JOG(1193) 古関裕而 ~ 戦前戦中戦後を通じて、国民を慰め、励まし続けた作曲家
NHKの朝ドラは古関裕而の実像を正確に伝えていたのか?
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■1.戦前・戦中・戦後を通じて大ヒットを続けた作曲家
次の曲の一節を聞いたら、いずれも聴いたことがあると思う方は多いでしょう。
その他、歌い出しだけ挙げれば、「若い血潮の 予科練は」「君の名はと たずねし人あり」「モスラや モスラ」「六甲おろしに 颯爽と」「闘魂込めて 大空に」と続きます。これだけ違うジャンルの歌謡曲を、しかも戦前・戦中・戦後を通じて次々と大ヒットさせた作曲家。それが古関裕而(こせき・ゆうじ)です。
古関裕而を主人公としたNHKの朝の連続ドラマが終わりました。私もほとんど毎回見ていました。脇役たちの人生模様も巧みに織り交ぜて、素晴らしいドラマでした。ただ一つ残念なのは、終戦後、古関裕而が自分の歌で多くの青年を戦場に送った事の責任を感じて、1年半も作曲できず、苦しみの末に国民を励ますことが自分の役割だと気づいて立ち上がった、という部分です。
これは明らかに史実と違います。現実には昭和20(1945)年10月初め、すなわち終戦後2か月足らずで、戦後最初のNHKラジオドラマとして『山から来た男』の音楽を担当して、ヒットさせています。田舎に疎開していた男が、山から帰って会社を再建していく物語でした。終戦直後から、古関は戦前、戦中と変わらずに国民を励まし続けたのです。その足跡を辿ってみましょう。
■2.「作曲した甲斐があった、としみじみ感じた」
「露営の歌」を作曲したのは、昭和12(1937)年、満洲旅行からの帰りに門司で下船し、東京に向かう特急列車の中でした。久しぶりに読んだ日本の新聞で、軍歌歌詞の懸賞募集の第二席に入った兵士の応募作に、古関は心打たれたのでした。
東京に戻って、所属していたコロンビア・レコードのディレクターに会うと、ちょうどその詩に曲をつけて欲しいとの依頼を受けました。「あっ、それならもう車中で作曲しました」と、お互い偶然に驚きました。
レコード発売後、2か月たったある日、新聞の夕刊に「前線の勇士『露営の歌』を大合唱す」という見出しで、上海戦線の兵士たちがポータブル蓄音機を囲んで手を振り上げながら、大合唱している写真が載っていました。
■3.『露営の歌』を兵士たちはなぜ大合唱したのか
「勝ってくるぞと勇ましく」という歌い出しから、いかにも戦意高揚の歌のように受け取られるかも知れませんが、「進軍ラッパ聴くたびに/瞼に浮かぶ旗の波」の「旗の波」に注意する必要があります。
それは自分を送ってくれる人々の日の丸の旗の波です。この歌が作られた昭和12(1937)年の7月29日には通州事変で2百数十名の邦人居留民と日本軍守備隊とが虐殺され、8月には蒋介石軍が上海方面に10個師団の兵力を集中しつつあり、わずか4千人の海軍陸戦隊に守られた数万の邦人居留民の生命が脅かされていました。[JOG(1031)]
中国にいる同胞国民を守って欲しい、とは、国民誰もが抱く願いでした。「旗の波」で、その願いを一身に受けた以上、「手柄たてずに 死なりょうか」という使命感を多くの将兵は抱いていたでしょう。同時に二番では「馬のたてがみ なでながら 明日(あす)の命を 誰が知る」との不安に駆られるのも当然の人情です。
国と国民を守ろうとする使命感と、いつ倒れるか分からない不安。そのせめぎ合いの中で、将兵たちは異国の地で戦っていたのです。上海戦線の兵士たちが『露営の歌』を大合唱していたのは、この歌で兵士たちは自分の思いを歌い晴らせたからでしょう。
これを軍国主義の戦意高揚の軍歌に踊らされた哀れな兵士たちと見る事は、先人への侮辱です。同時に、古関裕而の仕事の価値を否定することでもあります。天下のNHKにこんな虚像を被せられた泉下の古関裕而の無念は察するに余りあります。
■4.将兵たちとの涙
昭和13(1938)年8月、軍の報道部から「従軍と実戦を体験してきてもらいたい」という要請がありました。
上海から揚子江を700キロほど遡った九江でのこと、古関ら一行は陸軍病院の慰問に行きました。軍楽隊の演奏会が開かれ、古関は突然、ステージの上に呼び出されて紹介されました。
古関を紹介した隊長は、後にこの時のことを次のように記しています。
