JOG(228) 広瀬武夫を敬愛したロシアの人々
ペテルブルグの人々に見送られて、海軍大尉・広瀬武夫は帰国していった。ロシアと戦うために。
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■1.「ヒロセ君に乾杯」■
アリアズナ・ウラジーミロブナ・コヴァレフスカヤは18歳。豊頬で、愛嬌のあるかわいい顔をしている。目はきらきら輝く褐色、髪は亜麻色である。サンクト・ペテルブルクの貴族の家に生まれた。
1901年1月末、街は雪で埋め尽くされ、河も凍っていた。アリアズナの父、コヴァレフスキー海軍少将がロシアの将校たちを招待して晩餐会を開いた。ペテルブルクに留学中の日本海軍大尉・広瀬武夫も招かれ、少将から武道の達人だと紹介された。
食後、別室でくつろいでいる時、日本の柔術が話題に上ると、一人の大男が突然、広瀬に右手をさし出して、さあやってごらんなさい、と構えた。
広瀬は「日本の柔術というものは、そんなものではありません。私がこれから柔術の説明をいたしますから、まず椅子におかけ下さい」と言った。男が腰を下ろそうと、気合いが少し抜けた瞬間に、「こんな風にやるのです」と叫びながら、広瀬は大男の右手をとって部屋の真ん中にどしんと投げ出した。
大男が腰をさすりながら、おどけて「日本の柔術コワイコワイ」と言うと感嘆の声が部屋中に湧いた。相手の虚をつくその機転、大の男を投げつける武勇が、驚くべき日本人という印象を深くきざみつけた。「ヒロセ君に乾杯」の声があがった。
■2.恋する女性の直観■
その光景を部屋の片隅で見ていたアリアズナは、物も言わず、広瀬の顔を見つめていた。自分の知っているロシアの士官たちとはなんたる違い! 貴族の士官達は、顔立ちも美しいし、やさしいが、朝は遅く、服を着るのも従者に手伝わせ、4、5時間勤務すると、夜は夜会服に身を飾って深夜までトランプや酒に猥談。身分の良いのに安住して退屈しながら日を送っている。
それに比べれば、広瀬の男らしさ、武芸の素晴らしさ! 私は生涯、ああいう強い、それでいてやさしいお方に守られて暮らしたい。
翌日、アリアズナは広瀬のアパートを訪れた。父母と一緒に来たことはあったが、今回は内緒だった。広瀬は軍艦の断面図を開いて、熱心にメモをとっていた。「戦艦アサヒ」とロシア語で書かれている。広瀬は説明した。
広瀬は嬉しそうに目を輝かせて言った。アサヒ、ヤシマ、シキシマ、ハツセ、フジ、ミカサ、それぞれの艦の名前を繰り返して、その意味を説明した。
話を聞いているうちに、アリアズナは広瀬のただ一筋の祖国愛にうたれた。それは一つの国民の魂を信じて、それに帰依している男の信念だった。「この人の語る言葉は、この人の行う行為は、この人の祖国の上に根を据えている。信念の人だわ。信念をもっているから強いのよ。」 恋する女性の直観だった。アリアズナは耳までほてって、顔は美しく紅潮した。
■3.日露の緊張■
この間にも、日露両国の緊張は高まっていった。ロシア軍部は1万5千の軍勢で満洲を制圧していた。北京から、天津、北満に続く重要な鉄道路もすべて押さえられた。満洲でのロシア軍駐屯に関する密約を清国と結ぼうとしたが、清国はその要求を修正させたいと西洋列強と日本に調停を求めてきた。
3月24日、日本側がロシアに抗議すると、清国は急に強気になってロシア側の案を拒否する姿勢を見せた。ロシアはとうとう満洲に関する協定を断念した。
それでも依然と満洲に居座り続ける。その間にシベリア鉄道の建設工事は着々と進められている。これが完成すれば、満洲開拓は一挙に進み、ロシアを押さえるのは不可能になる。さらに戦艦・一等巡洋艦12隻を一年で作れるほどの巨額の予算を投じて、海軍の大拡張に乗り出していた。
清国にはロシアの極東進出を押さえる力はない。とすれば、その圧力をまともに受けるのは日本である。いずれ満洲、朝鮮をめぐって、日露の激突が予想されていた。
■4.武人の本分■
その年の10月18日、広瀬に日本からの電報が届いた。冬のシベリアを横断視察し、翌年3月までに帰国せよとの命令である。
1902年元日、広瀬と親しくしてくれていたパブロフ博士の部屋で送別の宴が開かれた。博士の知り合いで、ボリス・ヴィルキトゥキーという青年も、自分から頼んで宴に加わった。ボリスは優しい美青年で、海軍兵学校を卒業したばかりの候補生である。広瀬のことを大変慕って、二言目には「タケニイサン、タケニイサン」と日本語で呼びかけてくる。
ボリスは、「タケニイサン、艦に乗ったらこれを使ってください」と、ふだん愛用していた柄のついた銅の酒杯を贈った。「こんなに有り難いものをいただいた君とは、敵味方にわかれられませんね」と広瀬は、いつになく厳粛な顔で言った。
2年後、この誓いは現実となる。
