JOG(647) 星一(上)〜「最も優秀な日本人」になるためのアメリカ留学
青年は「最も優秀な日本人になって帰ってこよう」と米国留学に向かった。
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■1.「最も優秀な日本人になって帰ってこようと思っている。」
こう語るのは星一(ほし・はじめ)。明治26(1893)年、19歳の時であった。後に星製薬を創業し、第一次大戦で荒廃したドイツ科学界の復興に多大な貢献をなす人物である。また短編SF(ショート・ショート)の第一人者、星新一の父親でもある。
今の福島県いわき市の農家に生まれ、小学校の先生をしながら、資金を貯めて、東京に出てきていた。
東京で通っていた夜間の商業学校の校長から勧められた『西国立志編』[a]に感激した。その中には欧米の多くの偉人の立志伝が集められており、星は、自分もアメリカに行って勉強したい、という志を立てたのだった。
翌明治27(1894)年10月、星は米国船「チャイナ」号に乗り込み、サンフランシスコを目指した。父親が親類や村の人々からの餞別・寄付を集めて、渡米費用300円を作ってくれたのだが、すでに船賃で50円、初めて着る洋服に8円も使っていた。
■2.「自分の力で生きていこう」
サンフランシスコに着くと、星は知人から紹介されていた中野という男を訪ねた。中野は陶器など日本の雑貨を売る店で成功していた。中野は「よく来た」と星を歓迎しながら、「商品を仕入れる資金を貸さないか。利息は払う」と言うので、星は言われるがままに所持金を渡した。
ところが、10日ほど後に再訪すると、中野は「借金で行き詰まり、店じまいしなければならなくなった」と言い、「返済はしばらく待ってくれ」と頭を下げた。わずか2週間で、所持金がすべてなくなってしまったのである。
途方に暮れて、日本人宣教師が運営している安価な宿泊所のベッドで『西国立志編』を読んでいたらこんな文句が出てきた。
他人に頼ろうとしていたのが良くなかった。自分の力で生きていこう、という気持ちが湧いてきた。
■3.背水の陣のスクールボーイ
当時、日本から来た留学生の多くはスクールボーイをやっていた。アメリカ人の中流家庭に住み込み、掃除や皿洗いなどをしながら、学校に通わせて貰う。
星もある家庭でスクールボーイとして雇われたが、不器用な星は2時間ほどで首になった。その後も、植木鉢を割ってしまったり、芝生に水をやっていて、声をかけられて振り向いたら、主婦に水をかけてしまりと、一カ月で25回も首になるという珍記録を作った。
最後に頼ったのが、子供の二人いるユダヤ人の未亡人で、けちで口やかましく、人使いが荒く、食べ物はまずいので、スクールボーイが次々と逃げ出してしまう、曰く付きの家だった。
星は細かい小言に耐えながら、仕事を覚えていった。未亡人から見れば、仕事は不器用だが、細かく注意すると失敗を二度と繰り返さない、そして逃げ出さない不思議なスクールボーイであった。
一ヶ月もすると、未亡人は星の働きぶりに満足し、小学校に通うことも許してくれた。20歳にして小学4年生のクラスに入れられたのだが、体の大きいアメリカ人の子供の中では、特に不自然ではなかった。
■4.「会話もたどたどしい日本人が、こんな難しい本を読んでいる」
ようやくスクールボーイとして生活が安定したのだが、日本からの留学生の中には、それに安住してしまう者も多かった。わずかな週給を目先の娯楽に使ってしまうなど、留学当初の志の炎を抱き続けるのは難しかった。
そんな周囲を見て、星は自分を戒めた。いつまでもここにいては、当初の志が萎えてしまう。早く学問の本場の東部に行って、本格的な勉強を始めなければならない。
そこで、より給料の高い、アベンジャーという富裕なユダヤ商人の家に移った。何でも命ぜられると「はい」と答えて、昼夜の別なく働いていると、家庭の皆から認められるようになった。
