見出し画像

JOG(407) 米内光政(上) ~日独伊三国同盟の阻止

日本を三国同盟という戦争へのバスに乗せてはならない、と海相・米内は戦った。


過去号閲覧: https://note.com/jog_jp/n/ndeec0de23251
無料メール受信:https://1lejend.com/stepmail/kd.php?no=172776

■1.「金魚大臣」■

 昭和12(1937)年2月2日、米内光政・連合艦隊司令長官は銑十郎内閣の海軍大臣に任命された。身長180センチ近く、色白で体格も姿勢も良い米内は、見かけ倒しの「金魚大臣」とあだ名された。海軍兵学校時代には125人中68番という平凡な成績で、盛岡生まれの東北人らしく無口だったので、「ヨーナイ・グズ政」というあだ名を貰っていた。

 ただ部下として仕えた人々からは、私心のない理想的な上司として敬愛されていた。68番という成績ながら、連合艦隊司令長官まで登り詰めたのも、海軍内での声望が高かったからである。

しかし、米内本人は、海軍軍人の本懐である連合艦隊司令長官に2ヶ月前になったばかりなのにと、不満であったようだ。同期の友人に「娑婆の連中はな、大臣になるとよほどえらいと思って祝電をくれたりするが、おれは大臣など俗吏だと考えているよ」とこぼしたほどである。

この鈍才が、これから何代もの内閣の海軍大臣として戦争への流れを押しとどめようと孤軍奮闘し、さらに国家滅亡の寸前に終戦を実現させようとは、誰も予想できなかったろう。

■2.「反乱軍は許すべからず」■

 いや、予想ではなく、期待をしていた人が一人はいた。昭和天皇である。米内の突然の海相指名の陰にも、天皇のご意向があったようだ。

 伏見宮・軍令部総長から海相就任を命ぜられた時、米内は自分の性格や経歴から不向きであると固持したのだが、伏見宮の異様に熱心な説得に根負けしてしまった。米内を直接知らない伏見宮が、なぜ、執拗に海相就任を迫ったのか。宮中からの意思があった、とすれば、その謎が解ける。[1,p85]

 前年の昭和11年2月26日、二二六事件が勃発した。陸軍の青年将校21名が、1400余名の兵を独断で動かして政府首班や重臣へのテロを敢行し、同時に首相官邸などを占拠した事件である。この時、決起部隊を賊軍とするか義軍と見なすか、判断しかねていた川島陸軍大臣に対して、昭和天皇は「すみやかに暴徒を鎮圧せよ」と命じた。

 この時、米内は横須賀鎮守府の司令長官であり、「反乱軍は許すべからず」との訓示を即座に出し、所管の特別陸戦隊約2千人を26日夕刻、霞ヶ関の海軍省に送り込み、反乱軍と対峙させる態勢をとった。海軍はテロ部隊を反乱軍と見なすという方針を明確に示したわけで、陸軍や政府、国民への影響は大きかった。

 米内への期待は、この時に昭和天皇のご心中に芽生えたものと思われる。

■3.ドイツからの三国同盟提案■

 陸軍大将・林銑十郎の軍部内閣は、選挙で大敗北を喫し、わずか4ヶ月で倒れた。替わって6月に登場したのが、第一次近∂衛文麿内閣である。米内は海相として留任した。

 お公家さん内閣として清新なイメージとともに登場した近衛は、国民の間にも期待を呼び起こしたが、実際には政治的見識も決断力もなく、陸軍、および世界共産革命を狙うソ連スパイ尾崎秀實の操り人形として、日本を戦争と全体主義への道に導いていく。[a]

 就任1ヶ月後には蘆溝橋事件をきっかけに、日中両軍が衝突し、近衛内閣は不拡大方針を打ち出しながらも、ずるずると中国全土での戦いに引きずり込まれていった。

 陸軍は、徹底抗戦を続ける蒋介石政権と中国共産党の背後に、それぞれ英米とソ連がいると考え、翌昭和13年8月にドイツから持ちかけられた日独伊三国同盟の締結を主張した。

 米内はこの同盟案の第3項を特に問題と考えた。

 ABC(締約3国)の一(A)が、ABC以外の第3国 より攻撃を受けたる場合においては、他のBCはこれに対し、「武力援助」を行う義務あるものとす。 

これでは相手がソ連とは限らず、たとえばドイツが英国と戦端を開いた場合にも、日本は自動的にドイツ側に立って参戦しなければならない事になる。

■4.米内の「憂慮」■

 昭和13(1938)年8月21日、米内は陸軍大臣・板垣征四郎と三国同盟について激しい議論を行った。米内はこう主張した。

 ソ連と英国を一緒にし、これを相手とする日独伊の攻守同盟の如きは絶対に不可である。日本が中国に望むのは 「和平」で、排他独善の意思は持っていない。英国がわが 真意を諒解すれば、両国の関係は徐々に好転するであろう。