史実にもとづいて古関の人柄を描くなら、この場面は外せないはずです。古関の歌が国民に愛唱されたのは、家族との別れに後ろ髪を引かれながら、国のために戦場に赴いた将兵たちの心情への深い共感があったからでしょう。しかしNHKのドラマはこのシーンを描きませんでした。日本罪悪史観で古関を描くには、都合の悪い光景だからでしょう。
■5.「音楽の徳」
古関は国民的な作曲家として、軍から何度も戦地慰問を依頼され、開戦の翌年、昭和17(1942)年10月、シンガポールからビルマ、クアラルンプールと回りました。
開戦劈頭、シンガポールを母港としていたイギリスの誇る不沈戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを海軍の航空攻撃隊が撃沈した時は、「我々は思わず拍手し、昂奮、感激した。始まった以上、勝たねばならぬからである」と語っています。
シンガポールからの帰国の船では、こんな光景がありました。
戦争になったら、互いに国のために戦わなければならない。しかし、戦い終わって捕虜となった外国人には、こうして音楽によって慰める。国民を励まし、慰める古関の「音楽の徳」は、外国人にも隔てなく発揮されていたのです。
■6.「俺たちが行かなければしようがないじゃないか」
昭和18(1943)年5月初め、海軍航空隊の予科練習生を主題とした映画を東宝が制作することになり、その主題歌の作曲を依頼されました。古関は土浦航空隊に一日入隊し、起床から就寝までまる一日つぶさに見学しました。
この体験から生まれたのが、次の「若鷲の歌」です。
NHKのドラマでは古関の娘が思いを寄せていた少年が予科練を希望し、戦死するというストーリーで、これも古関の歌がいかに人々を戦争に駆り立てたか、を訴えるエピソードとなっています。
しかし、予科練の関係者の座談会での次のような発言を古関は引用して、自分の思いを語っています。
■7.「打ちひしがれた人々のために再起を願つて」
古関の「音楽の徳」は戦後もそのまま発揮されました。その一例が「長崎の鐘」です。長崎医大の永井隆博士の著書『長崎の鐘』をヒントにして、サトウハチローが作詞した歌でした。永井博士は原爆で夫人を亡くし、本人も白血病にかかっていて、病床で筆を執ったのでした。
曲は「こよなく晴れた青空を/悲しと思ふ せつなさよ」ともの悲しくも美しい短調で始まるのですが、「なぐさめ はげまし 長崎の/ああ 長崎の鐘が鳴る」と長調に転調して、聞く人を勇気づけるのです。昭和24(1949)年4月に発売されたレコードは、たちまちベストセラーになりました。この曲をラジオ放送で聴いた永井博士は、すぐに流麗な筆で書いた手紙を古関に送りました。
戦前も戦中も戦後も、我々の先人たちは時代の荒波の中を懸命に生きてきました、古関の歌に慰められ、励まされながら。その戦前・戦中の歌だけが軍国主義の戦意高揚のために作られ国民を騙して戦場に向かわせた、というドラマが、古関と彼の歌を愛唱した先人たちの実像であるとは、私にはどうしても思えないのです。
そういう虚像を、古関と幾百万の国民に平気で押し被せることは、占領軍とその後の左翼による日本罪悪史観にいまだ騙されている一部の人々の傲慢ではないでしょうか。
(文責:伊勢雅臣)
■おたより
■伊勢雅臣より
古関氏のファンにとって、その実像をねじ曲げてまで、自分の偏向史観を広げようとするNHKの姿勢は許せないものでしょう。
■伊勢雅臣より
紙面の制約で紹介できませんでしが、NHKドラマでは妻が愛国婦人会の活動にそっぽを向いていた、としていましたが、自伝では「防空群長の妻は隣組を守るために大活躍」とか、玉音放送で涙を流した様が書かれています。一国民として精一杯、お国のために尽くされた婦人でした。
■伊勢雅臣より
真の力は怨みからではなく、「希望を与える祈りの歌」から来るのですね。
■伊勢雅臣より
税金もどきの受信料で、偏向史観を押しつけるのは犯罪的行為ですね。
■伊勢雅臣
当時の若者はこういう気持ちで、「露営の歌」や「若鷲の歌」を歌っていたのでしょう。
■伊勢雅臣
国民の幸せを願われる両陛下も、古関裕而が国民を慰め、励ましていた仕事に感謝されていたのでしょう。
■リンク■
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・古関 裕而『鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝』★★★、集英社文庫、H31
・辻田 真佐憲『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』★★★、文春新書(Kindle版)、R02