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JOG(659) 東洋水産・森和夫の挑戦(下)

アメリカに進出した東洋水産に、二つの危機が襲いかかった。

(前号より続きます。)


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■1.「全米で売りまくって儲ければいいんでしょう」

 東洋水産社長の森和夫が、米国法人マルチャンINCのジェネラル・マネジャーとして採用したジョージ・デラードと初めて会ったのは、1976(昭和51)年9月下旬だった。

 すでに「カップ入り天そば」や「マルちゃんのカップうどんきつね」が大ヒットして、国内シェアは第2位の30パーセント、「マルちゃん」は、ナショナル・ブランドとして確立されつつあった。武田鉄矢を起用しての「マルちゃんの赤いきつね」が大ヒットするのは、もう少し後のことである。

 即席麺の対米輸出を1972(昭和47)年から本格的に開始し、同年ロサンゼルスに現地法人マルチャンINCを設立した。アメリカ人は「マルチャン」と発音できず、「マルシャン」と呼んだ。

 そしていよいよ米国でのカップ麺生産を始めようと工場建設を開始し、米国人の総支配人を雇ったところだった。

 デラードはイタリア系アメリカ人で、年齢は40台半ば。押し出しも堂々としており、悪くはないだろう、というのが、森の第一印象だった。日本の音響機器メーカーの米国法人で、ジェネラル・マネジャーとしての実績があり、なかなかの遣り手という触れ込みだった。

「わたしは過去に失敗したことは一度もありません。要はマルシャンラーメンを全米で売りまくって儲ければいいんでしょう。お安いご用ですよ」と言うデラードは、自信の塊のような男だった。

■2.「アメリカで仕事をする以上は、、、」

 デラードを採用する時に、森はいろいろな人の意見を聞いたが、反対した人物が一人だけいた。公認会計士の竹中征夫である。

 堅実経営をモットーとしてきたティアックと折り合いがつかなくて辞任した人ですよ。なんというか、けれんが強くて森さんとは肌合いが違うし、セールス・ボリュームを広げさえすればモノが売れると考えているような人ですからねえ。

 確かにデラードの自信たっぷりの態度はどうかな、という気がしていたが、それがアメリカ流だろうし、また「アメリカで仕事をする以上はアメリカ人に経営をまかせるぐらいの気持ちにならなければいけない」と森が言うと、竹中はそれ以上、反対しなかった。

 その年の暮れに、米国第一物産社長の佐藤達郎から、国際電話がかかってきた。一流の美人歌手を使ったマルチャンラーメンのコマーシャルが全米で流れているという。まだロスの工場も完成していない段階だ。

 森はすぐにデラードに国際電話を入れて、「まだコマーシャルを流す時期ではない」と注意したが、デラードは「今からPRしてちょうどいいんです。テレビCMくらいわたしにまかせてもらえませんか。まだ業績をうんぬんするのは早過ぎますが、問題は結果だと思います」と森を煙にまいてしまった。

 米国工場は1977(昭和52年)3月に完成した。盛大な竣工披露パーティが開かれ、コマーシャルに使った美人歌手も呼んで、デラードは得意の絶頂だった。

■3.「授業料は高くついた」

 1977(昭和52)年3月期の決算で、マルチャンINCは150万ドル近い欠損を出した。それ以降も赤字は増え続け、ひどい月には20万ドルもの赤字を出した。

 森は、デラードには管理能力がない、と判断して、米国に赴き、本人に会った。デラードは肩を落とし、森の前で顔を上げなかった。

 きみはラーメンの製造コストを無視してただ安売りして量をさばけばいいと考えていたようだが、それでは赤字は増える一方ではないのかね。しかも現実には価格を下げてもマーケットは広がらなかった。ライバル品と比べて粗悪品とみなされるだけだ。

 テレビCMを派手にやったらしいが、CM費も含めて販売経費を掛け過ぎたことにも問題があるな。

 きみが生産部門にフル生産を指示したお陰で倉庫はラーメンの山だが、在庫にコストがかかることは知ってたんだろうねえ。また時間の経過につれて商品価値を失うことは考えなかったのか。

 マルチャンINCの業績悪化の責任の大半はデラードにあるとして、森は解任を告げた。デラードは黙ってうなずいた。

 その日の午後、森は竹中に会って、彼の反対を聞き入れなかった事が悔やまれると語った。竹中はこう答えた。

 森社長は率直というか謙虚なかたですね。森さんほどのオーナー社長になると自分の失敗は認めたがらないものです。こういうことをわたしの前で話題にされる森社長を尊敬します。

