![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/173635063/rectangle_large_type_2_94ef05e142584c7797017484c85bb91c.png?width=1200)
JOG(122) 122 笹川良一(下)
東京裁判での罪なきBC級戦犯釈放に奔走
■1.真実と信ずる所を主張せよ■
日本の安定と、将来の日米和平のためには、東京裁判で主張すべきは主張して、仮にも天皇に累が及ばないようにしなければならない。それは一に開戦時の首相であった東条英機にかかっている。
こう考えて、首尾良く巣鴨プリズンに入り込んだ笹川良一は、運動の時間のたびに東条に近づき、この事を説いた。東条が死刑になるのは避けられない。死を覚悟して日本の立場を主張するのが、貴方の名誉であると。そして裁判での主張のしかたを、自らの3年間の獄中での法廷闘争体験から教授した。
そのポイントは、少しでも刑を軽くしてもらおうと、検事に迎合したウソの供述をしては絶対にいけない、ということであった。裁判が長びこうが、検事の心証を悪くしようが、とにかく自分の真実と信ずる所を語る。裁判とは裁判官や検事と協力して真実を明らかにするプロセスだ、と心得よというのである。
笹川の度重なるアドバイスに、東条は覚悟を決め、「笹川さん、私はいずれ君の期待に添えると思いますよ」と語った。
■2.東条英機の主張■
東京裁判の山場、東条の個人弁護の立証は、昭和22年12月26日から、年明けにかけて、8日間にわたって行われた。自分以外の証人は一人も出廷させず、220ページにもわたる口述書を準備して法廷に臨んだ。その英文版の朗読だけで、まる二日を要した。
__________
我国にとり無効かつ惨害をもたらした昭和16年12月8日に発生した戦争は、米国を欧州戦争に導入するための連合国側の挑発に原因し、我が国としては、自衛戦として回避できなかった戦争であると確信する。・・・[a]
戦争が国際法上より見て正しい戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何という問題とは、明らかに分別できる二つの異った問題である。
第一の問題は外国との問題であり、かつ法律的性質を持つ問題である。私は最後まで、この戦争は自衛戦であり、現在承認されている国際法に違反しない戦争であると主張する。・・・
第二の敗戦の責任については、当時の総理大臣であった私の責任であり、この意味の責任は受諾するだけでなく、衷心より進んでこれを負うことを希望する。[4,p85-92]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
この後、キーナン検察官による4日間にわたる反対尋問が行われた。キーナンは冒頭で「この口述書の目的は、日本国民にかつての軍国主義をなお宣伝しようとするためのものか」と挑発した。ブルーエット弁護人は直ちに「妥当な質問ではない」と異議を申し立て、裁判長もこれを認めた。東条の堂々たる主張に、キーナンはいきなり出鼻をくじかれた形となった。
さらに東条は、国政に関することは、内閣及び統帥部の責任で為した最後の決定につき、昭和天皇が拒否権を行使されることは、憲法上も、慣行上もなかったことを述べ、次のように断 言した。
__________
故に、1941(昭和16)年12月1日開戦決定の責任も、また内閣閣員及び統帥部の者の責任であって、絶対的に陛下のご責任ではない。[4,p126]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■3.山は富士山■
東条は、陳述の終わった直後に、笹川と法廷の控え室で対面した。そして実に晴れ晴れとした顔で笹川に近寄り、その手を両手で固く握りしめた。
__________
笹川君、幸い天皇陛下にご迷惑をおかけしないですんだし、証言台では、僕は思う存分に言うべきことを言ったつもりだ。ただ遺憾なのは、遠く歴史をさかのぼり、深く歴史を掘り下げて語ることを許されなかったが、これは僕の責任ではない。
とにかく僕は、笹川さんが公判廷の経験を、微に入り、細に渡って聞かせてくれたことがうれしい。貴方が最後まで僕を激励してくれたことが、どれほど参考になり、教訓になったことか、僕は衷心から感謝します。まったく貴方の毅然たる態度は、敬服のほかはありません。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
東条は笹川に深々と頭を垂れた。 翌々日は、昭和23年元日であった。午後の運動時間に二人は運動場でまた顔を合わせた。東条は笹川にお礼として、次の一句を送った。
悠久の姿尊し初の富士
笹川はこの句の意味が分からず、「私は富士山などとは関係ないんですよ」と言った。東条は答えた。
