
JOG(1409) なぜ、日本は開国後わずか50年で「世界一流の海軍国」になれたのか?
なぜ日本は「世界一流の海軍国」になり、ロシアや中国はなれなかったのか?
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■1.開国後わずか50年で「世界一流の海軍国」!
花子: 伊勢先生、この間の日本志塾の4月号の予告では、こんな一節がありましたね。
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日本艦隊がロシア艦隊を潰滅したことは、海軍史のみならず世界史上例のない大偉業である。日本が鎖国をといたのはわずか50年前であり、海軍らしい海軍を持ってから10年にもたたぬのに、早くも世界一流の海軍国になった。[アメリカ新聞「ニューヨーク・サン」]
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伊勢: ああ、これは日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破した時の報道だね。バルチック艦隊の38隻の艦隊のうち、34隻19万5千トンが失われ、日本側の損害は水雷艇3隻、255トンに過ぎなかった。ロシアの損失の実に、千分の1だった。
花子: 私たちの先人の偉業には胸が躍りますが、でも、近代的な軍艦などなかった鎖国時代から、わずか50年で世界一流の海軍国になれたのは、なぜなのでしょうか? 学校の歴史の授業では教えてくれないのです。
伊勢: それが今の歴史教育の欠陥だね。先祖の大偉業を教えられないのでは、生徒たちも元気がでない。逆に、大偉業だけを自慢して、その陰のご先祖様たちの志や苦心を尋ねようともしないのでは、単なる夜郎自大になってしまう。その成功の要因を学ぶことで、我々は我々なりの偉業に挑戦できるはずだ。
日本志塾4月号で、このテーマを詳しく述べる予定だけど、良い機会だから、今日は、我々のご先祖様が、どうやってこの大偉業を成し遂げたのか、そのさわりをご紹介しよう。
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■2.オランダからの幕府海軍創設の意見書
伊勢: 日本海軍の始まりは、安政2(1855)年10月に創設された長崎海軍伝習所だ。ペリーの黒船艦隊が二度目に来航して、日米和親条約が結ばれたのが、その前年3月だから、わずか1年半後だね。
花子: 開国して、そんなにすぐに海軍の建設を始めたのは、当時の人々の危機感の表れですか。
伊勢: まさにそうだね。この時に、オランダが幕府海軍創設の意見書を幕府に出した。開国は日本が洋式海軍を創設する好機だとして、そのための乗組員の教育で、オランダは日本に力を貸す用意がある、と言っている。
花子: なぜ、オランダはそんなに親切だったのですか?
伊勢: オランダは欧米諸国の中では、日本との交易を許されている唯一の国だったが、日本が清国のアヘン戦争のように欧米諸国と戦争になったら、自分たちの権益も危うくなる。それよりは、平和的な開国を勧め、海軍建設を助けることで、軍艦を売るなど、自分たちの有利な地位を引き続き維持したいと考えたのではないかな。
花子: そういう意見書を、幕府はすぐに受け入れたんですね。
伊勢: 卓越した政治家・阿部正弘が筆頭老中だったから、素早く決断ができたのだろう。それは日本にとって、まことに幸運だった。
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JOG(1394) 阿部正弘 ~ 平和的開国のリーダー(動画付き)
阿部正弘率いる幕末の幕閣は、高い外交能力を駆使して、平和的な開国を成し遂げた。
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■3.世界最初の海軍兵学校のわずか10年後に開設
花子: でも、欧米に比べたら、日本の海軍建設はだいぶ遅れていたんではないですか?
伊勢: ところが、そうでもないんだ。世界最初の海軍士官学校はアメリカの海軍兵学校で1845年だし、オランダ自体でも独立した海軍兵学校を創設したのは1854年だった。だから、長崎海軍伝習所の1855年は欧米に比べても、遜色ない早い時期に始まったと言える。
花子: 19世紀半ばに欧米で一斉に海軍教育が始まったのは、どういう理由でしょう?