 中国に権益を持っていない他国と結び、最大の権益を持っ ている英国を中国から駆逐しようとするようなことは、ひとつの観念論にほかならない。また日本の現状からみても、できることでもなければ、なすべきことでもない。よろしく英国を利用して、中国問題の解決を図るべきである。

 米国が、現在のところ中国問題に介入しない態度をとっ ているのは、中国における列国の機会均等・門戸開放を前 提としてのことである。もし某々国がこの原則を破るよう なことを敢えてしたならば、米国は黙視しないであろう。 この場合米国は英国と結ぶ公算が強い。

 中国問題について、英米を束にして向うに回すことにな り、なんら成功の算を見出しえないだけでなく、この上も なく危険である。かりに英米は武力をもってわれに臨まな いとしても、その経済圧迫を考えるとき、まことに憂慮に 耐えない。[1,p149]

 

後の歴史は、まさしく米内の「憂慮」の通り展開していった。

■5.「馬鹿を見るのは日本ばかり」■

 米内はさらに「独伊はなぜ日本に好意を寄せるのか」と説く。

 好意というよりは、むしろ日本を乗じやすい国として自 分の味方に引き入れようとするのか、冷静に考察しなければならない。

 ドイツはハンガリー、チェコを合併して、第一次大戦前のオーストリア合併の大国になろうとし、あわよくばポーランドをも併合し、さらに進んでウクライナを植民地とし、 また中国においては相当な割り前を得ようとするだろう。

 イタリアは将来スペインに幅をきかし、これを本国と連 結させるために、地中海において優位を獲得し、中国にお いてはこれまた相当の割り前を得ようとするだろう。

 我が国としては、すでに事実上満洲を領有した。満洲の 基礎を強化して、その発展を達成させることは、日本とし てさしあたりの急務であり、そのために必要とする経費は 日中貿易に求めるべきである。・・・このためには列国と の協調こそが必要で、このさい特殊国と特殊の協約を締結する必要があろうか。

 日独伊の協定を強化し、これと攻守同盟を締結しようと するようなことは、それぞれの国がその野心をたくましく しようとする(他国を侵略する)ことに他ならない。独伊 と結んで、どれほどの利益があるだろうか。結んだ場合の 利害を比較すれば、馬鹿を見るのは日本ばかりという結果 となるだろう。[1,p149]

 米内は、かつてベルリンやワルシャワに2年半ほど駐在したことがあり、欧州情勢をよく研究していた。ヒトラーの『わが闘争』も熟読していて、「ヒトラー一代でドイツが欧州の支配者となる『欧州の新秩序』を完成しようとしているが、とんでもない妄想だ」との感を強く持っていた。「金魚大臣」の腹の中には、世界情勢に関する深い見識があったのである。

■6.「これ以上、日本が日和見的態度をとるなら」■

 三国同盟案は、何度も五相(首相、陸・海・外・蔵相)会議で議論されたが、米内の頑とした反対で、膠着状態に陥った。支那事変の方も一向に解決の手がかりがつかめず、近衛はやる気を失って、内閣を放り出してしまった。

 昭和14(1939)年1月5日、平沼騏一郎が大命を受け、米内も板垣も留任した。翌日、ドイツはあらためて三国同盟案を提案してきた。問題の「自動参戦条項」は、今までと大差ない。

 相変わらず五相会議では米内と板垣が対立し、議論が進展しない間に、ドイツは3月15日、チェコを併合、23日にはスロヴァキアを保護国としてしまった。ドイツと英仏の対立は緊迫の度を増していった。

 4月20日夜には、大島・駐独大使はリッペントロップ独・外相から「これ以上、日本が日和見的態度をとるなら、ヒトラー総統の性格上協定の成立は絶望である。また独ソの接近もあり得る」と脅され、その旨を電報で報告してきた。

 米内は「昨日、大島よりの電報にかんがみるに、独側はおどしたりすかしたりの手段を用いて締結を急ぎおるものと観察す。先方が日本の方針にて不同意ならば、協定不成立の結果となるもまたやむを得ず」と腹を固めていた。

 この電報を受けて、23日の日曜日に緊急の五相会議が開かれたが、米内が中心となって板垣を押し切り、「対ソ戦の場合を除いた戦争にはいかなる効果的援助もなし得ない。日本は常に参戦、宣戦の決定権を保留する」との結論を出した。

■7.命をかけた反対■

 5月8日、独伊が日本抜きで2国間の政治軍事協定を結ぶ事を発表した。焦った大島大使は、3国同盟について最後の決心を固めて貰いたい、と伝えてきた。

 翌日、陸軍の青年将校たちは、尋常な議論では米内を抑える事はできないと、参謀総長・閑院宮元帥を通じて、昭和天皇に直接、三国同盟の聖断を仰ごうとした。昭和天皇は厳然とこの上奏を拒否された。