 森は照れくさそうに答えた。

 デラードを採用したのはわたしです。自分のエラーを部下になすりつけるなんて卑劣なことは、わたしにはできないし、そんなことは社員にもゆるしません。

 授業料は高くついたが、マルチャンINCを投げ出すつもりはない、と森は決意を語った。

■4.「こうなったら断固戦うぞ」

 米国事業では、もう一つ大きな問題が持ち上がっていた。経済界を代表するN新聞に「日華食品、米国で特許確立。輸入差し止め権も。東洋水産など大打撃」との記事が掲載されたのである。さらには「アメリカで特許をとった顔」などと日華食品の大広告が掲載された。

 日華食品はインスタント・ラーメンでトップシェアを持ち、また米国でもすでにカップ麺を生産、販売していた。しかし、その特許が成立している事実はなく、東洋水産の米国進出を妨害しようと、意図的に虚報をリークしたのは、明らかだった。

 日華食品の創業社長・安東福一は日本統治時代の台湾嘉義県出身で、インスタント・ラーメンを開発したのは自分だと吹聴していたが、別人の発明を盗んで商品化したと言われている。[1,p286]

 さらに東洋水産の「カップうどんきつね」が大ヒットした時は、平気でその真似をしていた。

 また、日華食品の役員が興日証券を訪れて、東洋水産がアメリカでインスタントラーメンを生産販売するのは不可能だから、増資の引き受けはやらないほうが懸命だと申し入れた事実も判明した。

 米国の取引先などが、一連の報道や広告でマルチャンINCの先行きを不安視している、という情報ももたらされた。

 森は役員会で、まなじりを決して言い放った。「こうなったら断固戦うぞ。法治国でこんな暴力行為がゆるされていいわけがない」

■5.法廷での戦い

 日華食品は、即席麺の製法、およびカップ容器に関して、二つの米国特許を登録していたが、日本では「新規性なし」などと判断されて、特許庁から「拒絶査定」されていた。

 日華食品は、N新聞の報道後に急いで米国での「登録」を行ったが、アメリカでは事前の公告制度がないので東洋水産は異議申し立てができなかった。そこで、米国連邦裁判所に対し、米国特許無効の確認を求める訴訟を起こした。

 それに対抗して日華食品は、東洋水産が同社の特許を侵害しているので、200万ドルの賠償金を支払うよう逆提訴した。

 安東に対する予備審査での尋問が行われた。東洋水産側の若手弁護士プライスは正義感が強く、有能だった。安東がかつて大阪の信用組合の理事長をやっていた頃、資金を小麦の買い占めにつぎ込んで背任罪で有罪となった経歴や、安東がインスタント・ラーメンの真の発明者でないことまで持ち出して、安東を問い詰めた。安東の答えは支離滅裂になった。

 一方、森の方は日華食品側の弁護士の質問に、冷静かつ的確に答えた。

 予備審査の後、日華食品側は容器に関する特許の権利を放棄する旨を申請し、かつ製法特許に関しては特許侵害の訴えを取り下げるので、東洋水産の特許無効の確認を求める訴えを却下して欲しい、と連邦裁判所に申請した。

 日華食品は、特許係争では勝ち目がないと判断し、特許が二つとも無効と裁定されては日華食品の面子が丸つぶれになってしまうので、この点だけはなんとか曖昧にしておきたい、との狙いのようだった。

■6.「敵ながらあっぱれ」

 法廷での戦いが不利と分かると、日華食品はさかんに和解工作に乗り出した。創業者の安東は、森をむりやりホテルに呼び出して、大物政治家に仲介を頼もうと言い出した。安東が政治家の名前を無言の圧力にして、業界を我が者顔でのし歩いている、と森の目には映っていた。

「あなたは政治家を使うのを常套手段にしているようですが、あまりいい趣味とは言えませんねえ。政治家を使う方が裁判を続けるよりもよっぽどおカネがかかるのではありませんか」と森は皮肉たっぷりに言い放った。

 次に日華食品の専務が、森に和解を申し入れてきた。紳士的な人間で、心ならずも安東社長の指示に従っている、という感じだった。しかし話し合っているうちに森は心が高ぶって、こう言った。