伊勢: ちょうど欧米諸国の海軍も、それまでの帆船から蒸気船へ、木製船体から鉄製船体へと大改革の時代だった。イギリスが世界の7つの海を支配する大帝国を建設できたのも、鉄製蒸気船による海運ネットワークと海軍力の賜だ。そういう時期に、機を逸せずに海軍伝習所を始めたのは阿部正弘以下、幕府の閣僚たちの英断だね。
花子: 鉄製の蒸気船と言うと、船を造るにしろ、航海するにしろ、たくさんの事を学ばなければなりそうですね。
伊勢: まったく、その通りだ。主な教授科目だけでも、航海術、運用術、造船、砲術、蒸気機関、さらにはそれらのための数学、天体観測、物理、化学などもあった。これらを多い時には数十名のオランダ人教官が手分けして教えた。もちろん、訓練航海もあったけど、陸上での座学教育も多かった。オランダ教官たちがオランダ語で講義をし、それを通詞が通訳して説明する、という方法だった。
■4.日本人の「過度の好奇心」
伊勢: 幕府・諸藩から派遣された数百名の伝習生が、これらを学んだんだけど、教師団の2代目団長を務めたカッテンディーケ大尉は、日本人の過度の好奇心に驚いているね。オランダ側はこれらの多様な学課を、体系的に順序よく教えようとするが、日本人伝習生の方は、好奇心の赴くまま、無秩序・衝動的に学びたがるとこぼしている。[カッテンディーケ、p184]
ある時、日本側から、機関方、これは蒸気機関を教える学科だけど、20馬力蒸気機関を制作させてくれ、との要望が出されたが、オランダ側は断った。20馬力と言えば、40人の人間が全力で引っ張るくらいの力だから、そんな本格的な機関の製作はまだまだ先の話だと考えたのだろうね。
でも、その後、日本人の通詞と地役人が一緒になって建設した圧延工場に、工作機用の原動機として、彼らが自作した20馬力蒸気機関が2台も据え付けられているのを見て、驚いている。[藤井、p50]
花子: 欧米の先進技術もがむしゃらに取り入れる、日本人の気質がよく窺えるエピソードですね。
伊勢: そう、この過度の好奇心が急速な科学技術の習得を可能にしたんだ。
■5.近代海軍の建設をテコとした近代産業の発展
伊勢: 笠間藩、これは今の茨城県にあたる地域だけど、ここ出身の小野友五郎などは、その典型だろう。もともと日本式の数学である和算を学んでおり、幕府の天文方にも出仕していた。小野は初代団長であるベルス・ライケンの宿舎を訪ねて、西洋式の微分・積分・力学などの特別講義を受けていた。
万延元(1860)年には、日米修好通商条約の批准書交換のために使節がアメリカに派遣されることになった。この条約は日本で調印されたので、その批准書交換はアメリカでやろうと、幕府はいかにも独立国どうしの対等の立場を保とうとしていた。その正使は米国海軍のポーハタン号に乗ったけど、護衛として日本人が操艦する咸臨丸(かんりんまる)も一緒に行くこととなった。
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JOG(853) 木村摂津守とサンフランシスコの人々
咸臨丸でやってきた木村摂津守の礼節・謙譲あふれる言動はサンフランシスコの人々に感銘を与えた。
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この日本軍艦最初の太平洋横断の航海長を務めたのが、小野友五郎だった。咸臨丸には米国測量船で難破したアメリカの海軍大尉ブルックらも同乗して、嵐の時などはだいぶ日本人乗組員を助けたんだけど、そのブルックが小野の天測航法の腕前に驚いている。
翌万延2(1862)年にはイギリスやアメリカが領有を主張し始めていた小笠原諸島を、咸臨丸艦長として精密な測量調査を行い、同島の日本領有に重要な貢献をした。同年、幕府で初めてとなる国産蒸気軍艦「千代田形」の建造を指揮した。その後、小野は、明治10年代前半までは、鉄道敷設の測量や計画立案を主導した。
花子: まさに、伝習所で習ったことが、日本の近代化にそのまま役だったのですね。
伊勢: 長崎伝習所の開設のわずか2年後、長崎製鉄所がオランダ人技師の力を借りて建設された。兵器生産に必要な製鉄所だけでなく、艦船の修理を行う造船所としての役割を担った。ここが、その後、三菱重工業の長崎造船所として発展したんだ。
花子: 製鉄、造船、さらには鉄道など、日本の近代化はまさに長崎伝習所から始まったのですね。
伊勢: そう、近代海軍の創設のためには近代科学技術を結集しなければならない。逆に、近代海軍の建設をテコとして、近代科学技術が発展する。長崎海軍伝習所は、まさに日本海軍の起点であるとともに、日本の近代化の原点でもあるんだ。
■6.人間や社会の価値観や慣習を変える方がはるかに難しい
花子: なんか、トントン拍子に上手く行ったように聞こえますけど、どこか難しい課題はなかったのでしょうか?
