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JOG(796) モラエス ~ 最後の冒険者の求めた道

海洋大国ポルトガルの最後の冒険者モラエスは、日本に何を求めたのか。


■1.「海洋大国ポルトガルの最後の冒険者」

 まだ4月末だというのに、ポルトガルの首都リスボンの日差しは日本の初夏のようにまぶしい。しかし、海からの風が爽やかで、それほど暑さは感じない。

 狭い坂道を上ったり降りたりしながら、テージョ川が大西洋にそそぐ河口に着くと、そこには高さ50メートル以上もの「発見のモニュメント」がある。

 大航海時代の幕を開いたエンリケ航海王子、アフリカ南端を回ってインドへの航路を開いたヴァスコ・ダ・ガマ、ブラジルに到達したペドロ・アルヴァレス・カブラル、世界一周を達成したマゼランなどの巨大な石像が、帆船の舳先に並ぶように立っている。

 モニュメント前の広場には、大理石のモザイクで世界地図と各地の発見年号が記されており、日本には「1541」と書かれている。彼らが、日本を「発見」した年である。ポルトガル人は最初に日本にやってきたヨーロッパ人であった。

 そこから河下に向かってさらに10分ほど歩くと、河口を護る要塞、ベレンの塔に着く。その屋上からは、はるかに広がる大西洋が見渡せる。大航海時代には、ベレンの塔が見下ろす河口を何隻もの巨大な帆船が出港していっただろう。

 本編の主人公、海洋大国ポルトガルの最後の冒険者と言われるヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエスも、この塔に見守られて、海に乗り出した一人であった。

■2.「神に祝福されたこの地」

 モラエスが最初に日本を訪れたのは、1889(明治22)年8月、35歳の時だった。長身に金髪、青い目をしたモラエスは、貴公子然として物思いにふける控えめな男だった。その彼が副官を務める砲艦「リオ・リマ」は本拠地マカオを出発し、香港、上海に立ち寄った後、東シナ海を横断して、長崎に入港したのだった。

 最初に訪れた諏訪神社からは、坂と石畳の街が眼下に広がり、険しい山並みに囲まれた長崎湾が明るく輝いていた。その光景は、彼の故郷リスボンを偲ばせたが、日本の山並みを覆う深い活き活きとした緑は、その比ではなかった。

 ぼくはすばらしい国、日本にいる。ここ長崎で、世界に類のないこれらの木々のかげでぼくは余生を送りたいものだ。[1,p8]

 諏訪神社の鳥居をくぐった参道では、茶店に入り、優雅で可愛い着物を着た二人の娘の出迎えを受けた。丁重なおじぎに驚かされ、日本茶とカステラが出された。

 任地マカオと、それを取り巻く中国の荒廃と苦悩、不潔と混濁に比べれば、日本の地は「まるでまっ暗な洞窟から花園に出たような」驚きを与えた。魅入られるような10日間を過ごした長崎を去るにあたって、リスボンにいる姉のエミリアには、こう書き送った。

 みごとな風景にあふれ、花にあふれ、微笑にあふれる、神に祝福されたこの地を去るよ。魂がやさしい想念にいだかれるようにと、生活に疲れた精神がなお浄化されて神慮に対して感謝を捧げることのできるようにと作られたこの地を。[1,p9]

「神に祝福されたこの地」で、「余生を送りたいものだ」という願いは、モラエスの人生を導く予感だったのかもしれない。

■3.おヨネとの幸福な日々

 1899(明治32)年、数年がかりの本国への嘆願が認められて、ようやく神戸に副領事館を開き、副領事として来日する事ができた。

 モラエスはある料亭で、おヨネという芸者と出会った。どこか愁いを宿したような美しい目鼻立ちの女性であった。モラエスは料亭に何度も足を運び、自宅にも招いて、熱心に求愛した。

 おヨネは自分が病気がちなことや、学歴も教養もないことを語ったが、モラエスは「そんなこと、何も問題ではありません」と言って、取り合わなかった。おヨネが療養に故郷の徳島に帰った時も見舞いにいった。

 そうしたモラエスのひたむきさにおヨネは根負けしたようで、明治33(1900)年11月、結婚式をあげた。神戸きっての料亭で披露宴が行われ、神戸在住の外交官や知名人が多数招待された。モラエスは羽織、袴(はかま)姿で緊張し、白装束の花嫁・おヨネは息を呑むような美しさだったとモラエスの友人は回想している。