給料の一部を貯めながら、星は経済、社会、政治の本を買い込み、仕事の合間に読みふけった。ある日、本を読んでいると、娘が小説かと思って、「なんの本なの。見せてよ」と寄ってきた。
それが『経済原論』だと知って娘は驚いた。娘が家族にその話をすると、まだ会話もたどたどしい日本人が、こんな難しい本を読んでいるのかと、皆も驚いた。星の信用はますます高まり、ついには商人への支払いなど家計や、息子の外出時の付き添いまで任されるようになった。
■5.「おまえのお母さんは、きっと非常に立派な人なんでしょうね」
ある時、アベンジャー夫人が星に向かって、「おまえのお母さんは、きっと非常に立派な人なんでしょうね」と言った。「なぜ、そんな事を」と聞く星に、夫人はこう語った。[1,p150]
星は胸にこみ上げるものを感じ、涙を流した。
一年経って旅費が貯まると、星は「東部への出発をお許しください」と申し出た。家族は学資なら援助するから、サンフランシスコのスタンフォード大学に通っては、と引き留めたが、星はあくまで、アメリカ第一のコロンビア大学に行きたいと希望を述べた。
そこまで言うなら、と家族は盛大な送別会を開いて、星を送り出した。星は明治29(1896)年5月、思い出深いサンフランシスコをあとに、汽車でニューヨークに向かった。
その前年、母国は日清戦争には勝ったが、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉に屈して遼東半島を返還した。一刻も早く国力を充実させなければならない、というのが、国民の一致した思いだった。
■6.「日本人がこんなに誠実で有能とは知りませんでした」
1週間の汽車の旅で辿り着いたニューヨークは、地下鉄が走り、高層ビルがそびえる、圧倒されるような大都市だった。
コロンビア大学に行って、日本での学歴を説明すると、入学はすぐに認めてくれた。しかし学期始めの9月までに年額150ドルもの授業料を払わねばならない。日本を出発する時に、親が駆けずり回って工面してくれたのと、同程度の金額である。
夏の3ヶ月、家事手伝いをして、よく働いたと貰ったボーナスも含め、なんとか100ドル余り貯まった。それでも授業料には足りないので、大学の事務局と交渉し、とりあえず半額を納めて、半年だけ講義を受けさせて貰うという条件で頼み込んだ。
星の熱意にほだされて、異例のことだが、大学側も許してくれた。残りの授業料は、家事手伝いを続けながら、納めた。
ステキニーという家庭で雇われていた時、大学までかなりの距離を歩いて通っている星を夫人が気の毒に思い、電車で通うよう10ドルを渡した。星は始めの約束にはない事だから、と受け取りを固持した。
それでは気が済まないという夫人に、星はこう提案した。日本領事館に届く日本の新聞・雑誌の記事を英訳して、当地の新聞社や通信社に売りたい。ついては、自分の英訳をちゃんとした文章に直していただけないか、と。
星が試しに英訳した文章を持ってくると、夫人はそれを読んでこう言った。[1,p183]
夫人は、訳文の添削だけでなく、記事の売り込みや価格交渉まで助けてくれた。当時は神秘の国日本を知りたいという読者も多く、売れ行きは悪くなかった。星は原稿収入で経済的な余裕を得て、電車で通学し、本を買うのも不自由しなくなった。さらに夫人の添削で英語の文章力も上達した。
■6.アメリカ人の日本理解を深めるために
英訳記事を売るようになって、星は新聞に興味を持った。そこで小規模な日本語新聞を発行してみようと考えた。英語が不自由な日系人に母国のニュースを知らせ、また在米の仲間の消息を伝えるミニコミ紙である。「日米週報」と名付け、見本を出してみると好評だった。
星は学校に通うかたわら、毎週1回記事を作り、印刷し、郵送する仕事を始めた。部数も4百部ほどに伸び、利益も上がってきたので、サンフランシスコから安楽英治という親友を呼び寄せ、共同経営者にした。