伊勢: 技術知識の吸収は過度の好奇心のお陰で非常にスムーズに行ったけど、一番難しかったのは、身分制による仕事の分担や、日本人の生活習慣を変えることだった。
たとえば、武士の士官は、船の帆走などは下々の平民がやるべきことで、自分たちが手を下すべきことではないという意識が強かった。一方、水夫は漁民などから集めたけど、彼らは素人の侍たちに帆の指図なんかできるものかといった調子で、初めからお互いの間の不信感が強かった。これでは艦長の命令一下、全乗組員が協調して動く、という近代艦船の操船はできない。
また、水夫たちは火鉢を中心に座り込み、飯を炊いたり、魚や野菜を煮たりして食事をとっていたが、これはオランダ人から見ると、ピクニックでもしているように見えた。船は揺れるから、火鉢などは危ないので、オランダ人はそれを止めさせるのに苦労したようだ。
こうした問題の解決は、明治10年代後半に、英国式軍紀風紀をみっちり仕込まれた海軍兵学校出身の士官が揃う頃までかかった。やはり技術知識の導入よりは、社会の価値観や慣習を変える方がはるかに難しいということだろうね。
花子: でも、その間、日本国としては四民平等とか学制での国民皆教育など、社会の変革も急速に進められたので、社会の価値観や慣習を改めるには、強力な後押しになったのではないですか?
■7.巨大軍艦を活かせなかった清国艦隊
伊勢: そう、実は、それが清国の海軍との差を生んだのだと思うんだ。清国の近代海軍建設は1866年の福州船政局に始まると言われている。長崎海軍伝習所より11年、遅い。しかし、その後、清国は国力に物言わせて、巨大軍艦「定遠」「鎮遠」をドイツから購入した。両艦とも7千トンクラスで、日清戦争当時の日本の連合艦隊旗艦「松島」の4千トンクラスの2倍近い。
花子: そんな巨大戦艦を2隻も揃えていて、なぜ清国は日清戦争で負けたんですか?