 モラエス40歳、長い彷徨の(ほうこう)の末にようやくたどり着いた幸せであった。おヨネはつつましく後ろに控えながらも、いつも相手のことを気遣う女性だった。

 モラエスは、おヨネの体を気遣って、お手伝いを二人おいたが、おヨネは「私も何かしなくては」と、領事館に花を飾り、モラエスの身の回りの世話を焼いた。おヨネの存在が領事館をしっとりと、それでいて華やいだものにした。領事館を訪れた人々は、モラエスに影のように寄り添うおヨネの領事夫人ぶりに感嘆した。

 モラエスは早朝と夕方に、おヨネを伴って散歩した。近くの布引の滝や、生田神社の森、そしておヨネの体調の良い時には須磨の一ノ谷あたりまで足を延ばした。三つ揃えの背広姿のモラエスと、束ねた髪にべっ甲のかんざしを挿し、粋な着物姿のおヨネの二人連れは、仲の良い夫婦として近所の評判になった。

■4.「日本の風景」、「孝」

 おヨネとの安らぎの日々は、モラエスの文筆への意欲を蘇らせた。マカオに駐在していた頃から、故国の雑誌に記事を送っていたが、おヨネと一緒になってからは日本人の生き方や文化、自然について、味わい深い文章を次々と発表した。それらは故国ポルトガルやブラジルで広く読まれるようになった。

 たとえば、「日本の風景」と題した小品では、富士山や近江八景などの名所を紹介しつつ、次のように述べている。

 絶望と苦悩を感ずる壮観な風景はめったに日本の名所にはない。繊細で、ほほ笑ましくて、たいていはやさしく美しい景色ばかりであって、ただ時々、思いがけなく恐ろしい天災-台風、洪水、地震-が、一時悲しい外観にするだけである。

 ・・・人間を愛し、人間を楽しますために、娘のように美しくきらびやかな色調の着物を着飾っている家庭的自然である。[1,p127]

 また、大津の石山に蛍狩りに行った際に、偶然知り合った女性から聞かされた身の上話という設定で、「幸」という随筆を発表している。「おゆき」という女性が裕福な商人の家庭に生まれ育ったが、15歳で父が病死して、京都で芸妓となり、病気の母親や幼い弟妹を養っているという話である。

 モラエスが「これから先、どうするのか」と訪ねると、おゆきは「先のことは少しも心配していないし、成り行き任せ」と答えて、闇夜に光を放ちながら飛ぶ蛍を指す。闇の中を、自ら光を発しながら飛ぶ小さな蛍のように、おゆきは生きている。

 自らの人生を犠牲にしてまで家族のために尽くす生き方は、近代的な個人主義が広まりつつあった西洋人に対して、かつての古き良き時代を思い起こさせるものであったかも知れない。

■5.「オヨネサン ヨクナラナイ ワタシ コマリマス」

 明治42(1909)年、モラエスは55歳になっていた。おヨネは病気がちとなり、熱を出して床に伏せることが多くなった。おヨネはモラエスに心配をかけることが心苦しく、悲しげな表情で詫びた。

 明治45(1912)年6月20日、長雨がカラリと晴れ上がった爽やかな朝、おヨネは気分がよいのか、起き上がって朝食の準備を始めた。モラエスは久しぶりにおヨネとの外出を思い立ち、人力車で一の谷に赴いた。淡路島が浮かぶ穏やかな海には、遠くに白い帆船も見えた。

 道路の脇には、簡素ながらも威厳のある3メートルほどの高さの五輪塔が建っている。一の谷の合戦で、熊谷次郎直実に討ち取られた平家の若き公達(きんだち)、敦盛(あつもり)の墓である。

 墓石のざらざらした褐色の表面に、ヨーロッパの大男の無骨な手と、日本女性のしなやかな小さい手が重なった。墓石はまるで血が通っているかのように生のぬくもりが感じられた。

 その数日後、おヨネの容態が急変した。オランダ人の医者に、身内を呼んだほうがいいと言われ、モラエスは徳島にいるおヨネの姉のユキに電報を打った。翌朝、ユキと娘のコハルが駆けつけ、看病を続けた。

 モラエスは仕事も手につかず、「オヨネサン ヨクナラナイ ワタシ コマリマス」といいながら、部屋の中を右往左往していた。

■6.相次ぐ悲しい出来事

 7月末、明治天皇が崩御された。モラエスは、日本が明治天皇のもとに国民が一体となって発展している様を好ましく思っていただけに、日本の一つの時代が終わったと感じた。

 この頃、母国ポルトガルでは国王と王子が共和党に暗殺され、次男が一度は王位についたが、すぐにイギリスに亡命するという革命が起きて、800年の歴史を持つポルトガルの王制は崩壊した。モラエスは政党には関わり合いを持たなかったが、新しい共和国には、自分の居場所はないと感じた。