 わたしは勝訴の自信があります。事実ウチが特許を侵害していないことを日華食品さんは認めたじゃないですか。虚偽の新聞記事と広告によって当社が受けたダメージは小さくありません。ウチがもっと小さな会社でしたら泣き寝入りしていたかもしれませんが、日華食品さんの弱い者いじめに対して、何らかの社会的制裁が必要だと思っているくらいです。

 その後は日華食品側の弁護士アームストロングが、東洋水産側のプライス弁護士に和解を求めてきた。アームストロングはプライスに「ミスター・モリは日華食品の人々から勇気ある人だと思われている」と言った。プライスも森に「フクイチアントウさんの恫喝に屈しなかったミスター・モリは敵ながらあっぱれと思われて当然です」と語った。

 しかし、和解の条件の中に「挨拶料を払え」という項目があった。口頭では「一億円でどうか」ということだった。森は「マフィアとかヤクザの世界なら分かりますが、大手企業の日華食品さんから挨拶料を出せなどと言われるとは夢にも思いませんでした」と逆襲した。日本の商法違反の恐れもあるので、所管官庁や食品業界にも相談してみる、と言い添えた。

 結局、ヤクザまがいの挨拶料を要求したことが日華食品側の負い目となって、東洋水産側の条件に近い形で、和解が成立した。日華食品の米国特許の有効性については結論を保留するが、日華側も権利を主張しないという合意である。

 そもそもは日華側が特許侵害を口実に東洋水産の米国進出を妨害しようとしたので、事実上は、東洋水産の勝利であった。時に昭和54(1979)年3月15日。N新聞が「日華食品、米国で特許確立」との虚報を流してから、2年9ヶ月が経っていた。

■7.「片道切符で行く覚悟です」

 しかし、この間もマルチャンINCの経営危機は、深刻になるばかりだった。累積赤字はこの時点で500万ドルを超えていた。デラードの後遺症で、その後、支配人を何回も変えたが、営業を担当するアメリカ人と製造を担当する日本人の間がぎくしゃくしていた。

 森は役員会で、誰かマルチャンINCの立て直しに手を挙げる人はいないか、と聞いたが、応える者はいなかった。

 いよいよ自分がアメリカに行って、陣頭指揮をとろうとした矢先に、森は病魔に倒れ、50日に及ぶ入院生活を余儀なくされた。リハビリの途上で、森は取締役の一人、深川清司を呼んで、「もう残っているカードは俺と深川しかいない」と切り出した。

 深川は快諾し、「片道切符で行く覚悟です。再建できないようなら日本に帰ってきませんよ」と笑顔で勇ましいセリフを吐いた。

 深川はマルチャンINCに乗り込み、「片道切符」との覚悟を従業員に語った上で、泥臭いコスト切り下げに取り組んだ。「生産のスピードアップを図れ」「小麦粉の仕入れ価格はこれでいいのか」と厳しい指示が次々と出された。

 今まで赤字続きでやる気を失っていた従業員は、深川の出現で見違えるように張り切った。深川の赴任1年後には、黒字に転換した。翌年度は売り上げが38パーセントも伸び、100万ドル以上の利益を出した。

■8.「誠意とやる気」で30余年

 マルチャンINCはその後も快進撃を続け、アメリカおよびメキシコでトップシェアをとるに至った。1984(昭和59年)のロサンゼルス・オリンピックでは麺製品部門のオフィシャル・サプライヤーに選ばれ、「マルチャン」が世界の一流ブランドとして認められた。

 昭和28(1953)年に総勢わずか6人でスタートしてから、30余年。その間、大手商社の横暴、日華食品の中国流謀略、デラードのアメリカ流売り上げ至上主義と戦いながらも、創業当初の「誠意とやる気」でここまで辿り着いた。真正の日本的経営の威力を実証した生き様であった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(658) 東洋水産・森和夫の挑戦(上)

 総勢6人の小企業が「誠意とやる気」で挑戦した。

http://jog-memo.seesaa.net/article/201007article_4.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 高杉良『燃ゆるとき』★★★、講談社文庫、H11

■編集長・伊勢雅臣より

 本号、前号の「東洋水産・森和夫の挑戦(上・下)」につきましては、登場企業・人物の一部に仮名を使っていますが、これは参考文献の表示をそのまま踏襲したものです。

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