伊勢: 日清戦争での海軍どうしの決戦となった黄海海戦では、日本艦隊は小さい艦が高速性を生かして清国艦隊を挟撃して、小口径ながら速射砲で砲弾を雨あられと浴びせかけた。「鎮遠」に乗っていた米国顧問マクギフィン海軍少佐は次のように記している。
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日本艦隊が、まるでひとつの生きもののように、・・・有利な形で攻撃を反復したのには、驚嘆するほかなかった。清国艦隊は守勢にたち、混乱した陣型で応戦するだけだった。[神川,p448]
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また、清国艦隊の最左翼にいた「済遠」は、日本艦隊から砲撃を受けると艦首を巡らせて、逃走を図った。「鎮遠」の艦長・林泰曾は憤って、逃げる「済遠」をめがけて砲を放ったが、「済遠」は脇目もふらず遁走した。
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JOG(976) 海の武士道~伊東祐亨と丁汝昌
連合艦隊司令長官・伊東祐亨の清国北洋艦隊提督・丁汝昌への思いやりは世界を驚かせた。
https://note.com/jog_jp/n/n785a875c6fb1
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花子: いくら巨大戦艦を揃えても、艦隊としての連携動作ができないとか、敵前逃亡までしていては、勝てるはずはありませんね。
伊勢: 同様なことは、日露戦争でも起こった。日本海海戦に臨むバルチック艦隊の戦艦は8隻に対し、日本側は4隻。主力砲もロシア33門と、日本の17門の約2倍だった。しかし、日本側の射撃速度はロシアの3倍、命中率も3倍と、砲1門でロシア側の9門に匹敵する威力を持っていた。
■8.「わずか50年で世界一流の海軍国になった」原動力
花子: 日清戦争での「ひとつの生きもの」のような動きとか、日露戦争での砲一門の威力とか、どこか、長崎海軍伝習所でオランダ教官たちが「過度の好奇心」と言ったのと同じような精神が働いているように感じますね。
伊勢: 花子ちゃんもそう思うかい? 私も、これが「わずか50年で世界一流の海軍国になった」原動力だと思う。その力は一人ひとりが軍艦や艦隊の全体目標をよく理解した上で、その実現のために各自が主体的に自分の「一隅を照らす」力だ。
こうした共同体の力は欧米諸国の中では、イギリスやアメリカが比較的強かった。だから、この2カ国は世界一流の海軍力を持てた。同様に、日本人のこの力は世界ダントツだったので、わずか半世紀で世界一流の海軍国に成長できたと思うんだ。
花子: そうした個人が共同体のために主体的に尽くす姿勢は、ロシアや中国ではなかったのですか?
伊勢: ロシアや中国は皇帝独裁の国だから、人々は皇帝のご機嫌取りの競争をして、互いに足を引っ張り合う。専制国家では国民が国家のために、主体的に一隅を照らすことは難しいね。
花子: やはり伊勢先生がいつも言っているように、皇室が国民を「大御宝」として大事にしようとしてきたので、国民もそれに答えて、主体的に共同体のために尽くそうとする気持ちが強いということですね。
伊勢: その通り。そして、その姿勢を維持することが、日本のこれからの未来を切り開く鍵になると思うんだ。
(文責 伊勢雅臣)
■リンク■
・テーマ・マガジン「近代日本、荒海への船出」
鎖国を解いて、日本人は大船を作り、大洋を航海する技術を身につけます。それが、独立を維持し、世界の列強に伍してやっていく道でした。
https://note.com/jog_jp/m/m6ea37bf20070
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
・カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』★、平凡社東洋文庫、H1
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4582800262/japanontheg01-22/
・金澤裕之『幕府海軍-ペリー来航から五稜郭まで』★★★、中公新書、R5
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4121027507/japanontheg01-22/
・神川武利『士魂の提督 伊東祐亨―明治海軍の屋台骨を支えた男』★★★、PHP文庫、H14
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・藤井哲博『長崎海軍伝習所: 十九世紀東亜文化の接点』★★、中公新書、H3
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4121010248/japanontheg01-22/
■編集後記
YouTubeチャンネル「伊勢雅臣の国際派日本人養成講座」が、本年初めにようやく視聴者5千人に到達したと思ったら、2月末には7千人に届きそうです。
この間、日露戦争で乃木希典大将が名将か、愚将かという問題で、コメント欄が大きく盛り上がったお陰ですが、実は私はこの問題は歴史好きの人々の格好の話題ではあっても、歴史教育上の重要なテーマではないと思っているのです。
乃木大将愚将論は司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』が広めたフィクションで、これは「弘法の筆の誤り」です。それよりも乃木大将の真価は学習院院長として昭和天皇をお育てした処にあった、と考えています。その昭和天皇が終戦時に国を救われました。この人格力こそが乃木大将が戦前の多くの国民に敬愛されていた理由です。
この点は歴史教育上でも重要な史実と考え、以下の動画をすぐに公開しました。
JOG(792) 昭和天皇をお育てした乃木大将
昭和天皇:「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」
https://youtu.be/7Fh0y22r7Bg
お陰様で、1日半で視聴千回を超えそうです。ぜひご覧下さい。
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