■5.運命の予感■
1902年(明治35)年1月16日、いよいよ出発の日である。その日の午前中、わずかな時間を作って広瀬とアリアズナは二人だけで密かに逢った。アリアズナはかねて用意していた小型の銀時計を広瀬の手に握らせた。蓋を開けると「A」の字が彫られている。
時計の鎖には、彼女の写真を入れたロケットもついていた。広瀬はうなづいて、チョッキのポケットにおさめた。
黙ってきいていた広瀬は、アリズナの切ない言葉をきくと、彼女の眼を見すえてきっぱりと言った。
その運命を予感したのかアリアズナの頬に涙が伝った。広瀬は無言でアリアズナをひしと抱きしめた。これが二人の最後の逢瀬となった。
■6.不幸にもあなたの国と戦うことになった■
1904(明治37)年1月、海軍少尉に任官したボリスはロシア最大最新の戦艦「ツェザレーヴィチ」に乗り組み、旅順港についた旨を、かねての約束通り、広瀬に手紙で知らせた。広瀬は佐世保に集結していた連合艦隊の主力戦艦「朝日」の水雷長室で、その手紙を受け取った。
2月8日夕、旅順沖合に達した連合艦隊主力は、9日午前0時過ぎ、水雷艇10隻を港内に侵入させ、魚雷攻撃によってツェザレーヴィチを含め、戦艦2隻、巡洋艦2隻に損害を与えた。しかし、その後、ロシア太平洋艦隊は港内に逃げ込み、要塞砲台に守られてじっと動かない。連合艦隊は旅順港口を遠巻きにして見張りを続けなければならなかった。
この情況を打破するために、旅順口閉塞作戦がとられることになった。港の出入り口で、大型艦船が航行できる幅はわずか91m、この狭い水路に廃船を沈めて閉塞させようというのである。砲台からの砲撃にさらされながら、船を沈没させ、手漕ぎのボートで脱出してくる、という決死の作戦であった。
下士官兵を募集とした所、2千名を超える志願者が殺到し、その中から67名が選抜されて、5隻の閉塞船が仕立てられた。その一隻、「報国丸」を指揮する広瀬少佐は、死地に赴く船内で、ボリスにあててロシア語の手紙を書いた。
この手紙は、2月23日夕刻、通信船に託された。作戦は24日夜明け前に決行されたが、砲台と艦隊の砲撃で目指す地点には沈没させられず、作戦は失敗に終わった。
■7.広瀬武夫の最期■
3月27日夜半、第2回の閉塞作戦が敢行され、4隻の閉塞船が突入した。要塞砲が一斉に砲撃を開始し、港内から駆逐艦が発砲しながら向かってきた。広瀬率いる福井丸は港口到着の直後、駆逐艦からの魚雷を受けて、沈み始めた。敵弾が降り注ぐ中で、全員をボートで退艦させようとしたが、自沈のための爆薬に点火しようとしていた杉野孫七上等兵曹の姿が見えない。
広瀬は沈みかけている船に戻り、三度船内をくまなく探し回ったが、見つからない。今はこれまでとボートへ移り、船を離れたその時、敵の哨戒艇からの速射砲の直撃を受け、銅貨大の肉片と血だらけの海図を残して広瀬の姿は消えていた。
福井丸の要員18名のうち死者・行方不明は広瀬、杉野を含む4人。広瀬は死後、中佐に昇進し、軍神として祀られた。
広瀬の英雄的行為はヨーロッパにも伝わり、各国で讃歎の声を巻き起こした。ドイツでは広瀬の肖像に漢字で「旅順口閉塞決死隊隊長、故海軍少佐、広瀬武夫」と記した絵はがきまで作られた。
■8.ロシアからの哀悼の手紙■
広瀬の壮烈な最期はロシアのフォン・ペテルセン家にも伝えられた。アリアズナのコヴァレフスキー家とともに、広瀬を家族同様に遇していた一家である。ペテルセン博士は「ヒロセ君が!」と声をうるませた。広瀬を骨肉の兄のように慕っていた長男のオスカルは、声をあげて慟哭した。その姉、マリヤは部屋に閉じこもって泣いた。マリヤは、広瀬の姪が切手を集めていると知って、ロシアの古切手を1500枚も集めて、別れの日に広瀬に贈っていた。好意などいう言葉では言いつくせない気持ちを広瀬に対して抱いていたのである。
翌1905年1月2日、広瀬と最後に別れた記念の日に、マリヤは日本の広瀬の姉に哀悼の手紙を送った。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
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■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 島田謹二、「ロシヤにおける広瀬武夫」★★★、朝日新聞社、S45
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「広瀬武夫とロシアの人々」について
■ 編集長・伊勢雅臣より
深い愛国心は国境を越えて共鳴し合う、という実例ですね。
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