1901(明治34)年、星は「アメリカにおけるトラスト」というテーマで論文を書き上げ、コロンビア大学を卒業した。多くの日本人留学生は、日本に関連した書きやすいテーマを取り上げるのだが、困難を避けず、アメリカ人学生と同じ土俵で勝負する、というのが、星の性格だった。
アメリカ最高の大学を卒業するという夢が実現すると、さらに次の困難に挑戦したくなるのも星の性格である。アメリカ人読者を対象に、日本への理解を浸透させるための英文月刊誌の刊行である。
しかし「ジャパン・アンド・アメリカ」と名付けて創刊してみたものの部数は伸びず、「日米週報」の利益も食われていく。それでも母国のためにと志した事業をなんとか成功させねばと、星は耐乏生活に戻って、借金をしながらも、刊行を続けた。
■7.セントルイス万博での日本紹介
星は経営に苦しみながら、打開策を探り続けた。そんな中でひらめいたのが、1904(明治37)年にセントルイスで開かれる万国博覧会である。
4年前のパリ万博は4千万人もの入場者があった。アメリカ人に日本を知らせるには、絶好の機会である。そこで日本を理解させる英文パンフレットを作って、売ろうと考えた。
おりしもこの年の2月、日露戦争が始まった。国際世論を味方につけ、戦費調達のための欧米市場での起債を成功させるためにも、日本は欧米社会から理解を得る必要があった。
博覧会の会長に面会し、パンフレットの販売を申し入れたが、売店の許可は出せないという。そこで、博覧会役員の夫人たちのパーティーが開かれるということを聞き込み、ちょっとでいいからスピーチさせて欲しい、と頼んだら、チャンスをくれた。
自分の苦学中に出会ったアメリカの善良な夫人たちの印象を語ると、聴衆は喜んだ。さらに日本女性の長所にもふれ、日米親善のために売店を開かせて貰いたいと付け加えた。女性の力の強い国で、さっそく、次の日には会長から売店の許可がおりた。
万博が始まると、星のパンフレットは売れに売れた。1冊1ドルのパンフレットが会期末までに10万部も売れたのである。これで借金も返せたし、しばらくは事業継続に困らない利益も残った。
■8.帰国
年が明けて、日本は陸海でロシアに大勝し、アメリカのルーズベルトが仲介に乗り出した。日本の存在は世界に認められた。星は「ジャパン・アンド・アメリカ」の役割は終えたと考えて廃刊とし、「日米週報」は共同経営者の安楽英治に任せ、残った利益もすべて彼に任せて、帰国することとした。
1905(明治38)年、サンフランシスコから帰国の船に乗った。日本からこの地に辿り着いたのが20歳の時で、今は31歳。あしかけ12年、「最も優秀な日本人になって帰ってこよう」という志の炎を絶やさずに、一生懸命取り組んだ日々だった。
日本に帰って何をするのか、計画もないし、資金もない。すべてはこれからだ。しかし自信はある。その自信を与えてくれた国の陸地の陰が水平線の彼方に消えようとしている。それに向かって、星は「さようなら・・・」と心の中でつぶやいた。
(文責:伊勢雅臣)
(次回に続きます)
■リンク■
a. JOG(184) セント・ポール大聖堂にて~大英帝国建設の原動力
そこここに立つ偉人の彫像や記念碑は、未来の「精神の貴族」を育てる志の記憶装置である。
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■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 星新一『明治・父・アメリカ』★★★、新潮文庫、S53
■「星一(ほし・はじめ)の米国立志編」に寄せられたおたより
■編集長・伊勢雅臣より
「我々は日の丸を背負っている」とは素晴らしい言葉ですね。
■編集長・伊勢雅臣より
「日の丸を背負っている」という意識がもっと日本人を強くするはずですね。
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