__________
何を言うのかね。日本で一番のものは天皇、山は富士山ではないですか。富士山というのは、笹川さん、あなたのことですよ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■4.天皇不起訴の確定■
1月8日の夜、マッカーサーは、ウェッブ裁判長、キーナン検事をGHQに招き、東条の証言内容を検討した。東条の開戦責任が明確化されたことで、天皇の不起訴が確定した。[1,p191-194]
この年の11月12日、東条をはじめとする7人のA級被告が、死刑の判決を受けた。判決理由書はついに公表されることがなかった。
12月1日、家族との面会日に、東条は妻にこう言い残した。
__________
まず裁判の結果、天皇に大きなご迷惑をおかけせずにすんだことを、感謝していると(国民に)伝えてくれ。また、私は、大和民族の血を信じているから、日本の前途には明るい見通しをもって死んでいくと伝えてくれ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
東条ら7人の処刑は、皇太子殿下(今上陛下)ご生誕の12月23日にあわせて行われた。
■5.巣鴨人生大学■
笹川は、他の容疑者たちの面倒もよく見た。沈み込んでいる容疑者たちに対して、「いつ出られるか」などとくよくよせずに、刑務所生活を大いに楽しむべきだと教えた。
たとえば、高橋三吉海軍大将は、好きな絵を描く気にもならず、「自分はこんな所に来る訳はない」「共産党の投書で入ったのだろう」などと、うつうつとしていた。そこへ笹川が声をかけた。
__________
高橋さんも来ましたね。貴君は近い内に出るでしょう。私は3年居ることに定めました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
高橋が驚いて、理由を聞くと、
__________
私は前に大阪刑務所に三年いました。出所後京都の禅寺、天竜寺の関精拙和尚と一日飲みながら、天竜寺の修行生活と刑務所の生活とを互いに話し合いながら、私の結論は、大阪刑務所の一年は、天竜寺の十年の修養に当たると思いました。今度は、縁あって巣鴨に来たので、私はもう三年是非居たいのです。刑務所は私は人生大学と呼んでいます。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「この笹川君の述懐は私には頂門の一針(急所を押さえた戒め:JOG注)であった。笹川流にどっかり腰を据えるに限ると決心し、爾後大いに所内が明るいように感じた。私は笹川君を巣鴨の恩人と考えている。」
笹川はBC級戦犯容疑者(捕虜虐待などの通常戦争犯罪容疑者)に対して特に親切で、彼らから深く慕われていた。笹川が巣鴨で記した「獄中忘備録」には、短歌や漢詩にまじって猥談の筋書きまであった。自分で筋を考え、身振り手振りを交えて話してやるのである。笹川の周囲には、常に笑いが絶えなかった。
■6.お灸は「火あぶりの刑」?■
また若いBC級戦犯容疑者たちには、こう励ました。「君等、有罪となれば予は獄中よりいかなる方法でも講じてやる。君等を一刻も早く青天白日の身として帰省せしめる、一家楽しく生産増強のため、働くことを祈る。予が出所しても生産増強には直接ならぬから急がぬ。」
約5千名のBC級容疑者の中には、占領軍の誤解で拘束されているものも少なくなかった。たとえば、戦時中、日本軍は食料に困窮したため、捕虜も栄養失調で脚気にかかるものが大勢いた。
薬もないために、日本軍兵士が、灸をすえて治療してやったのだが、これを「火あぶりの刑で虐待した」と誤解され、訴えられたのである。そういう容疑者が数十人いた。
この事を耳にした笹川は、巣鴨プリズン所長のハーディ大佐に面会を求め、「捕虜の病気を治すために、灸をして罪になるというのならば、病気を治す医者は罪人になるのか、あなたの国では医者は罪人ですか?」と論理的な抗議をし、さらに自ら灸の効用を証明してやろうとした。
早速、灸をとりよせ、野菜不足のために、手に炎症ができていたのを治して見せようと、背中に大きな藻草を燃やした。周囲のB級容疑者たちは、「そんな大きな藻草を使うと、血管が破れて命がありませんよ」と心配したが、「私一人の命で、何十人、何百人も救えるのだから結構なことだ。自分の墓まで作ってあるのだから心配するな」と大見得を切った。
一ヶ月もすると手の炎症は治ってしまった。これを米軍の軍医に見せると、自分が与えた薬では治らなかった炎症が、灸できれいに消えてしまったので、驚いて「早速、検事に説明してください。私が証人になります」と言った。
これには検事も同様に驚かされて、「火あぶりによる捕虜虐待」容疑で捕らえられていた数十名を即座に釈放した。論理的、実証的に真実を明らかにしようという笹川のアプローチは、良心的なアメリカ人にはよく通じたのである。[1,p153-155]
■7.受刑者からの数千通の礼状■
東条ら7人の処刑の翌日、昭和23年12月24日、笹川を含む数人のA級未決組が釈放された。当初の予定通り、3年余りの拘留であった。しかし、BC級はまだ大勢、獄につながれている。