 5月末からは、陸軍に指示を受けた右翼の押しかけが激しくなり、海軍省では万一、陸海軍の内戦が始まった場合に備えて、横須賀から一個小隊の陸戦隊を派遣させ、食料、武器弾薬、自家発電設備まで備えて、籠城戦の準備を行った。

 しかし海軍側でも、心底から三国同盟に反対していたのは、米内海相、山本五十六次官、井上成美軍務局長のトリオぐらいで、青年将校の間では三国同盟推進派も少なくなかった。山本はいつテロリストに殺されるかと密かに遺書を書いていた。

 日本を三国同盟という戦争へのバスに乗せてはならない、という昭和天皇の御意思を命がけで守ろうとしていたのは、米内ら3人であった。

■8.「勝つ見込みはありません」■

 8月8日の五相会議では、席上、板垣が無留保の三国同盟締結を提案した。5月に始まったノモンハンでのソ連軍の満洲国侵入に対し、陸軍は一刻も早くドイツと手を結んでソ連を牽制したいと焦っていたのである。[b]

 この席上、石渡蔵相が「同盟を結ぶとすれば、日独伊3国が、英仏米ソ4国を相手に戦争をする場合がありうる。その際、8割までは海軍の戦争になるが、日独伊の海軍は、英仏米ソの海軍と戦って勝つ見込みがあるのか」と米内に聞いた。米内は即答した。

 勝つ見込みはありません。大体、日本の海軍は、米、英 をまとめて向うに回して戦争をするように建造されてはおりません。独伊の海軍に到っては問題になりません。


 米内の一言は、軍人として最も言いにくい事を明確に言い切ったものであった。同時に、三国同盟不成立の責任は海軍が引き受ける、という覚悟の回答であった。五相会議の一同は、深い衝撃を受けた。


 3国同盟に関する1年以上もの議論は突然の結末を迎えた。8月19日、独ソ不可侵条約の締結が公表された。大島大使のもとに独外相からの連絡があったのは、その二日も後だった。ドイツ側からソ連を対象とした軍事同盟を提案しておきながら、あまりに信義のない仕打ちであった。

 8月28日、平沼内閣は総辞職した。「独ソ不可侵条約により、欧州の天地は複雑怪奇な新情勢を生じたので、わが方はこれに鑑み、従来準備しきたった(三国同盟に関する)政策はこれを打ち切り、、、」との声明を出した。

 米内も2年7ヶ月、4代の内閣に及ぶ海軍大臣を辞して、軍事参議官(無任所の大将)に転出した。8月30日に宮中に離任の挨拶に伺った際、昭和天皇からは「海軍がよくやってくれたおかげで、日本の国は救われた」との異例のお言葉があった。

 昭和天皇のお言葉はすぐに現実となった。9月1日、ドイツはポーランドに侵入。英仏は3日に相次いでドイツに宣戦を布告した。第二次大戦の始まりである。ドイツの原案通りに、自動参戦条項を入れた三国同盟を結んでいたら、日本はこの時点で世界大戦に巻き込まれていたはずである。

 しかし、昭和天皇と米内の戦いはまだまだこれからだった。

(文責:伊勢雅臣)

次回に続きます。

■リンク■

a. 

b.

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け) 

1. 生出寿『米内光政』★★★、徳間文庫、H5

2. 豊田穣『提督米内光政の生涯 上・下』★★★、講談社文庫、S61

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■「米内光政(上)」について

「サムライの末裔」さんより

 仕事の関係で現在カナダ、オンタリオ州に在住しています。国際派日本人養成講座はこちらでも毎週末いつも楽しみにしています。

 米内光政大将は、私自身が最も敬愛する歴史上の人物の一人なので、取り上げて頂き、本当に嬉しく思います。学校で習う歴史では「三国防共協定に続き、三国同盟が結ばれ、日本は戦争への道を・・・」といったおきまりの記述で終わってしまうのが常ですが、実はその裏でこういった見識を持った人が、しかも軍人が、命を掛けて盾となり、日本を守ろうとしていたという事を多くの日本人に知って貰いたいと思います。

 次号では、おそらく「終戦」がテーマになる筈ですが、昭和天皇、鈴木貫太郎首相、そして米内海軍大臣の存在があったからこそ、日本は亡国となる一歩手前で救われたというのもまた歴史の事実です。今の日本の政治の世界で本当に必要とされるのは、この「私心の無さ」と「しっかりした見識に基づく信念」に尽きると思います。

 米内光政大将に関連する著作として、三国同盟に体を張っていた時代に大臣秘書官を勤めていた実松譲さんの「米内光政」(光人社刊)、阿川弘之さんの「米内光政」(新潮社刊)も併せて是非お勧めしたいと思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 天皇を祭り上げながら、そのご意向を無視した人々が多かった中で、米内提督の存在は際だっていますね。

© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

いいなと思ったら応援しよう!