのである。

 旧フリーモント工場では、作業者を機械の一部として使う米国流生産システムを採用していたので、志気も非常に低く、欠勤率も高かった。トヨタから派遣されたスタッフは、米国の作業者たちにトヨタ生産方式を教え、彼らの創造性を引き出すことによって、責任感とやりがいを持たせる事に成功した。その結果、一人あたりの生産性は飛躍的に高まった。NUMMIの成功によって、トヨタ生産方式は海外でも適用可能であることが実証されたのである。

 1990(平成2)年、マサチューセッツ工科大学の教授達が、"The Machine That Changed the World”という報告書を出版し、トヨタ生産方式の生産性と品質の高さを実証した。この本によってトヨタ生産方式は世界的に有名になり、欧米でも導入する企業が続出するようになっていった。

■8.「日本人の創造性、日本のオリジナル技術」■

 豊田左吉は「日本人の絶対の力のみを以て一大発明を成し遂げる」という悲願を抱き、25年もかけて自働織機を開発して、その特許を巨額の対価で英国企業に売った。大野はこの事績をふり返りつつ、こう述べる。

 私は左吉翁がいちばん重んじた人間の知能、つまり日本人の知能をいかに生かすかという執念に圧倒される。また、日本人の創造性、日本のオリジナル技術を発見していかないと、一企業のことだけではない、日本はいつまでも欧米世界に追いつき、それに伍していけないという国家意識を、自分を戒める言葉として受け取っている。[4,p163]

 バブル崩壊後の「失われた10年」の間、グローバル・スタンダードに学べ、と盛んに唱えられた。しかし、他国の作ったグローバル・スタンダードを取り入れるという事は、言い方を変えれば、単なる物真似であり、それでは他国に伍して、人類全体の進歩に貢献するオリジナリティを発揮することもできない。

トヨタがこの間も、着々と業績を伸ばして、日本経済を牽引し、さらに空港や郵便の世界にまで国家貢献をなしつつあるのは、トヨタ生産方式に代表される「日本人の創造性、日本のオリジナル技術」にこだわった結果である。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a.

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 産経新聞、「【主張】トヨタ方式 公的機関も見習うべきだ」 H15.11.09

2. 野口恒、「トヨタ生産方式を創った男 大野耐一の闘い」★★★、 TBSブリタニカ、S63

3. 大野耐一、「大野耐一の現場経営」★★、日本能率協会マネジ メントセンター、H13

4. 大野耐一、「トヨタ生産方式」★★、ダイヤモンド社、S53

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■「大野耐一 ~ トヨタ生産方式の創造」について

toshioさんより

 一万田日銀総裁は、1950年に「日本で自動車工業を育成しようと努力することは無意味だ。自動車はアメリカに依存すればいい」と発言したそうです。

 日本人は、その後、企業家精神を発揮して、自動車産業をリーディング産業に育て上げましたが、その過程では、自由貿易に反して、この「幼稚産業」を保護しました。

 日本は自由貿易の恩恵を受けてきたという認識が一般的ですが、この歴史認識は正しいのでしょうか。一方、潜在力や、やる気(企業家精神)を誰が確実に予測できるのでしょうか。

■ 編集長・伊勢雅臣より

日本経済の屋台骨を支える自動車産業も、「国を思うこと深切」なる人々の努力で、育てられてきたのですね。

© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.


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