この日から、笹川はBC級の慰問、減刑・釈放請求、家族の支援に打ち込む。77歳の老母、夫人、兄弟、子分まで総動員で、運動を展開した。まだ、そのような運動をする者は反米運動家と睨まれ、再び巣鴨に送られる恐れさえあった頃だが、それに怯むような笹川ではなかった。
笹川は、新聞、ラジオ、蓄音機、レコードなどを大量に差し入れ、慰めと励ましの手紙をしきりに送り、巣鴨プリズンを自ら訪問し、夫人は詩吟や琵琶の演奏を披露した。受刑者の留守家族には、巣鴨への旅費だけでなく、生活費まで援助した。支援は巣鴨よりもさらに劣悪な条件にあったフィリピンのモンテンルパ収容所にも及んだ。笹川への受刑者からの礼状が、数千通も残っている。
__________
今回特に詩吟や琵琶、私、常々聞き度いなと望んでいた慰問演芸であったので、其の熱誠溢れた出演を、今度という今度は、心ゆく計満喫いたしました。一同の悦びも大変でした。(落合甚九郎)
令夫人ノ朗吟サレタ和歌一首、聞イテ居ル中ニ、止メ度モナク流ル涙ヲ、如何トモスル事ガデキマセンデシタ。(星野直樹)
彼等(嘗ての指導階級であったA、B級で出所した人々)の殆ど全部が、唯自己の保身のみに終始し、嘗ての節を屈している時、殊更に、先生への尊敬が、私をしてぐっと身近なものに覚えさせます。(林義則)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■8.皆が出所するまでは、私の葬式は出してはなりません■
昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約が成立し、日本は独立を回復した。しかし、その条文には東京裁判の判決を受け入れ、連合国の同意なしに減刑や赦免はできない、という一項があった。
笹川は、国会議員、全国の知事、市町村長に赦免の訴えを行った。これによって、戦犯釈放運動は盛り上がり、昭和30年までの約3年間で、衆議院で6回、参議院で3回、戦犯釈放に関連した決議が採択された。
昭和33年1月18日、笹川の母テルが82歳で亡くなった。笹川とともに、戦犯支援に打ち込んできたテルは、「巣鴨から皆が出所するまでは、私の葬式は出してはなりません。」と遺言を残して逝った。
笹川は、巣鴨で同僚だった岸首相などへの協力を求めて奔走し、ついにこの年の5月31日に最後の18人が出所した。6月17日にようやく母の葬儀を執り行った。A級戦犯として処刑された東条大将や、木村大将の未亡人らが、手伝いに参じた。
巣鴨を出てから、10年近くに及ぶ戦犯支援・救出活動の間、笹川は、好きな酒、煙草を断っていた。最後に出所した18人を自宅に招いて、笹川はようやくビールをいかにもうまそうに飲み干したという。
■リンク■
a. 096 ルーズベルトの愚行 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. ★★★「天皇と東条英機の苦悩」、塩田道夫、三笠書房・知的生き方文庫、H1.9
2. ★★「笹川良一研究 異次元からの使者」、佐藤誠三郎、中央公論社 H10.7
3. ★「正翼の男 戦前の笹川良一語録」、佐藤誠三郎編、中央公論社 H11.4
4. ★「私の見た東京裁判 下」、富士信夫、講談社学術文庫、S63.9
//////////// おたより ////////////
■ベルリン在住のTSさん(28才 女性 大学院生)より
こちらに住んでいていつも実感し、自分自身はがゆく思うことがあります。それは自国についてあまりにも無知であるということです。
例えば、戦争について私達はどのような教育を受けてきたでしょうか? 戦争についての解釈は、個人によって異なるとは思いますが、それ以前に日本人はあまりにも戦争について何も知らない人が多すぎると思います。
戦争は一つの例ですが、日本は島国という地理的条件から、最近は日本にも多くの外国人が居住するようになったとはいえ、日本人としてのアイデンティティを意識する機会はめったにありません。
新世紀を迎えるというのに、日本にはいまだに欧米神話があるように思われます。しかし、欧米を無条件に神聖化する前に、自国の文化に誇りを抱きましょうと、声を大にしていいたいです。実際、多くのヨーロッパの人々は日本の文化に関心を抱いています。
日本人は愛国心を抱くということに照れがあるのでしょうか? それとも、愛国心を意識する機会がないからでしょうか? このメルマガを一人でも多くの方がお読みになることを願います。
■ 編集長・伊勢雅臣より
海外に何年か住んでみれば、地球市民などという言葉が、いか にむなしいものか、実感できます。日本人としての誇りをしっか り持ってこそ、真の国際友好も可能となるという点は、笹川良一 氏がアメリカの元大統領ジミー・カーターの親友だった、という 事実が例証しています。(この点については、JOG(125)、JOG(126) でご紹介しています。)
© 平成12年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.