 8月10日過ぎのこと、おヨネが、もうだめなような気がする、と、か細い声で呟いた。モラエスは、きっと直ると励まし、おヨネのやせ細った手を握りしめた。おヨネは首を振り、「でも、もう少し、生きたかった」と哀願するようなまなざしを向けた。左の薬指にさした金の結婚指輪がゆるんで、ずり落ちそうだった。

 おヨネは、モラエスにこれまでの礼を述べ、遠慮がちに身内の将来のことを頼んだ。死を悟りながらも、なお身内を案じ続けるおヨネの優しさがモラエスにはたまらなかった。そして、最愛の女性を助けてやれない自分の無力さに耐えきれずに、涙ぐんだ。

 後に、モラエスは隠遁の地として徳島を選んだ理由の一つとして、この時のやるせない思いをあげ、「今でも手を握られている気がする」と書いている。8月20日、おヨネが世を去った。享年38歳だった。

 明治天皇の崩御、祖国の動乱、そしておヨネの死と、相次ぐ悲しい出来事に、モラエスの憂愁は募った。鴨長明の『方丈記』のフランス語訳をむさぼるように読みふけり、おヨネの仏壇のある部屋に閉じこもる日々が続いた。

■7.徳島での生活

 おヨネの死の翌年、大正2(1913)年7月、モラエスは徳島に向かった。本国では、モラエスを東京駐在のポルトガル総領事に昇進させようという動きもあったが、本人は「自分も59歳になり、日本流に言えば還暦だ。祖国のためにはもう十分義務は果たしたと思う」と述べ、領事職も軍籍も返上して、一私人となった。

 モラエスはおヨネの墓を徳島に建て、その墓参りの際には、「オヨネサン。ヒトリサビシイ。ワタシシンダラ、イッショニウメテモライマス」とつぶやいた。

 移り住んだ徳島の地は、神社やお寺、墓地が多く、土地の人々は毎朝、亡き人に挨拶して食事を捧げ、訪問客も仏壇の前でお辞儀をした。生者は死者への追慕を抱き、死者は生者の心の中で生きていた。

 神々に見守られたやさしい「家庭的自然」の中で、生者と死者が心通わせながら生きる徳島の生活に、モラエスは慰めを見いだした。「徳島はなんといっても、神々の街である、仏陀の町であり、亡者の町であるいってよい・・・」と書く。[1,p170]

 朝は6時に起き、井戸で水を汲んで、冷水摩擦をした後、再び着物を身につけて、東天を拝して、柏手を打つ。付近からも、近隣の人々の打つ柏手のさわやかな音が響く。

 それから明治天皇のご真影に手を合わせ、神棚を拝み、おヨネの位牌を安置した仏壇に向かって、何度も戒名を唱える。その後で、おヨネの姪、コハルが準備した和食の朝食をすませる。

 朝食後、しばらく読書や執筆に没頭した後、9時頃から、おヨネの墓参りをかねた散歩に出る。12時頃、散歩から戻って、昼食後、しばらく読書や執筆をした後、また夕方から同じコースの散歩に出る。散歩は雨の日も風の日も続けられた。

 モラエスは、その後、コハルと子をもうけたが死産となり、またやがてコハルにも先立たれた。一人暮らしとなって、ある雨の夜、暗い戸の鍵が開かずに困っているところに、一匹の蛍が飛んできて、その明かりで鍵を開けるのを助けてくれた。思わず、モラエスは「あれはおヨネだったのか、それともコハルだったのか」とつぶやいた。

■8.最後の冒険者の求めた道

 モラエスは昭和4(1929)年に75歳で亡くなった。折れそうになったタンポポをまっすぐに直そうとしたり、子供たちが捕らえたフナやドジョウを一匹1銭で買って川に放してやったり、近所の子供たちを可愛がった静かな余生だった。

 ポルトガル人は大航海時代に、富や名声、知識を求めて、世界の果てまでも乗り出し、一時はブラジルの金などを得て、繁栄を謳歌した。

 その海洋大国ポルトガルの最後の冒険者と言われたモラエスは、ユーラシア大陸の西端から長い旅路の果てに、東端の日本にやってきて、やさしい自然の中で、死者も生者も神々も、共に平穏に生きる道を求めたのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(452) 幸福なる共同体を創る知恵 
 幕末から明治初期に来日した欧米人たちが見た日本人の幸せな生活。

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b. JOG(484)美しい国だった日本

 「方々の国で出会った旅行者は、みな感激∂した面持ちで日本について語ってくれた」

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 林啓介『「美しい日本」に殉じたポルトガル人―評伝モラエス』★★、角川選書、H9

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